宮沢賢治原作“どんぐりと山猫”について - 2006.02.17 Fri,16:40

この記事はかつて別の場所で運用していた演奏会専用ブログに投稿していたものですが、そちらのブログを閉鎖する為にこちらに移植するものです。
そのブログが記事のバックアップができないゆえ、本文は元々の投稿日時に指定しましたが、コメントの転載についてはその投稿日時は全く正確なものではありませんので、それは今後投稿するたびに文末に記述することにします。
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この作品は宮沢賢治の原作による語りと音楽の為の自分の作品であるが、そういえば内容についてはあまり書いたことがない。
外面的にどういうきっかけで書いたかとか演奏記録については該当ページを作っているが、原作についての「読み方」については、共演者と語り合ってきたにすぎない。
ちょうど知り合いのたなか秀郎氏のブログにこの作品(もちろん賢治の原作)についての一文がでた のでそれに対するトラックバックとして、この原作についての自分の見解を以下に書いてみようと思います。
書くという行為は思考を呼び覚まし、実は自分の中で新たな発見がありました。
それ故、「演奏会専門ブログ」と銘打ったこのページに新たに「作曲ノート」としてカテゴリーを一つ増やしました。
結局は昨年作曲した“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”についての見解も比較対象として言及することになりますから、記事のタイトルはふさわしくないかも知れません。
この記事については元記事があって触発されて書いたことゆえに、これから書いてあることを読む前に、たなか氏のブログを読んで頂いた方が良いと思われます。
もちろん、それより前に“どんぐりと山猫”、及び“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”の原作を読まれることは条件ですがm(_ _)m
最近は著作権も切れているのでネットで検索すると全文参照することができます。
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たなかさんの文章はそのまま僕の作曲した音楽の解説文になると思われるほど、自分にとっては国語の時間に先生の説明が自分の思っていたのと同じで嬉しがるのと同じ感想を持ちました。
別のページでたなかさんが、拙作を「透明な人形劇」 と評して下さいまして、それも照れずに言えば自分の指向している世界観の様なものを客席から看破してくださった気がして、本当にありがたい理解者を得た幸せを感じています。
物語の最後、なぜ一郎のものに再び「はがき」が来なかったのか、というたなかさんの解釈についてはたしかにそのとおりだと思います。
でも、ちょっとそれだけではなく、ちょっと考えすぎの深読み(爆)と言われてもしょうがない僕の見解を、その「模範解答(決して皮肉を込めているのではありません)」に対して書いていこうとおもいます。そうじゃなければ改めてこうやって記事を書く意味がない(爆)
裁判をすっきり解決した一郎の「このなかでばかでめちゃくちゃでてんでなってなくてあたまのつぶれたようなやつが一番偉い」という言葉は、たなかさんの記述しているとおり、この童話を「寓話」にしたてる重要な台詞に思われます。
しかしながら、実は「本当に一郎がそういう価値観でいるのか」裁判後、山猫は一郎をさまざまな問答の中で試しているのであって、判決理由のアドヴァイスは結局一郎が「伝聞」で聞いたことを山猫に伝えただけで「本当に自分の価値観」ではないことをついには看破され、その結果山猫に嫌われてしまったゆえ、二度と山猫から手紙が来なかったのだ、と僕は今回文章にするにあたり、考えるようになりました。
もちろんそんな解釈は作曲当時や今年になるまで持ってはいませんでしたが。
ストーリーの最後で「やっぱり出頭すべしと書いても良いと言えば良かった」なんて一郎は思っていますが、実は一番大事な問答は、裁判のお礼に「金のどんぐり一升と塩鮭の頭」の選択を迫られたときなのです。
裁判では一般常識のせめぎ合いの原因である「価値観」をひっくり返した一郎ではありますが、お礼をもらう段になって、金銭的に価値があると常識的に思われる方(金のどんぐり)を選択したとたん、その瞬間から山猫はあくびをしたり、一郎に突然無関心になります。
しかも、予想されたことではありますが、結局金のどんぐりは一郎が現実に戻った時点で色褪せます。
あのとき、塩鮭の頭が欲しい、ともし解答していたら結末は明らかに違ったと思われます。
悲しいのは、一郎は最後までその事実に気づいてないと言うことですし、もう一つの選択肢は、常識の世界に生きている一郎の中には絶対にありえないものだからしょうがないことなのです。
山猫の罠にまんまとはまったことなのです。
それこそが賢治の蒔いた「毒」で、この作品がある意味、裁判の決めぜりふの寓話風なポイントより、その事に於いて相当に読み手に対して挑発的な作品だと自分は思ってしまったゆえんです。
では山猫はなぜ、一郎を「試した」のでしょう。
そこには「一郎という登場人物の基本的な役割」について観察する必要があります。
*********
この一郎という登場人物は物語の中の他の登場人物と比較すると「特殊な次元」に立ってこの物語に関わっているというような気がしています。
この物語の主人公は誰なのか、と問われると“セロ弾きのゴーシュ”におけるゴーシュだと即答できるように一郎をあげることはどうも素直に思えないのです。
確かに物語の中では「出ずっぱり」なのですが。
一郎は登場人物ではあるのだけど、「読み手」というか「観客」の象徴なのかもしれないと僕は思っています。
能でいうところの「ワキ」みたいな存在(つまり恐山のイタコの様に、あの世の人と現実世界にいる人とのメッセージのやりとりをする翻訳者、だからわけるという言葉から派生したわけだ)と言えばよろしいでしょうか。
そう考えると能のシテ(するひと、という意味ですねこっちは)にあたるのは山猫を初めとする「異界」の人たちでみんなシテがかぶっている「面(おもて)」のように、動物や植物しかでてこないのは、そういう事故なのかもしれません。
馬車別当は人間ぽいけど、やはり「異形の人」でしょう。
“注文の多い料理店”のラストシーンで山猫軒が消え去って「現実」に戻るときに、狩人と、死んだはずの犬たちがが二人の紳士を迎えに来ると、なぜかほっとしますね。
あれは、言葉を喋る山猫やその子分達とちがって、喋らないで吠えるだけの「現実に存在する」犬や普通の人間が目の前に現れるから、悪夢から覚めたという実感を表しているように思います。
でも一郎が遭遇する馬車別当には、俺なら山の中であの風貌で鞭をもっていてにらまれたらまず逃げます(爆)
しかし一郎は全然恐怖を感じてないし、自分から会話を始めてしまう。
