Tubaは白象、それを吹く古本大志君は、、 - 2011.04.30 Sat,12:15

で、実に奇妙な一行の文章が作品の最後にあるのです。
ずっと物語を聴いていて(読んでいて)、この一行で終わるというのはたぶんびっくりすることでしょう。
“オツベルと象”をネットで探すと、今は全文を参照出来るので興味のある方は覗いていただきたいけど、これは、原文では一字不明らしいし、誰が言っているのかも解釈の仕様によっていくつも可能性があるでしょうが、今回僕が作曲した作品では、読むわけじゃないので、「一字不詳」ということを反映するつもりはありませんでした。
なんらかの言葉を当てはめれば、それに反対する人もたくさん居るかもしれないけど、うやむやにする意味がないし、僕の選んだ言葉の根拠は、第一に、最初に遭遇した時(中学校の教科書)にはっきりそう書いてあったし、その解釈が一番自然だと思ったからです。
で、誰が言っているのか。
こんな意味不明の最後の文章は、今まで僕が書いた、“どんぐりと山猫”にも“セロ弾きのゴーシュ”にも“注文の多い料理店”にもありません。
で、この作品の冒頭に、本文に入る前、題名のすぐ後ろに、なんと言うか、副題の様に記されている言葉があります。
これも読むのと、朗読しちゃうのではなんかニュアンスが違って来るのかもしれないし、実は初項では題名とその副題は読まない事にしていたのです。
でも、その「副題みたいなもの」、あえてここで書いてしまいますが、「ある牛飼いがものがたる」というのが、僕には最後の一行につながっている様に思うのです。
ここでネタバレをさせていいのかという意見もあるかもしれないけど、このblogを見ている人のほとんどがこの公演を見に来てくださるとは思えないので、書いちゃうし、それを知ったから問いってこの作品を楽しめないとも思えませんので。
つまりこうです。
この記事の題名にあるとおり、Tubaは登場する白象の象徴です。
で、演奏する古本大志君は牛飼いの象徴なのです。
だから、前の記事の写真と彼の表情の違いで、その立場の違いを表現してみました(爆)
故に、曲のあちこちで彼がちょっとだけ台詞を言うのと、楠定憲と高山正樹が言葉を発しているのは立っている場所が違うのです。
だから、それが最後のまったくこの物語と関係ない一文につながります。
知らないで聴いていたら「?????」て終わり方ですからね。
すごいよ、今回の古本君は色々な役割があるわけです。
じゃ、Bassの稲垣護さんはなんなのですか?
彼はTubaと比較すれば、オツベルの象徴でもあるけど、すべての作品の言葉のrhythmを統括する「空気」みたいなものです。
MainのThemaはBassにあるし、たぶん、一番沢山演奏し続けて、鳴り続けているのはBassです。
だから、ほぼ1時間(いつのまにか、BeethovenのSymphonyのほとんどより長い作品になってしまった(爆))の作品の演奏中、最も気が抜けないのはBassかもしれません。
これは無理矢理やればPiano一台でも演奏は出来るかもしれないけど、BassもTubaも無ければほとんど本当の意味で成立しない音楽です。
じゃあ、僕の弾くPianoは?
ううむ、作曲家である僕もよくわからない。
背景でもあるし象にもなるしオツベルにもなるし、pianoは「お囃子」ですね、きっと。
僕は4/9に初めて聴衆を前にしてこの作品の試演会をしたとき、誤った解説をしました。
それは、語り手二人の、役割分担についてです。
たしかに、オツベルと白象の役割分担は、はっきりしています。
前者が楠定憲であり、後者は高山正樹です。
でも、それ以外の部分、普通の朗読ではあり得ないほど、一つの文章を、二人でリレーして言ってみたり(二人は離れて座るので、stereo効果が出るはず)、同時に同じ事を言ったり(unison効果)、時には輪唱(canon)みたいにずらして言わせたり、一人で語ることでは出来ない仕掛けが満載で、どっちかというとそっちの方が多いですから、あらかじめ、そういう役割である事を説明してしまったので、それ以外の部分の「二人の役割分担が分からなかった」と試演会の後に言われた時には、「しまった」と思いました。
通常、二人居たら何らかの「役割り」があると思う訳ですから。
それがあれほどめまぐるしく一つの文章を二人で読んでいたりしたら、頭の中をかき回されてしまうことでしょう。
Wienの表現主義の時代の作曲家、Anton Webernという人が編曲したBachの6声のricercareの冒頭から、Themaのmelodyを一つの楽器ではなく、様々な楽器が受け継ぎながら演奏するという手法があります。
「音色旋律」という言葉だったかな、音色も徐々に変化するという面白さが、melodyの展開の構造とともに重視されているのです。
僕はそれに似た事を、語り手(この言葉は危険だ、語ってない部分もあるから)にやらせているので、芝居でいうところの「役割」を完全に失っているわけです。
失っていると書くと、とても無秩序に思うかもしれませんが、Soccerの好きな人だったら、この例えで、すぐに分かるでしょう。
1970年代初頭までのSoccerでは、FWは攻めてシュートは打つけど守らないでよかったし、それは他のポジションもそうでした。
自分の与えられた役割だけをやるものだったのです。
攻める人は攻める専門、守る人は守る専門。
それを、1974のMünchenのWorld Cupで大旋風を起こしたHollandのsoccerは、Total Footballといって、ポジションが現代のサッカーそのものの様に、流動的になりました。
前で攻めている人も守るし、後ろで守っている人も時に攻め上がるのです。
だから、役割が随時入れ替わるし、その感じに似たものが今回の「言葉」担当のパートの二人に課せられているわけです。
明日、どういう演奏になるか実に楽しみです。
もう4/9の時点と恐ろしくみんなの余裕と、自動運転的な表現(もうすべて言葉が音符に乗っている事とか、変拍子の嵐の譜面の縛りからはかなり解放されているので)が出てきているので、僕の思った通りのことと、僕が思う以上の事が必ず舞台で起きることを期待しています。
普段自分のこのblog内の“オツベルと象”に関連する記事にlinkをはっているから、今回は、こっちのblogの「“オツベルと象”」というkeywordで引っかかるページを紹介します。
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