テキ屋さんが居ないのはちょっと寂しいが、、(文章を付加して再投稿) - 2012.09.08 Sat,10:24
動物や景色、花などを主に撮っていて、人間を撮ることが極端に少ないこのblogですが、久々の「子供ネタ」です。
眼の前で起きているリアルタイムな情景なのに郷愁を感じるのはなぜだろう。やっぱりここにはデジタル的な要素がないからかな。
僕の子供時代と違うとすれば、右の人が背後に底知れぬ闇が見えるいかついテキ屋のおじさんではなく、見るからに善良そうなおばさんだということでしょうか(爆)

子供心に、夜歩き回る(今じゃ終電にも子供が乗っていたりするが)事が許されなかった時代、唯一許されたのが、お祭りの時だった。
そして、何時も通学路で見慣れているはずの神社の境内が、灯りのなかで、ばりばりに「非日常感」を漂わせているのだが、境内の横にある脇道に行くと、漆黒の闇なのだ。
そう、最近都内で仕事をして、夜遅いと橋本に帰るのがおっくうになって、年取った母親も心配だし良く実家に停まっちゃっているのだ。今朝も実家から更新している。
僕は実家のそばにある「東京のへそ」といわれる杉並区の大宮八幡宮のそばで育った(大宮幼稚園に行ってた(爆))から、あそこは都内だったけど昭和30年代は実に自然が豊かだったのです。
だから、ちょっと脇道に行ってその闇の中に入ると、やっぱり日常の夜で、喧噪も遠くなり、言い様のない不安に感じちゃうのに、境内に戻ると昼間の様に明るくなっていて、いろんな屋台が出ていることに、再びすごくテンションも上がっていた記憶があります。
子供心としては屈折していたかもしれないけど、明るい境内に居ただけでは感じないものが脇道の闇を見てから戻ると、なんか違ったのです。
そう、だいぶ思い出してきた、脇道にそれると、虫の鳴き声が喧噪より大きく聞こえていたんだ。
で、お祭りに戻ると、虫の存在なんか忘れるような世界に戻るから、やっぱり日常と非日常のギャップを、闇と灯りだけでなく、耳で感じていたのだと思います。
音楽をやるうえで、もともと沈黙という宇宙があって、そこに音がぽつんぽつんと存在して居るという基本概念みたいなものを意識したのはこういうお祭りだったのかも知れません。
だから、音楽をする(演奏でも作曲でも)とき、ポジの部分の音を出すということが行動のすべての様に思いますが、その裏にある、無限の沈黙が横たわっているというネガの部分は僕にとって大事という以前の問題かな。
昨日の様に、自分の部屋とか、ヘッドフォーンとかではなく、大きなホールの静かな空間の中で鳴っているorchestraの最弱音の中に包まれていると、スピーカーから日常空間の中で音楽を聴いているのとは別世界でしょう。
その原風景が僕にとってはお祭りの縁日だったのです。
話はどんどんものすごくそれるけど、昨日弾いたドビュッシーの「夜の香り」とか、ピアノ曲の「版画」の二曲目の「グラナダの夕べ 」に於ける、「夜っぽい音楽」の空気感の原風景は、ドビュッシーの意図していたものとは全く違うものであろうけど、たぶん僕にとっては、このお祭りの時の闇と灯りのcontrastだと思います。
たまたま、グラナダには一度旅行に行ったことがあって、その時、夜歩き回っているときには頭の中に版画の二曲目が流れまくっては居たけど(爆)、まさに昨日また別の「夜の香りの音楽」を弾いたあと、もう一度この記事の写真を見ていたら、実に個人的な思い出が蘇ってきたんです。
灯りに照らされた屋台のあちこちに、子供を相手にはしているけど、にこりともしないちょっと怖いおじさんが居て、大人達には、「悪い事をすると連れ去られるよ」とまでジョークを言われていたのですが(爆)、そのおじさんたちを普段近所では見かけない人たちだったので、そのオーラの奥にある、子供には理解不能な闇みたいなものや、同じ場所に住んでいないのだろうな、というなんか、そのころからジプシー的なものにあこがれていたのか、すごく金魚すくいや綿菓子、林檎飴など、あの灯りの中に存在して居るものはすべて子供向けなのに、テキ屋のおじさん達の雰囲気、普段幼稚園や小学校の先生達の”ウェルカム感”の無い感じに、怖さと共にあこがれを感じていました。
だから、この写真のおばさんの何とも言えない子供に歩み出しているオーラはほのぼのとして良いのだけど、かつてのそこにあった、独特の雰囲気とは違和感があるのです(爆)
ちなみに、この写真は、大宮八幡とは関係なく、先月大阪の四天王寺で撮りました。
写真は各々clickすると大きく見ることができます。
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● COMMENT ●
祭りは本来集団お見合いだったわけで
確かに
お祭りは、ちょっと大人の世界を垣間見る時でもありました。
女の子は、着物を着せてもらい、口紅をひいて、
お小遣いをもらい 出かけます。
金魚すくい のほか、普段買えないおもちゃ 仮面
アクセサリー きらきら光る指輪なんぞに憧れたものでした。
射的もあった!
田舎のお祭りには、ちょっと妖しいものもありましたよ。
覗き絵とか・・・
そして、屋台のはずれの暗闇は、お酒を飲んでいる人がいたり、
なにか舞台の裏のようなものが広がっていますね。
音楽でいうと、沈黙の宇宙かあ・・・素敵な響き!
沈黙は何も無い ということではないのですね!
まず、時間が流れてる。音を支える空間がある・・・まだある?
お祭りと音楽を結び付けている 白石さんの発想に興味を持ち、コメントしました!
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その前に「通過儀礼」といって、特に男は大人になるための試練を課せられてそれを全うしたものだけが祭りに参加することが出来たわけです。
故に、今で言うクラブみたいな状況と同じかも知れないけど、喧噪の中でテンションを上げて、恋人を見つけるという場所でもあったわけで、少々怪しいというのは、酒とうるさい音楽とダンスって、まさに若い奴が行くクラブとおなじでしょう。
だから、男も女もめかし込んで、非日常の中で盛り上がったわけです。
先日演奏したドビュッシーの中にも祭りの音楽の合間に二小節だけおそろしく時間が止まったような箇所がありました。
あの瞬間、幼稚園の時にある色のクレヨンを画用紙全体に塗って、そこに別の色を塗って、そのあと、表面を優しく削ると下の色が見えることによる絵を描いたことがありましたが、まさに喧噪の音楽の後ろには、違う音があるという世界でした。
ジョン・ケージという現代音楽の作曲家が、スキャンダルを起こした「4分33秒」という、まったく演奏者は何も音を出さずに終わる、という曲がありますが、それは、まわりにいろんな音がなっていることに、気付よ、というメッセージでもありました。
日常の音の価値に気づくのも、こういうお祭りがあればこそなのかもしれません。