それは夢を見ていて「これは夢だからビルの屋上から下に飛び降りても大丈夫なんだ」とどこか納得して飛び降りる(良く見るんです)のと同じような動機に感じます。
“セロ弾きのゴーシュ”にも人間と動物が入り交じってでてくるけど、言葉を喋る動物たちはみんな草木も眠る時刻にゴーシュを訪問してくるというのも、異界の住民達が活動しうる時間帯に次元を超えてやってきてゴーシュになにか働きかけている様に思えます。
しかしながら、動物たちも人間達も、“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”にでてくるすべての登場人物には「同じ次元に存在して触れあっている」という「動物と喋ったとしても、それが当たり前に思える存在感」、そして「おのおのとても豊かな感情の起伏があること」を感じるのです。
しかし一郎は徹頭徹尾、醒めた目であの山の中の出来事を見ているようでなりません。
“ヘンゼルとグレーテル”しかり、“ハリー・ポッター”しかり、やはり“森”というものは、恐ろしいものが住んでいるから、子供は独りでその中に足を踏み入れることはタブーである、ということは洋の東西を問わず良くある一種の常識なのに、一郎は朝ご飯を食べてすぐに出かけていきます。
なんでこんなにお気楽なのだろう。
たしかに手紙をもらった段階では、お約束としてキャラクターを想像するのに難くない「子供らしさ」を備えていて、家中飛び跳ねて喜んでいることになっていますが、翌日山に入ってからは完全に「客席」でその「異界」を眺めているような感じがしています。
そうなんです。主人公ならもっと自分が遭遇する山や森の中での困難を克服していくことで観ているものに感動を与えるはずでしょう。
しかし、この“どんぐりと山猫”を読んでいて馬車別当や山猫に出会うまでのことは、凄く魅力的なロード・ムービーの様な冒険的な感じがするのに、出会うキャラクターの個性ばかりが際だっていて一郎の存在感はかなり希薄。
それは前述の夢の中のように、つまり「絶対に自分は傷つかないけれど目の前に起きるスペクタクルはびっくりしながら、時に不安をかんじたりもしつつ、楽しんで見てるし、観客にストーリーの展開について舞台上から選択を迫られたら喜んでそれに協力するけど、それによって火を浴びたり水に飛び込むのは登場人物の方であって自分は椅子に座って(つまり安全地帯から)笑ったり同情したりする」立場みたいな感じが強くします。
一郎がやっとのことで出会ったはずの馬車別当や山猫とずっと会話をするときは、なにかたとえていうと、芝居の終演後の楽屋で客と出演者が初めて話すみたいな「遠い距離」を感じざるを得ません。
たしかに一郎は客人ではありますが、同じ客人でも“注文の多い料理店”の紳士達とはやっぱり違う。
未知のものと出会う際に普通にもつであろう「恐怖心」というか「なんじゃこれ」みたいな「驚き」が「当事者」のはずなのに希薄なところがとても現実から遊離している感じがするのです。
山猫との初遭遇にしたって、突風とともに背後から現れた山猫に対して「やっぱり山猫の耳は立って尖っているな」なんてすごく冷静に思っちゃって相手が「ようこそいらっしゃいました」という前に「やあ、昨日ははがきをありがとう」なんて馴れ馴れしく恐れを感じず自信たっぷりなのもいい加減にしろって感じです(爆)
ゴーシュと動物たちは、共演者達の既知の関係の言葉のやりとりの次元みたいなものを、設定はたしかにおたがい初対面なのに、感じてしまうのです。
フランス語でいう、vousとtu、ドイツ語で言うSieとDuの違いみたいなものかな。
その距離は比較するとすごく大きい。
最初ドアを開けて対峙したときは反発から始まってはいるけど、対話を続けていく内にゴーシュは相手に対して、接し方が変化していくのが読んでいて分かるのだけど、一郎は道を聞くか単なる挨拶と、質問されたことにのみ答えているのに過ぎません。
そういう一郎の不思議な立場が、僕は、なぜ一郎が再び山猫からの招待状を受け取れなかったかということに繋がる重要なファクターだと考えます。
つまり、賢治は読み手(一郎)へ挑戦状をつきつけているのです。
塩鮭の頭は現実世界ではただのゴミです。
しかし芸術やスポーツの実現者の創作過程や訓練のなかには結果しか見ない人たちからすると、ずいぶん無意味に見えること、しかしながらそれを大事にすることが一般常識でははかれない価値があることの象徴だったりもするのかな。
金のどんぐりには「すぐに分かる価値」があるからそれを一郎は欲しがったのでしょう。
しかし「塩鮭の頭」こそが、あの世界では最も価値のあるものだったのかもしれません。
というかその価値を分からなければあの世界でだれとも仲良くはなれないのですよ。
異界なんですな、そういう意味でも。
しかしここまで考えて自分の作曲(1980年)時の、脚色の失敗に気づきました。
さまざまな動物との出会いのなかで、「りす」との部分だけ原作ではあまりにあっけなかったので、自分の曲では、りすと、もっと「対話」をさせています。
否、させてしまっています。
音楽的にはある意味その場面のアイデア(乱暴に言えばラップみたいに音楽のリズムに合わせてメロディーなしに会話をしている)は気に入っているし、聴いた人からも結構面白がってもらえる場面なのですが、あんなに「親しげ」にりすと会話をさせたことは当時の自分にとって一郎の立っている平面が他の登場人物とは違うということに気づいてなかったからゆえのことです。
他にも脚色しました。
劇中劇(とある意味言えるかも)である裁判のクライマックスはなんと「固まってしまう沈黙」であり、若い作曲家は、それを音楽作品の頂点にどう表現させるか稚拙な技術では無理におもったので、判決が決まった後に、原作では書いてない「凱旋のダンス」を山猫と馬車別当、そして一郎にまで一緒に踊らせてしまいました。
この舞曲については最近思い切って原作に忠実にするために、割愛する勇気ができたのですが、りすの場面に関しては、これはもう未熟な若いアプローチだったということで、その曲を削除することなくこれからも弾いていくと思われます。
こうやってこの投稿時点で初演以来60回近く30年弱の付き合いをもって演奏してテキストを読むと、読み方って変わってくるものですね。
ある意味作曲した当時の「世界観」を全否定するのは大人げないとは思うし、いつ何時リスの場面を改作しようとするかもわからないけど、こうやって考えてみることは僕にとって決して無駄なことではないと思われます。
しかしながら悪い癖でこれを説明するにのにこんなに文字数を使わないとだめな文章力はなんとかしないといけないとは思います。
ここまで読んでくれた人に感謝です。
簡潔に書き直すことができたらまたこの記事を改訂することもあるかもしれません。その場合にはコメントに報告します(爆)
蛇足ながら、昨年作曲した“注文の多い料理店”に出てくる(実際には登場しないが)、山猫の敗走の後日談として“どんぐりと山猫”があるという奇想天外な演出プランを僕は持っています。
