予定外の Jam session - 2011.04.21 Thu,21:47

蛾の記事ではありません。
本来今週は僕は岡山県の牛窓というところに行っている予定でしたが、諸般の事情で来月に延びました。
でも考えたらそうならなければ、今朝、大げさに宣伝をした公演が控えている、“オツベルと象”のRehearsalを今日出来なかったので、ありがたかったです。
というのも、みんな忙しくて出演者全体が集まれるRehearsalは今日が最後だったからです。
勿論本番まであと欠員はあっても何度もやりますけど。
ですから、今日は音響と照明のスタッフが見学に来て下さり、僕らとしても初めてフルバージョンの編成で通しました。
自分は今まで何時も居ない楽器の部分を弾いていたので、初めてPianoのパートを弾きましたら練習が出来て無くて難しくて全然弾けてないところがたくさんあることに気づきました(爆)
で、朝から練習していたのですが、午後の早い時刻に別の場所に移動しなければいけない人々がたくさん居たので、昼過ぎには全体練習は終わってました。
語り手(実は今回の作品は、「語り手」ではなく「言葉」という楽器としてプログラムには刷られている)の一人、高山正樹が去った後、なぜか、Bassの稲垣さんがおもむろにPianoの前に座り、弾き始めました。
すると、Tubaの古本君が、Bassの所に行き、妙なセッションが始まりました(爆)
どんな感じの展開になったかは以下の写真を追って見てください。
だんだん表情が変化していくのが分かります。
それがそのまま音楽の内容に反映しました。
古本君は、Tuba奏者ですが、CHICAGOというMusicalでBass持ち替えという指定だったのでその公演から独学でBassの弾き方を学びました。
再演もあったし、なかなか楽器にも慣れてきて、この異種格闘技戦もなんかだんだん様(さま)になってきたのです。
ほとんど写ってませんが帰る直前のもう一人の語り手の、楠定憲の嬉しそうな顔。
この時点ではTromboneは持って居ても、傍観者でした。




他の仕事じゃあり得ないだろうけど、音楽家同士はほとんど年齢の差を意識しません。
(あまりに下手な奴が来たときにそれが浮き上がったりするのだ(爆))
こういう笑顔は本当にいいね。

しかし、いつの間にかこういう自由度の高いプレイが出来るようになったんだね、すばらしい。
初めて弾いたのが2008年なのにね、そして当たり前だけど、そういう公演が無いときは全く触ってないのだから(爆)
今回の出会いが面白いのは、Trombone奏者ではない役者の楠定憲が、練習中、Warm-upの仕方とか、吹き方のtipsをTubaの古本君からアドヴァイスをされたり、さっきは、bassの弾き方のアドヴァイスを古本君が稲垣さんに二言三言されていたのが面白い。
無料でLesson受けてるよ、みんな(爆)
そういえば、僕ももともとaccordionは楠定憲に弾かせようと、30年来の知り合いの彼に初めて鍵盤の弾き方(主に指遣い)を半日教えた日もあった。(こんな単純で複雑なこと鍵盤上でしてるんだね、と驚きを持って感想を言われたのが面白かった)
そのうち、役者の楠定憲も、たまらず、参加し始めました。
この写真を撮った後僕も、遅ればせながら、地面に転がっていたAccordionを拾って、参加しました。
今思えば、それ録音しておけば良かった(爆)
すっごく楽しかったよ。
“オツベルと象”の練習の後の一コマでした。
というか、こんな事をする余裕が出来たくらい、ちょっと流れが通し稽古で見えてきたのです。

で、実はこの後、僕がPianoの所に行き、Jazz師匠の稲垣さんが自分の楽器に戻り、Bluesのセッションが始まりました。
すると、古本君はTubaに戻らず、楠のTromboneを奪い取り、延々、15分から20分近く演奏し続けました。
(そう言えばこの日も彼はTromboneを吹きまくっていた(爆))
おかげで、早く帰るはずの人たちがちょっと遅くなりましたが、なんかこの瞬間、小難しい曲で頭が疲れ果ててて居た(誰の曲だ(爆))みんなの気持ちが恐ろしく開放され、高揚しました。
どっちかというと、僕も古本君もClassic側の人間ではありますが、二人ともMusicalの仕事で知り合った人たちとその仕事の中でも、そしてそれを離れても、普通のClassicだけ演奏する人たちと違って、ad.libすることにそれほど、躊躇や照れはないので、聴いている人もいないし、思い切りできました。
ああ、面白かった、、、、。
この時間を通じて凄く実感しちゃったことがあって、長くなりそうだから、こっから先興味の無い人が見ないで済むように、それは追記に書きます。(長いし、独断と偏見に満ちているから来る必要はありません(爆))
もちろん、本職の人が聴いたらちゃんちゃらおかしい演奏だったかも知れませんが、僕が弟子に良く言うことが反対の立場の自分に実に実感できました。
