新たな着想、そしてその検証、その繰り返しでどんどん“オツベルと象”は観客の耳に届く前に育つ - 2011.03.10 Thu,10:54
僕としては(役者達の感想はまた別にあると思うが)実に面白かったです。
こういうやり方をとれば絶対にこれは「朗読」とか「語り」という範疇で捉えられないで済みそうです。
音楽家だったらこんなのは完全に言葉を使った音楽遊びだと思い、まあ面白がってくれるとは思うけど、それほど変わったことをやっているとは思わないでしょう。
一般の聴衆や演劇畑の人にとっては、特に後者の人たちにとっては、普段あまりやりつけていることではないので、これを実現するのは最初に拒否反応を示す人の方が多いのだろうなと思います。
だって役者が持って居る普通の感覚で自然に読めないから(爆)
そういう人たちは、朗読を音符で時間を支配されることがすなわち、自由を奪われると思い込んでいるからです。
でも時間軸に支配されている事が、訓練して、それが一つに型となり、舞台で鮮やかにやってみせたとき、それが「技」になることは、ダンスや音楽の世界では当然のことであります。
芝居でも、きっと殺陣はダンスに近いそういう世界でしょう。
もちろん、こういう台詞のやりとりを、音符を介在しないでやっている人たちがいることを僕は知っていますが、ミュージカルやオペラに関わる人たち以外は、こういうやり方を自然に最初に思いついたりはしない。
そういう僕だって数日前までは、この作品の設計のなかで、「言葉にあるリズムはそのまま自然に読んだ場合でも変拍子になっているからそれをそのまま普通に読んだものを音楽が強調する」様にしようとだけ思っていた訳です。
それは役者に、ただでさえ、音符で一定の拍子で書いてないから、これじゃ絶対に本番客席を向いて喋るなんてことは出来っこないから、それだけでも気の毒なので、一見(一聴だけどそんな言葉無いから)「難しく聞こえる構造でも、実は台詞は普通に読めば成立するように書くべきだ」と思っていたからです。
でもどうせ音楽が今までの作品以上に言葉(敢えて、語りとかナレーションとかじゃなくてこの言葉そのものがこの作品の場合はふさわしいみたいなことを、高山正樹は言っていた)を支配しているんだからこうなったら、徹底的に、TubaとPianoとBassに、言葉という「器楽」あるいは、「合唱」のパートを音符優先で並べてみようと数日前の夜中に、ここに書き殴っている間に(本当に書き出す前はたんに、進捗状況を報告するつもりなだけだった)むくむくと、アイデアが湧き出てきたので、昨日も最初譜面を見せたときは、その受け取ったときの役者達の顔ったら気の毒なくらい無かった(爆)
今まで僕が作曲した作品は音楽家は相当練習しないと弾けないものもあったし、そりゃ役者の方だって相当音楽寄りで苦労はしてきたけど、今回のは、まさにフェスティヴァルの事務局が僕らの団体を去年までの二回は「演劇」の範疇に入れていたのを、今年は「音楽」の範疇に移籍させたのが正しいと思われるように作り上げていこうと思います。
初演を聴いて下さる方にしか通じないけど、人間の声というのは、内容の「意味」を伝えるためにだけ言葉があるのではありません。
どんな器楽の持って居る表現力を凌駕するような、音色や、言葉に内在する原初的なリズムとかがあって、「朗読」とか「語り」というレッテルが貼られていると、「言葉が聞き取れない」という感情が、その発生する音より先に来る場合があって、実際、朗読だけだったら、聞き手はその発声の中に、意味を求めるのは当然です。
Operaのアリアなんて場合に依れば歌詞の意味なんか知っている人にとってはとても意味があっても知らなくても歌手の歌唱力とメロディーやハーモニーの力でみんなを感動させていることはそこかしこにあるわけだし。
そう言えば、僕が高校の頃、失恋したとき、演歌や歌謡曲より、シューマンのドイツ歌曲(歌曲集「詩人の恋」)を聴いて恋愛の涙を流したのは、ちっとも気障な理由ではなく、すぐには理解できないドイツ語で語られていたから、僕の耳や感情には、直接歌詞の「意味」が先に飛び込んでくるより、シューマンの書いた音楽が、ハイネの詩を数倍にも価値を引き上げている要素が先に来るから、後で意味を知り、それを知って自分の置かれた状況に感情移入し、練習しながら泣くことができたのだけど(爆)、それでも、歌詞の意味よりはというより、歌詞の意味と融けて、歌手の声やピアノの音楽に包まれている感動は、その詩を読んだだけではそんな感情はきっと生まれてこなかったということは確信できます。
歌謡曲や演歌では、余りに意味が直裁的に脳に入ってくるので、とってもそんなのを歌ったり(べつにシューマンを歌ったわけではないが)頭の中に鳴らすこと自体が恥ずかしく、生々しくて嫌だったのです。