“注文の多い料理店”では、計画が頓挫してしまった山猫はリヴェンジを期し、部下も新たに雇って一郎に挑戦状を送ったのです。(爆)
ゆえにこの愚かな作曲家は“注文の多い料理店”の音楽の中に密かに“どんぐりと山猫”の中にある山猫のモティーフを埋め込みました。
上演するなら“注文の多い料理店”→“どんぐりと山猫”の順であることが望ましく、その場合初めて聴く人は“注文の多い料理店”の中で山猫のモティーフを認識することは不可能ですが、この屈折した解釈(爆)は二つの作品を並べて聞けば納得してくれる人もいたりするでしょう(爆)
もう一つ書いた“セロ弾きのゴーシュ”に対となる作品として、今年か来年までのあいだに“オツベルと象”を書こうと思います。
これをカップリングするのも客観的な根拠に基づくものではなく、僕の独断です。
だんだん良い人になっていくゴーシュと、だんだん悪い状況になっていくオツベルと象、その正反対の変化が面白いと思うのです。
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● COMMENT ●
このスレッドをここで引用された
ふ~む
(2006-03-02 17:11:28)
訂正と「馬」
「似たような事象が、可能性の数だけ起こる、そしてその数だけ宇宙が存在する」パラレルワールドのようなものを賢治さんが持っていて、その中の一番自分に近い世界を童話にした」と、私は書きました。
ちょっと書き直します。
「似たような事象が、可能性の数だけ起こる、そしてその数だけ宇宙が存在する」パラレルワールドのようなものを賢治さんが持っていて、その中で一番「物語」として成立するものを童話にした」と。
他の平行世界で「三郎やきっこが山猫から手紙を貰った」物語もあったかも知れないけれど、賢治によって選び取られたこの「どんぐりと山猫」という世界には、確かに人間は一郎しか存在しない。
それは、物語というより、とても演劇的な捉え方であると、私には思えます。
もうひとつ、「馬」
「注文の多い料理店」の犬もそうだけど、この場合の馬の立場は微妙ですね。
山猫やどんぐりや栗鼠や滝・栗の木まで擬人化されているのだから、この馬に人格を与えないのはふつうなら不自然に見えて、不思議ではない。
そこで、「なんだかねずみいろの、おかしな形の馬」の登場となったのでしょう。
これはイメージとして、とても良いし、「詳しく描かない」良さがあります。
でも、これで「人形作れ」と言われたら、結構難しいです。
(2006-03-01 17:39:50)
もう一人の登場人?物
この馬について「なんだかねずみいろの、をかしな形の馬がついています」と、たった一行で説明されています。
まるで馬の方が馬車の附属品みたいに。
発想が、とんでもなく自由で破壊的なのですね、賢治さんて。
(2006-02-28 20:30:56)
そうか
ただ、「この童話には、一郎以外の人間が存在していない」という、准さんの指摘は新鮮でショックです。
確かに、そんな感じは、ある。
メールでお話したように、私もそれに近い処までは辿り着いていたのだけど。(惜)
やはり、肉体を通して「どんぐりと山猫」を体験してきた准さんには、ちょっち叶わない。
料理店の紳士達も最初で最後の客、というのも良いなぁ。
何だろう、能舞台とか茶室のような静けさを感じてしまいます。
(2006-02-28 19:11:52)
山猫は一郎にだけ手紙を出したと思っています(爆)
読み手の代表と本文で書きましたが、彼には家族がいるような感じもせず、登場人物達も「また子供が来たか」みたいなリアクションをしていないようにおもいます。
ゆえに、手紙は一郎しか受け取ってないと思っています。
“注文の多い料理店”も二人の紳士は初めての客であり最後の客だったと思います。
(2006-02-28 18:35:09)
OK
いつでもお使い下さい。
実は、准さんとあるサイトの「どんぐり゜と山猫」解釈のページについて、メールでやりとりしていたのですが、その続きと言いますか…
「なぜ山猫は一郎に葉書を出したのでしょう?」
私が思うに、山猫はそこら辺りの家全部に手紙を出したのです。
まあ、今をときめく春沢ゆかりさんみたいに(違)
でも、それをイタズラとか、下らないとか思わずに、素直に反応したのが一郎だったのでしょう。
他の人、他の子は、無視したり、気にも留めなかったのですね。
あて何人か、手紙を喜んで馬車別当の処まで辿り着いた子供は居るかも知れないけど、その異形を見てたぶん逃げ帰ったのでしょう。
馬車別当を見ても逃げ出さない脳天気な一郎だけが、山猫に会えたのです。
その意味で一郎は「選ばれた人」だと、私は思っています。
(2006-02-28 18:30:37)
またやられた(爆)
僕はこの間ちゃんと歯医者に行って治療したから大丈夫だし、“注文の多い料理店”の初演の時は、はるばる数十キロを自転車で訪れた貴兄に叶わなかったけど、こんどひとみ座に行くときは、僕も自転車で行こうと思います。
(たなかさん、次回自転車で行くときはお宅に寄らせてもらってシャワーを浴びさせて頂きたいと思います(爆)ぜんぜん本筋と関係ないことになってしまった)
(2006-02-28 01:42:40)
たかやま、ついしん
(2006-02-28 01:36:38)
あ、また書いてる(爆)
たかやまさんは、かわいそうに、この作品をこれだけ長く語ってきたものだから、僕とは関係ない、音楽なしの朗読を録音する仕事で、冒頭から、僕の音楽を知らない人からすると、みょうちくりんなリズムで読んでしまう病気になってしまったのです。(爆)
彼の頭には呪いのように僕の音楽が染みこんでしまったのね。
ごめんなさい。(爆)
おれも早く確定申告完成させないと馬車別当の鞭でやられてしまいそうです。(意味不明)
(2006-02-28 01:33:15)
そうね
前にもどっかに書いた記憶があるけど、小説やラジオドラマや人形劇や影絵、もちろん人間の舞台も「説明しきれないから補って観る」から良いのであって、僕がこの記事でこの作品の見方が変わったからと言って次回の演奏の時に長々、原作の解釈について聴衆の前で講釈するつもりはありませぬ。
(みんな、それを恐れているのでしょう(爆))
音符だってすべて分かったから頭にうかぶわけではないもんな。
なんでこんな音を思いついたかわからんが、みょうに気に入っているところもあるわけだから。
(2006-02-28 01:29:13)
しつもん、その2
山猫の馬車に送られて、来た道を帰るくだり、作曲者の捏造した場面です。でも、僕はここが一番気に入っているらしいのです。
賢治のテキストは、まるごと彼岸にあります。彼岸を解釈するとは、彼岸を此岸の鏡に映すことです。結局「解釈」は、此岸にしかありません。
あの5連符の道程は、彼岸から此岸への奇蹟の橋なのです。とは、言い過ぎかしらん。しつもんのその2。僕の止まぬ耳鳴りは、音楽を知らぬものの幻聴なのでしょうか。
(2006-02-28 01:28:17)