それは何かというと、「例え最終的に、独奏することになっても、音楽の本質は一人でやるもんじゃない」ということです。
なんか当たり前の事を書いているようですが、じゃあ、誰かと音楽することが大事と単に云いたいのではありません。
可能なら、です、自分より上手い人と共演することが自分を高めること、あるいは、自分が気づかない自分の可能性を弾き出すことができるということです。
僕も常に悩んでいることですが、僕の教えている人たちも、自分の演奏にコンプレックスを持っている人は沢山います。
で、同じ道をかつて通った僕が、その状態をすこし先から見ていると、そこで「下ばかり見ないでちょっと上を見上げて視野を拡げる」ことができたら、その瞬間飛躍できるし、その悩みの本質はすぐには払拭できなくとも、その時感じる苦しみからはかなり開放されるどころか忘れてしまうことだって瞬間にできることがあるんですが、なかなかそれを口で言って納得はして貰えない。
悩んでいる人に、本人が言うほど酷い演奏じゃないのにと云うと、誰か特定の人ではないのだが悩み出すとみんな一様に「私はまだ駄目なんです」的な事を云う。
そういうのを聴くと、じゃあ何時駄目じゃなくなると思うのかなと何時も思います。
同じ視点、同じ環境に居たら永遠に変わらないと思うのです。
自分だけですべてを完結させようと努力することは王道の様に見えて、実のところ、野原を下を向いて歩いている人のごとくで、そらにはいろんな美しい鳥が飛び、周り中すばらしい花が咲き乱れていることに気づかず、たとえちょっと見えても、その中に飛び込んでいけるとは考えず、常に傍観者のままでいたら、何時までもその意識の本質に変化は現れないと思うのです。
生物の進化に着いては明るくないけど、どこかで自分とは遠い血が混ざるから突然変異も生まれるかもしれないけど、それが進化に繋がってきたとも考えられるわけで、僕の経験で、ある日一辺に世界観が変わるというのは、自分の力ではなく、共演者や聴衆の存在が欠かせません。
アマチュアの場合(プロと称する人の多くもそれは悪い事ではなく当たり前なのだが)、自分が努力して、自分の納得する演奏をしようともがきます。
でもそれだけじゃ実らない事があるんです。
(だからといってがんばって努力することを否定しているのではない)
僕は合気道をやったことがありませんが、素人なりに今例えようとしているのは、相手の力を利用して相手を投げ飛ばすというやり方そのものが、自分のパンチや蹴りだけで相手を倒そうと考えることより、省エネというか、楽(という言い方は合気道が楽という意味ではなく、非力でも相手を倒すことができるという意味の楽k)に実現できると思うのです。
それが、有能な音楽家と一緒に音楽をすることです。
(ある意味仕事に疲れているプロやプロの予備軍は、たまにアマチュアの演奏を聴いて初心を思い出すのも大事)
僕は昔から宣言していてまだ実現しては居ませんが、20年以上、自分に習ったり自分の周りに居るアマチュアの演奏家達と寺子屋音楽会(かつては、「みんなの音楽会」という名称だった)をやっていますが、僕の周りに居るすばらしい、プロの演奏家の何人かに来て貰って、ピアノをやっているアマチュアの人たちと共演させたいと思っています。
独奏にせよ、伴奏の経験がある人にせよ、申し訳ないが、自分と同程度やそれ以下のレヴェルの人たちと「仲間意識」をもって演奏する喜びを否定する物では決してないのですが、その他に、明らかに自分を鼓舞する才能を持った「他人」と一緒に音楽をして、なんと言えばいいか「持ってかれちゃう」みたいな体験をして欲しいのです。
それは経験しないと分からない高揚感です。
それを今日、僕は感じました。
この中で唯一筋金入りのJazz Musicienは稲垣さんだけでしたが、おずおずと弾き出したお世辞にも「上手い」という形容詞では云い表せないPianoだけど、なんかJazzしているあの空気が、その後数十分みんなを巻き込んでしまったのです(爆)
で、自分はどうだったのか。
たしかに仕事でたまにそういうの普通のClassicの人たちよりは弾く事ありますが、たとえば、去年やったGuys and DollsというMusicalでは本当に尊敬できる共演者に恵まれ、そういう本職のJazzの人たちとJazzっぽいMusicalの演奏はしましたが、仕事で弾いているものから離れて、自由にぼけとつっこみみたいな会話を音楽で楽しんだわけではありません。
今思うとよだれが出るくらいファンキーなメンバーだったのですが、この人達とセッションしたら恐ろしく高揚するだろうなというのは去年の春先に(ちょうど今頃公演だった)初めて会った時から思ってましたが、僕が幸せなのは、素晴らしい才能と出会う運の巡り合わせです。