しかしながら、残念なことに、実に矛盾しているのですが、自分が歌詞のある音楽と対峙しているとき、僕はまったく歌詞を記憶の中に留めることが出来ません。
Pianoの曲を一時間分暗譜するというのは(若い頃に比べたら格段に落ちてるだろうけど)それほど難しいことではなかったのに、小学校の頃6年間学校にいたのに校歌の歌詞はついぞ覚えませんでしたし、よく同窓会で集まるとそういうのを歌ったりする人いるけど、メロディーも歌詞も覚えてない。
だから、日常僕は普通の人の様に、鼻歌を歌うこともメロディを口ずさむことはあっても、曲に歌詞でシンパシーを感じることは一切無いのです。
だからMusicalで稽古ピアノをして一ヶ月以上弾いていても覚えない。
大学に進学するとき、音楽のコースに行かず敢えて演劇のコースに行った時、暗譜が全く苦手ではなかったから、台詞も、振り付けも、覚えることはきっと初心者とはいえ、同じスタートラインに立った他の人たちに比べて苦労はないと思っていたら、、、、、、、、酷い、、、、もっとも覚えが遅く酷い劣等生だったのは僕に他なりませんでした。
まったく、振り付けを覚える脳の場所が違うと思うのです。
だから、Musicalで稽古にpianoでつきあっているとき、ダンサー達が、その場で新しい振り付けをどんどん覚え、翌日もすぐ再現できているのを見るのは、僕にとってpianoの弾けない人が「両手別々の事を弾いていることが信じられない」と言って貰うのと同様に奇跡なのです。
きっと歌詞というか言葉には全く興味はないのかと思いきや、こうやって自分の書く音楽はかならず歌詞が(台詞でもあるが)あって、その言葉についてどういう音楽をつけるのが一倍良いか日夜悩み続けていることが本当に幸せであり、演奏した後、様々な感情と想像が聴衆の心の中に浮かんだときが一番幸せという、実に一貫性のない生き方をしています。
つまり具体的なものを提示してないから、想像でいろんな形を一人一人が心の中に思い浮かべる余地があるから、面白いのです。
象がTubaというのはベタな発想だけどね。(爆)
今回の音楽の中にも象の足に巻き付けられた鎖がガチャガチャ言う音とか、稲こき器械が唸っている雑音とか、オツベルや百姓達が驚く音とか、象の大群が疾走する音とか、月夜の晩に象がお祈りをする静寂さとか、全部アナログなPianoとTubaとBassと声の効果で表そうと必死です(爆)
僕の音楽には言葉、あるいは劇的状況が背景に存在しないとたとえ、それが器楽だけの音楽(の場面)であったにせよ成立しないのです(爆)
さあ、今日は本格的にTubaとするリハーサルの初日です(最初の練習のときは初見で吹いてたから)。
どういう新たな着想がそこで生まれてくるか楽しみです。
これは、昨日、雉の写真を撮っているとき、下を見たら咲いていたので、ついでに撮りましたが、ついでに撮ったこっちがピントがあって、雉には全く合ってませんでした(爆)
もちろん僕の技術のせいだけど、もしかしたら雉の色が保護色になっていて周りの枯れ草と区別が付かず、オートフォーカスが悩んだのかも知れないね。
今になって気づいたけど、これからはもっと、オートフォーカスに任せることだけでなく、マニュアルのピント合わせにも挑戦してみようと思います。
今日も八王子に行くからLessonや練習の前に雉を探しに公園にいっちゃおうかなあ、、、、そんな時間はないか(爆)
どうやらこの椿の花の種類はバレンタインデーという実にお目出度い名前みたいですね。
雉を撮ったのと同じレンズなのに、こっちは綺麗にボケが入ってるよなあ、、雉の背景は被写体と近すぎるからしょうがないが、どうしてあんなにピントがぼけてしまったか、昼で光はたくさんあったのに、、、。

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高校の時、僕はある教師から、あんたは器用貧乏だからねと言われていた。最近、それを絶望的に理解しているんだな。
さらに、言葉を操ることにも、実に深い世界が存在する。その意味から言えば、今回の試みは、明らかに役者としての自由、というより可能性を奪われているということも確かだ。そのかわり別の可能性を獲得しているということもあるけどね。
つまり、語りによって到達できる「高み」の一部を放棄している。それはそれで認めなければならないだろう。そしてそのことを決して忘れてはならないと、ずっと役者として生きてきた僕は思っている。でないと、芝居に対して失礼だからね。
だから、役者としてもがくこともしなければならない。それを抜かしては本当の意味でわれわれの目指している何物かには手が届かないからさ。
音楽に対しても、演ずるという行為に対しても、同等に謙虚でなければならないと思っている。
願わくば、それ以外のことを考えている脳みそは全部頭蓋骨から取り除いてしまいたいのだが、なかなかそれができない今日この頃……