しつもんにはこたえないこと。だって「わな」だから。
(2006-02-28 00:55:13)
面白い
もちろんこの「解釈」に正解があるはずがありません。
ただし、自分でそういう素材を演奏したり演じたりするときは、ある確信をもって「方針をしっかりしておく」ことが重要なのです。
受け取る側は「こういうのもああいうのもあるな」で良いのですが、やっている側が「なんとなくいろいろあるしさ」みたいな態度で舞台に立つとろくなことはないのです。
あとでそれが自分にとって間違えていたとおもっていても、確信をもって主張すること自体が大事なのだと思って長々自分の考えを整理してみたのです。
もちろん整理したつもりでまた分からなくなっていることもありますが(爆)
たなかさん、ありがとうございます。
実は、今のところ正式には、“どんぐりと山猫”の演奏回数は59回のはずです。
その間に“セロ弾きのゴーシュ”と“注文の多い料理店”を書いてしまったので、そっちの方を成長させることに主眼を置いてしまい「長男」を顧みたのは昨年の 5/26を最後にありませんでしたが、たなかさんのブログの記事で火がついてしまい、こうやってこの記事でいろいろな考えを巡らせている間に、僕も久しぶりに「原作への視点」を思い出しながら演奏してみたいと思うようになりました。
普通は「他人の書いた」曲で原作と、作曲家の意図をいろいろ考えたりするのですが、過去の自分はある意味他人ですから、このくらい距離をもったらまた違うものを感じることができるだろうし、最初の頃の気持ちになるのも面白い。
まあ誰かの企画でお金の心配しないでやってみたいとは思うのですけどね。
たしかまだたなかさんは、色の付いた“どんぐりと山猫”、つまりピアノだけではなく、山猫合奏団のアンサンブルとしての音楽をまだ聴いてもらってませんものね。
笛吹の滝が本当に笛で演奏されるとしびれます。
(2006-02-27 19:51:14)
待てないっ!
まだまだ聴き逃しているところがたくさんあるような気がする。
年末まで待てない。
早期再演希望。
(2006-02-27 19:13:06)
続き
(2006-02-27 09:57:14)
(2006-02-27 09:53:48)
コメントが長くてケラレたので分けて投稿しました。
確かに回数を重ねている「どんぐり」の語りは、かなりナチュラルに感じます。
その為、聴き手には「一郎がレポーター兼カメラマン」の役割をして、彼の目を通して、その肩越しに、栗の木や栗鼠や笛吹の滝、馬車別当、山猫、どんぐり達、に出会うような気になるのです。
(レポーターやカメラマンは、その対象とする世界に干渉を加えてはいけないはずですが、一郎は、それをやってしまいます)
一般に「朗読」というのは、いろいろなレベルで成立してしまう、面白いけれど、プロにとっては厄介な表現形式です。
教室で小学生が訥々と読む朗読も、聞く者の心を打つことが出来ます。
反対にプロの俳優さんが、声色使い分けて熱演するほとんど演劇のような朗読もあります。
だからと言って、それが、感動し得るものであるとは限りません。
ひとみ座の「注文の多い料理店」では、篠崎に「とにかくすべての役を作ってくれ。別々の役者がそれぞれ役作りするように」と、無理難題を押し付けました。
これから回数を重ねていけば、よりナチュラルになっていくかも知れませんが、出発点としては、「ともかく目一杯創った方が良い」と、考えたのです。
だんだんこなれて、その役とか物語が肉体化され、高山さんの「どんぐり」の語りのようになってくれれば良いなと、三文演出家は、願っております。
(2006-02-25 18:18:47)
ピアノと朗読
准さんの「ピアノの部屋」で(馬車道でした)初めて「どんぐりと山猫」を聴いたとき、私は、とても新鮮な印象を持ちました。
表現のスタイル自体がすごくユニークであると感じられたのです。
「楽器の伴奏と朗読」という形は別に珍しくないし、最近は「読み聴かせ」とか「群読」とか、けっこう盛んなようです。
でも白石版「どんぐりと山猫」は新鮮でした。驚きだった。
それが何であるか、どこが「楽器伴奏と朗読」とは違うのか、私の中ではうまく整理出来ませんでした。
でも、ここでの准さんとのやりとりや高山さんのコメントを読んで、だんだんに納得出来てきたように、自分としては思っています。
これはやはり「楽器伴奏と朗読」などというものではありませんね。
もっと複雑な意図や表現の変化をトンボの目玉のように持った「総合作品」としか言いようのないもの。
作曲・演奏・演出の准さんと語りの高山さんの表現意図も、けっして矛盾するものではないでしょう。
(2006-02-25 18:16:25)
雪さんへ
たしかに、どんぐりたちが争っていることは、おっしゃるとおり、人間社会のあほらしさを象徴していることは間違いありません。
でもそれが裁判になるということ、そして山猫がそれを仕切ることは、ヒエラルキーを強調しているのではなく、やまねこがそれを「一郎に見せる」ということがこのストーリーの中では重要なことだと思うので、一郎がいなかった場合、この裁判が本当に毎年行われていたのかどうか、あるいは、どんぐりたちが争っていたかどうかははなはだ疑問に思うのです。
この辺はたなかさんが、山猫は演出家であると指摘するところと同じです。
きのこの楽隊も実にへんてこな音楽をやっているわけで、それは一郎の耳にはへんてこでも山猫や他の「異界の住民」にとってはどこにでもある音楽だったかも知れませんね。
(2006-02-25 12:04:40)
鮭の頭
函館に仕事で行ったときに前夜しこたま飲んで朝は少々気持ち悪かったけど三平汁を飲んであっという間に快復しました。
二日酔いからの快方と三平汁の因果関係についてどうこうではなく、確かに魚は全身役に立つ食べ物ではあるけど、金色のどんぐりは一郎や我々の住む世界には無いし、金というのが一郎のツボにはまったのでしょうな。
異界とこっちの世界の価値観の相違というのは、普段生活しているなかでも外国と日本、日本でも地域によって、職業によって「物事の価値の優先度」が違ったりします。
子供の頃思いました。
ダイヤモンドでできた天体があって、そこには花崗岩がものすごく希少なものだったら、花崗岩が「宝石」になるのだろうなと。
塩鮭の頭と菌のどんぐり、否、金のどんぐりという選択肢、及び、一郎が答えたあとの山猫の様々なリアクションにはいろいろ深い意味がありそうですな。
(2006-02-25 11:58:25)
山猫は演出家である
こんなにしなくても、紳士たちを罠に嵌めることは出来そうな気がします。
「どんぐりと山猫」では山猫が一郎をまんまとハメたかも知れないけど、でも、確かに准さんの仰るとおり、得るものは何も無いかも。
だとすれば山猫は、いろいろな道具立て、さまざまな手法、考え付く限りのアイデアを持って、相手(観客)をたぶらかし、驚かし、溜息を吐かせることそのものに生き甲斐を感じている、としか考えられません。
ひょっとして、オレたちの仲間?