僕は技術的にも欠陥だらけの音楽家ではあることは重々承知の上ですが、僕の長所は、スイッチさえ入ればそのコンプレックスが、「守るべき物がないプライドもなにもない、挑戦者の気分」になれて、かつ、性格的にサッカーをやっていたときも、FWをやっていたので、自分で積極的にシュートを打ちに行く気分が充満しているところだと思っているので、挑発されたらとにかくやってみちゃうことです。
そういう僕だって妙にテンションが低くネガティブな考えに苛まれている時も多々あるので、悩んでいる人たちの気持ちは分かるし、もっと責任ある立場で弾くプレッシャーは時に酷い時もあるとも言えるのですがね。
それでまあ、普通のクラシックだけやる人たちに比べたら電子楽器もやるし、ジャンルが紹介されるときに良く分からないことになっちゃっているわけですが、、、(爆)
文章が長くなっちゃったけど、今日、僕は今まで何かが邪魔していて自由にこういうとき弾けないなと思い込んでいたことが、「そうでもない、俺は自由だ」と思えたことです。
自分一人でブルース・コードに従って弾いていても、こんな気分にはなったことはありませんでした。
僕が慣れてない人の伴奏をするとき、その人が一番歌いやすいように密かな調味料をかけるように弾いてあげて喜ばれるように、今日は逆の立場で自由に弾かせて貰いましたし、Tromboneを持った古本君のテンションの上がり方ったら彼の知り合いが見ても大爆笑だと思いました。
しかも、なにかその辺に落ちていた物体を掴みMuteに使っていたりしたし(爆)
Classicの曲なら、すぐに終わりは来ちゃうけど、今日はずっと飽きるまでBluesを循環していました。
こういう時こういうジャンルって良いよね。
Tromboneを取られた楠氏は、そのうち、僕の横に転がっていたVuvuzela(たぶん使う余裕はなさそうだ)をメガホン代わりに譜面台を叩き始め、Percussion奏者として参加していました(爆)
定期的に稲垣さんに来て貰ってセッションすると僕もアマチュア・ジャズ・ピアニストとして何曲かレパートリーが作れるかなと思いました。
なんか、今日はピアノのお稽古をつきあって貰った感じがしました。
何にも云って貰ってはないのですが、持ってかれちゃう感じですよ。
そうです、僕にPianoの弾き方を教えてくれたのは、もちろん、10代の頃に習っていた先生のおかげですが、それ以降は、基本的に、伴奏についていって、そこで出会った独奏者や、Lessonの折りに「Pianoの弾けないそれ以外のジャンルの人たち」のアドヴァイスなのです。
「僕は弾けないから弾いてみせられないけど、その音はきっと出し方が違う」みたいな言い方で育ちました。
だから全部自分で考えないといけなかったわけで、今Lessonで迷っている人たちに「自分で考えろ」とは言えずに、せっかくお金貰ってるから教えてあげなくちゃと、これが親切なのか正当な貨幣価値の交換か良く分からないのだけど親切に教えているつもりなんですが(爆)
ただ、それは、僕に習っている人でプロを目指している人が居ないという前提だからかな。
もしそういう若い人が居て、しかも可能性がある人がいたら、きっと僕はもっと教えない代わりに、色々現場を見せてやって勝手に吸収してみろと、云わなくてもチャンスは与えるだろうな。
それで気がつかないなら、失望もするし、自分の代わりはさせられないけど、その分僕の仕事は弟子に奪われないからいいや、って思うか(爆)、わからんが、今日何が面白いって、誰も躊躇しないで自分の専門の楽器以外を弾き出して面白がっていたことです。
好奇心というか、なんでも面白がる精神というのは僕の作曲の中にも充満しているけど、当たり前だと思われている路線を歩くことが安心するのではなく、やってみて面白い発見をすることが人生の喜びだと思っているので、今日はそういう「同類」となんか濃密な十数分ができて嬉しかったです。
人間、負荷をかけられないと何も変わらないのです。
今日みたいなこの状況を、悩んでいる僕の弟子達に見せたかったなあ。そして参加させたかった(爆)
何かが変わったときって生きてて良かったって思えるんだけどな。
仕事で音楽の演奏してない人が趣味の演奏で悩んでいるのを見ると本当に辛い。
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そうか
こうして気づいていくことは素晴らしいと思いました。
それが進化だと思いました。
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確かに気づくという事は外的刺激のおかげなので、閃きは自分一人の想像だけでは成り立ちませんからね。
この記事の後、昨日も練習していたのですが、練習の質が変わって来たのも面白い変化です。
役者達が音符との格闘からかなり開放され、今度は僕が彼らの語りに合わせるように、彼らが制限のなかで表現を模索しだしたのです。