(2006-02-24 19:09:57)
面白いですね
私の考えは ちょっと極端だったな とは思いますが、・・・。でも、私は山猫を悪者としてみたのではなく、山猫を通して人間というものを(この世で人間が一番優等とする)省みたんです。
山猫が悪いというより、人間より分別があるというようなことです。(ちょっと語弊があるけど)
賢治は、動物社会を描くことで、人間社会を描いています。ボートシアターの「月夜のけだもの」を観て、たなかさんの擬人化に関する考えの意味がやっとわかりました。仮面は象であっても、象ではない。
それは、人の心を持った象ともいえるし、象の心をもった人間なのです。
(2006-02-24 11:53:50)
こういう解釈を持つ前の僕の文章
*******
自分が10代だったころから、朗読や、音楽を伴わない台詞のなかにある「音楽性」に興味を持ち、「歌」になる「一歩手前」の「音楽性のある語り」と音楽を両立するという試み、たとえば、プロコフィエフの“ピーターと狼”、プーランクの“子象ババールの物語”、R.シュトラウスの“イノック・アーデン”などの作品に触れることに寄って、自分でも書いてみたくなって作った曲です。
原作が宮沢賢治なので、いわゆる賢治の作品の色に興味を持たれる方が多いようですが、自分にとっては、あくまで原作であり、かなりの部分は僕の発想の音楽の書き換え、創作も入っています。
ある意味、こんなに完成されたストーリーを使ったのは間違いだったかも知れません。(笑)
例を挙げれば、主人公の一郎が山に入ってから出会う様々なものとのやりとりのなかでも特に音楽との結びつきが強い「りす」との会話の部分はほとんど白石准の創作であり、その後、どんぐりの裁判の後、考えたらこの作品、クライマックスは、一郎が導き出した結論に凍り付くどんぐりたちの「沈黙」なわけで、音楽作品としてはそれではあまりにくやしい(笑)ので、たしかに沈黙への憧憬は織り込んでありますが、白石准の意地で、山猫と馬車別当と一郎にダンスを踊らせたのですが、それも原作には全くないし、しかも、最後の一郎の帰還、山猫の馬車の消え方も原作とは違います。
保守的な人からすれば重大な「改ざん」と糾弾されるかもしれませんが、ここはひとつ、白石准の世界観に基づく不思議な一郎の冒険ということで、ご容赦願います。
蛇足ですが、それゆえ、この作品は、朗読という役割の名前はかなり不適切です。
役者の「間」や「テンポ」は完全に、楽譜によって制限されています。
ゆえに、メロディーを歌うところはごくごく一部なのですが、本来話し言葉、読み言葉であるべきものに音符が着いているところが多いのです。
(2006-02-23 23:10:04)
山猫を演じた少女
その初演の頃、自分にとってもまだ初演から間もない頃、何がびっくりしたって、山猫の役が小学校五年生の、しかも女の子がやっていたのです。
さんざん迷わせておいて最後に出会った山猫が子供だったというのは「僕の読み方」ではないけど、実にインパクトがあってバレエとしてはコミカルになった。
身長の事はあまり音楽的には考えたことはなかった。
ただ、高山氏や楠氏には、山猫の声は一郎や馬車別当よりは低い音域でやってほしいということを言った記憶はある。
それと、栗の樹は僕の中ではおじいさん。
笛吹の滝は性別はどっちでも良いけどまあ男だね。
僕の中では子供を混乱させて森をさまよい歩かせる登場人物に女がいては欲しくないからね。(爆)
相当高いキンキンした声の持ち主。
笛だものね。
きのこの楽隊はそりゃあもう、いっちゃってるおぢさんたちのバンド。
リスはいたずらっぽい子供のリス。
馬車別当はちょっとレゲエな感じ。
作曲当時にはレゲエは流行ってなかったけど、(爆)
結局全部男だ。
(2006-02-23 22:33:59)
ううむ、やられた
リズムがある。
歌っているようだ。
そうか、法華経はそういうところにあったのか。
ばかでめちゃくちゃでてんでなっていないで一番つぶれたような奴が一番偉いっていうのはなんか禅の坊さんが言いそうなことなんだけど、これも法華経かなあ。
(2006-02-23 22:22:36)
知らずに表に現れるらしい。言葉の遊びですが。
最初の頃、山猫と馬車別当の声色を反対にしようと密かに企てました。なぜなら、山猫は小さいと確信していたから。でもやめました。なぜなら、しっくりこなかったから。山猫の小さいことにではなく、小さい体に似合うような声を出そうとすることが、腹にすっと収まってこなかったのです。
それはどういうことかを語ることも、それなりに面白いに違いない。でも、それはこの「ぶろぐ」なるものの罠です。そいつにかかると、役者として2度と皆さんの前に立てなくなるような気がするのです。だから、痛んでいる奥歯に、何かがひっかかったような物言いになってしまうのです。
語弊を恐れながら。役者が解釈するとろくなことにならない、しかしながら、解釈しないで演じることは至難の業。ここらあたり、音楽だとどうなんでしょう、なんてこと、聞きません。
個人的な結論。白石准との舞台は、理屈っぽい三文役者の僕にとって、解釈せずに、ただ佇んでいられる、稀有な場所なのです。
さらに語弊を恐れながら。
拝啓准殿。
自分の作った罠に捕らわれませんように。法華経などクソ食らえ、というわけでもなかったのでしょうが、それでも、法華経は表に現れています。それがこの作品の長生きの秘密だったのかも。武器は持たないでくなさい。鍍金は剥がれる。それを知っていれば、この「ぶろぐ」は実に豊かです。
どんなに丸腰を装っても、結局、一郎は「私」です。
(2006-02-23 22:17:49)
そうそうそうなのよね~
「表現」に就いてです。
(2006-02-23 20:46:32)
僕の考える身長順
異界ですから、一郎の眼に山猫が、本当の山猫より大きく見えても不思議ではないと思いました。
もしかしたら山猫の方が小さいかも知れないけど、裁判が終わった後握手したりするから同じ大きさであるような印象を受けるのは“注文の多い料理店”の山猫も決して小さくはないとは思っていました。
白い犬にやられてしまったのは、犬が格闘の訓練をうけていたのと、一匹と二匹ではとうてい叶わなかったから、しかも山猫は腹減ってたし(爆)、子分はとっとと逃げたし、やられてしまったのですよ。
魔法を犬にかけられればよかったんだけどね(爆)
山猫の耳は立って尖っていると言うのも相手が自分より背が高くても極端に接近しない限り、観察出来ると思われます。
あのくだりも、自分の音楽ではものすごい迫力で一郎に迫ってくるのに一郎があまりに醒めた感想を持つのでずっこけるように表現されています。
今気づいたけど、表現って、表して現すのね。(爆)
(2006-02-23 20:13:11)
背比べ
私も山猫の「稚拙な表現を装った」文面に騙されていたのかも知れません。
そんなにしたたかな奴だったとは…
ところで、話題は少しズレてしまいますが、山猫の大きさについて、准さん始め、出演者の高山さん、それから常連の聴き手の皆様、どう思われますか?
山猫とどんぐり達の「大仏と参詣者」の大きさの比較は、はっきりしています。
では、山猫、馬車別当、一郎の背丈はどうなのでしょう。
「どんぐり」だから背比べを持ち出すわけではありませんが…
私のイメージでは、一郎が一番背が高く、次が馬車別当、山猫は家猫が立ち上がったよりちょっと大きいくらいだと思うのです。
初めて山猫を見た一郎は「やっぱり山猫の耳はとがっているな」という印象を受けます。
もし、山猫が一郎より大きいとするなら、「やっぱりあごの下の毛は白いな」とか思うはず。
それに、馬車別当に対しても山猫に対しても一郎が「畏れ」を抱いた様子が無いのは、たぶん相手の背が低かった為ではないでしょうか。
西表山猫だって、大型の家猫より小さいそうです。
「注文の多い料理店」で、「白熊のような犬」に負けたのを見ても、たぶん、山猫は大きくありません。
もちろん、どんぐり達に比べたら、大仏ほどに大きいのでしょうが。
(2006-02-23 19:02:07)
再び山猫を支持してみる
“注文の多い料理店”では明らかに彼の企みは、滑稽に崩れてしまいます。
しかし“どんぐりと山猫”での山猫は、文章のつたなさを一郎に笑われているようで、この親記事に書いたようにそれを罠に一郎の本心を探り、最後には、一郎に幻滅しています。
このときも三日間、しかも毎年この裁判で苦しみますとか山猫は言っているけど、実はこれは嘘です(爆)
そうならば、「判例」があるはずです。
もうこうなったら、どんぐりさえも山猫の手下で「争っているふり」をしているかもしれないと思うようになりました。(爆)
“注文の多い料理店”の二人の紳士達を騙すことは最後までできなかったけど、一郎に対しては負けたふりをして最後まで操っているのは山猫だと思うので、山猫のすばらしい進歩を僕は賞賛したい。
一郎を運んだ後、異界へ帰る馬車のなかで、山猫は馬車別当に「あいつもたいしたことねえ玉だったな。結局は金のどんぐりだもんな。」と煙草を吸いながらつぶやいたかもしれません。(爆)
待て!
そうなると山猫は何か得た物があったのだろうか。
“注文の多い料理店”では明らかに獲物を狙っていたわけだけど、こうなるとまた訳がわからなくなる。(爆)
(2006-02-23 11:55:12)
ワープについて
美味しい物をどこぞで見つけたらみんなに知らせて一緒に味わいたいという素朴な気持ちの延長線上にあるのです。
今年中に二本立てでやってみたいと思います。
(2006-02-23 11:43:48)
新記録
最初は雪さんとたなかさんだけだったのが、どんどん参戦してきた中に共演者もいるから面白くなってきた。m(_ _)m
最後のぽんちゃんの指摘した「いちゃもんではなくて変わった感想」というのは、僕の作品の中に
「法華経の影響を感じることができなかった」ということで、その方にとっては賢治にとって法華経という要素は不可欠なのだと思っておられたのでしょう。
初演の直後だったので、びっくりしたけど、僕にとっては「賢治」を音楽にしたというよりは、「賢治の書いたストーリー」を料理したのであって、確かに今回の投稿で、作曲当時には気づいていなかった物語の「あや」はあるけど、「法華経」を音楽で象徴することは技術的にどうすればよいか分からなかったし、もともとそれが必要だとは思ってないから、ありがたく感想は頂いたけど、自分のやった仕事への確信はゆらぐものではありませんでした。
それぞれの方がそれぞれの世界観をもっていて同じようには読んでないだろうから、“セロ弾きのゴーシュ”を書いたときにも表明したけど、僕の音楽作品としての“どんぐりと山猫”は僕の「読書感想文」と言い切るしかないですね。
(2006-02-23 11:39:38)
宮沢賢治の深読み
昔、准氏の「ドングリと山猫」に宮沢賢治の研究家(??)からイチャモンがついたことがあったと記憶しているが、今ならその人も真剣に参加するのでは?
(2006-02-23 11:25:05)
ワープ
それも、「どんぐりと山猫」を「注文の多い料理店」の続編として構成するアイデアです。
「面白いアイデアだな」くらいに私は考えていたのですが、「これ、実に、とても正統的な解釈なのかも知れないぞ」と、思い始めました。
私の勝手な仮説によりますと、「賢治の童話作品は、それぞれ細いワームホール=通路によって繋がっている」のであります。
「オツベルと象」の最後の「ほら、かわへはひつちやいけないつたら」は、「銀河鉄道の夜」のラストシーンへ、突然ワープします。(飽くまで私説です。鵜呑みにされても責任持ちません)
では、「注文の多い料理店」は、一体どこで「どんぐりと山猫」にワープするのか…
注文の多い料理店、親分の山猫は、最後の扉のメッセージで間抜けなコメントを書いてしまい、ふたりの紳士に企みを気付かれてしまいます。
「親分の書きようがまづいんだ」子分山猫のひとりはそう、愚痴を言います。
そして「どんぐりと山猫」の最後の方で、次に出す手紙の文面を相談すると、山猫は、一郎に笑われてしまいます。
笑われて山猫は「どうも言いようがまづかつた」と残念がるのです。
この山猫は「注文」で子分どもに「書きよう」つまりコミュニケーション能力の不足を指摘され、ずっと気にしていたのでしょう。
「注文の多い料理店」で敗走した山猫は、実に、「どんぐりと山猫」のこの部分にワープするのですね。おまけに余り進歩してないみたい。
親分よりは実務に長けていた子分猫たちは、「猫の事務所」に勤めるようになるのかどうか、ただいま調査中です。
(2006-02-22 18:56:01)
時々、皆さんのご意見を拝聴(?)させて頂いておりました。
このあたりことを突っ込んで語り始めると、どうも大変なことになりそうです。ともかく、今回一言だけ、ずっと「どんぐり」を語ってきた相棒として、役者の立場に限定したご報告をさせてください。
(ここらあたりで改行しても大丈夫なのかしらん。初めてなのでよく分からんのですが)
僕は「一郎」に関して、一貫して「無色透明」であることを意識して語ってきました。もちろん役者も人形と同じ、舞台で声を発してしまえばとても無色ではいられません。残念ながら人形よりも遙かに生々しい。ただ、人形ではできないこと、「私には何の作為もありません」と主張すること(主張しないこと?)は可能です。
つまり、「一郎」を語る時の僕は、常に両手を挙げて、丸腰であることを示しながら、白石准のピアノの脇に立ってきました。
リスとのくだりも、もしかすると作曲者は、一郎の造形に関してもっと要求があったのかもしれないが、僕はわりと頑なに、白石准に気づかれないように、笑って不器用な役者であり続け、ただただ音符に言葉を乗せることのみを考えていました。
実はその方が、僕にとってずっと興味深い作業であったことも告白します。
これについても、面倒なことになるので、本日はここまで。
歯医者の予約時間が近づいてきました。続き、もしおじゃまでなければ、いずれまた。
(2006-02-22 11:12:28)
鮭の頭
私の母は北海道出身で、私も札幌に3年ほど住んだことがあります。
北海道の料理に「三平汁」という鍋物があります。
鮭や鱒などの魚と、大根・菜っ葉・にんじんなどの野菜を、ほとんど塩味だけで鍋にしたてた素朴な料理です。
その三平汁の最高のものは、「鱒の介」と呼ばれる体長2メートル近い鱒のかぶと、つまり頭を使ったものでした。
頭には、えらの近くの肉の部分、眼と眼の回りのゼラチン状の部分など、おいしい「食べ処」がたくさんあります。
ダシも出ます。
塩鮭の頭は、けっこう馬鹿になりません。
(2006-02-21 20:16:32)
コミュニケーション・表現
山猫は、次に出すかも知れない手紙の文面に、心を砕きます。
作者賢治の中に、「他者にはけっして100%は理解して貰えない」という、「言葉の限界」「表現の限界」の意識があったように、私には受け取れます。
もしかしたら、馬車別当、一郎、山猫、どんぐり達は、同じような話題を語りながら、少しずつズレているのかも知れませんね。
私か゛、視覚的に印象に残る場面は、それまで擬人化されていたどんぐりを、お土産として桝に入れてしまうところ。
どんぐりを、即物的などんぐりそのものとして扱ったとたん、異世界は消え失せてしまうのではないでしょうか。
(2006-02-21 20:03:48)
なんか挑戦的ですね
人間の感じ方って、そのときそのときで変わるから、明日になったら又変わるかも!
でも、こうやっていろいろ突き詰めていくことは、結構好きです。
でも、最後に自分の考えの浅さが出るから
・・・。(うーん。負けないぞ!)
うらり~さん
確かにそうですね。
一郎のこの会話の仕方が面白いです。
(2006-02-21 17:11:25)
ていねいな言葉
この時代の「言葉づかい」ということを忘れてはいけません。
私が小学生のころ(60年代)に出ていた講談社の「少年少女世界文学全集」を見ても、少年少女に宛てられている解説には「みなさんは、どうお思いになるかわかりませんが・・・」のような、ていねい語で書かれていました。
国語の教科書などにも、子供が親や先生と話すときは「ですます言葉」が使われていました。
ですから、一郎のていねいさは慇懃無礼の類ではなく、当たり前に「こども同士ではない場合」の自然な言葉づかいかと思われます。
(2006-02-21 15:24:24)
蟻のようにやってくるわい
賢治の「毒」と書いた僕の意図は、毒には見えないところに実は罠が隠れていて、最後まで一郎が山猫の「問い」の答えを見つけられないところこそこの物語の「毒」があるのです。
負けたと分かっている勝負は「終わり」があるから“注文の多い料理店”の紳士達はもう二度と安易に山の中に行こうとはしないだろうけど、負けたのに負けたとおもってない人は実におめでたいし、一郎は確実に「色が褪せた元金色のどんぐり」は大事に取っておかずに捨てるというよりその存在を机の奧に押しやって忘れていくのだと思います。
(2006-02-21 13:41:39)
カメラが近影から遠景に行っただけだと思う
そして繻子の着物に着替えた山猫が「裁判長」として現れた時、荘厳なファンファーレ(自作では山猫のテーマがコラール風に演奏される)とともにゆっくり現れ、それまで、まったく落ち着かなかったどんぐりたちがとりあえずきちんと並んでいる構図の場面で、カメラが距離を置いてその「全体」を撮しているところだから、感情的にどちらかが「支配している」という印象は僕には皆無です。
だから音楽は極めて「静的」な物がここでは必要で、僕はこの物語でもっとも畏まった場面であるために大仏がでてきたのだと思います。
そこでそういう感情を表してしまったら、裁判が始まり、再び喧噪の世界に戻った(裁判中の音楽もまた狂騒の雰囲気にしています)ときの距離感の変化、そしてそれぞれのどんぐりが主張している内容のインパクトが薄れます。
しかも山猫は、裁判の最中「いいかげんに仲直りをしたらどうだ」と言っているわけで、「俺の言うことを聞け」と「命令」したり「お前ら馬鹿か」と毒づいているわけではありません。
僕は脚色の中で裁判が終わった後「ざまあみろ!」みたいなことを語り手に言わせていたりしますが、それも本当はやりすぎであり、山猫がどんぐりに対する接し方はある意味、田舎の校長先生みたいな父性愛みたいなところまで感じます。
裁判後の一郎への訳の分からないロジックとは違うと思いますが。
(2006-02-21 13:33:26)
でも、やっぱり・・・。
山猫の目を通して、人間の愚かさを映し出しているように思えてなりません。
(2006-02-21 13:20:24)
う~ん
僕は決して山猫にせよ、賢治にせよ、一郎やどんぐりを見下しているとは思いません。
それは一郎が傲慢ではないのと同じで、単にコミュニケーションが上手くいかないだけなのです。
ヒエラルキーの存在は別にこの場合山猫が独裁者であることの理由にはならないし、裁判をする人が訴えを起こした人より「偉い」ということでもないでしょう。
ひょっとすると、どんぐりたちも山猫の「さくら」で、一郎を試していたのかも知れませんし、馬車別当も煙草を吸えないのをがまんはしたけど、山猫に対して搾取されている立場には僕は読めません。
裁判後の一見不条理な一郎との問答は、親記事に書いたとおり、山猫が一郎を「仲間としてふさわしいか」テストを行っているだけであって見下してはいません。
ただ、山猫の期待した「本当に金銭的な価値観でいないかどうか」のテストに最後ひっかかっちゃって、「興味を失った」からあくびはするし、めっきのどんぐりもまぜろと言ったのだと思います。
「まるで奈良の大仏さまに参詣するみんなの絵のようだ」というのは一郎の観た情景ではないでしょうか。
これはすばらしいカメラワークの表現だと思います。
なんかたなかさんともまよちゃんとも雪さんともやっぱり僕はこの物語を違って見えているのでしょうか。(爆)
通じないというのは、「悪」ではなく、「ばかでめちゃくちゃでてんでなっていなくてあたまのつぶれたやつがいちばんえらい」ということ、「塩鮭の頭」はなんてすばらしいのだろうということを「本気」で思うか、「それは『面白い』けどやっぱり金のどんぐりがないと暮らしていけないよ」と思うかの違いだけで、この物語には「悪意」はまるで感じません。
そこが“注文の多い料理店”には、「制裁」という匂いも漂っているから同じ「寓話」風でも後味がかなり違うのです。
(2006-02-21 12:19:59)
深読み
新しい発見がありました。
それは、初めっから 山猫が人間社会を批判しているということなのです。
金のどんぐりたちの争い 文中では、「どんぐりども」 と呼んでいるし「、ありのようにやってくる」「まるで奈良の大仏さまに参詣するみんなの絵のようだ」 とも表しています。
つまりどんぐりをばかな人間と最初から見下げています。私は、どんぐりの様子をみて、一郎がお説教で聞いたことをうまく使って、単にどんぐりの争いを解決した と思っていました。それから人間社会においても同じようなものだと結び付けて、あんにほのめかしているのかと思っていました。
第一、裁判するということは、 山猫の方が上の立場にあり、人間の形をした馬車別当をこき使っているのです。(その馬車別当もおかしな格好)
そして、深読みをすれば、
「はがきにこちらを裁判所といたしますが」とか、「出頭すべし」の部分は、単に人間の言葉の使い方を間違えたのではなく、人間は愚かなものとしているようにおもえるのです。その証拠に「いかにも残念」「やっとあきらめた」となっています。
そして、金のどんぐりを選んだことで、おまえもやはり という落胆?があり、一升にするのに「めっきも混ぜろ」っというところに、山猫の本性を見た気もします。
そして、金色がうせてしまうところは、人間の本性をあばかれたようです。
そういう意味では、注文の多い料理店 と同じスタンスかもしれません。
(2006-02-21 12:05:46)
賢治の罠
まよちゃんが感じる様に一郎がある意味悪意をもって山に入ったとするならば、賢治は注文の多い料理店の二人の紳士の様に誰が読んでも無反省で傲慢な人間として描いたとおもいます。
そのおかげでかの紳士たちは、多分当時都会を闊歩し始めたであろう「西洋かぶれのバブリーな軽薄若造」という個性のある典型になっているから、あの物語の解釈はさまざまあっても、結末で彼らが味わう恐怖についてあまり同情するというより自業自得と感じ、山猫を一方的に悪者にはしないで済んでいるし山猫の企みは失敗したけど助かったはずの紳士の方がダメージは大きいと思うのです。
でも対照的に一郎は存在感が希薄で立場が違う読み手の誰もが反感を感じない様に描かれているようにおもいます。
故にまよちゃんが感じたようにもとれるし単純に、好奇心の旺盛な子供にも読めるところが賢治の仕掛けた罠なんだと思えてなりません。
一郎は完全に外の世界にいるので彼はそのうちあの異界を忘れていくとおもうけど「登場人物」の紳士は、異界の外の存在だけど異界の恐怖は忘れることができないはずです。
(2006-02-18 13:16:31)
さすがに付き合いが長い
言われてみれば、本当に、そういう風に見えて来ます。
一郎の異常に丁寧な言葉遣い。
なんだか理由は分からないが、自分が相手より優れた者だという傲慢さ。
「一郎」という名は、「風の又三郎」や「ひかりの素足」にも出てきます。
いずれもちょっと優等生的で、兄貴的なところがあります。
もしかしたら、賢治自身の分身なのかもしれないと、私は思っています。
自分自身にさえ、知や才や立場の優越ゆえのへの「傲慢さ」を、賢治は見据えていたのかも知れませんね。
白石さんの仰る通り、賢治は、わたしたちが考えるよりずっと毒を持ち、したたかな表現術を操っていたクリエーターなのでしょう。
知れば知るほど、踏み込めばふみこむほど、複雑で出口がありません。
でも、惹かれるのは、透明で明るいのですね、彼の作品は。
(2006-02-18 17:44:32)
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コメントを移植したあとで確かめたらその次の白石准のコメントが抜けていたので続けます。
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■一郎は傲慢ではないと思います
「客席」という安全地帯で観ていて発言するという意味が傲慢というならそうとも言えるけど、それだと聴衆に救いがなくなる。(爆)
一郎は、“注文の多い料理店”に出てくる、脳天気で性格が悪い若造とはちがい、単純に好奇心で、「あこがれの」異界に踏み込み、実はその世界と同化したつもりになっていて実は、その住民達と深いところでは話がかみ合っていなくて「いたのにいなかった」みたいな不条理さが、彼があくまで傍観者で主人公になりえなかった部分なのだと思います。
裁判終了時にはヒーローだったのにね。
賢治は一郎ではなく、山猫な気がします(爆)
それで、たなかさんが教えてくれた別の文章の中で、「猫が嫌いだ」って賢治は言うのは実に妙なのだけど、現実世界でも猫は犬に比べて理解不能な行動をするから異界の住民にみえていたからでしょうか。(爆)
じゅに~にょ(2006-02-19 10:23:30)
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この記事のまた次のたなかさんのコメントも欠落していましたのでここにつづけて記述します。
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■雪渡り
四郎とかん子が狐の小学校の幻灯会を見に行く「雪わたり」という小品があります。
そこでは、狐たちと人間の子供たちは、もう少し親密で幸福な関係を結べたように見えます。
賢治は、それぞれの作品で、山や動物たちと、人間とのさまざまな関わり方のいろいろな形を、思考実験したのでしょうか。
たなか秀郎 (2006-02-20 19:55:53)
ちょっと加筆
山の神聖さに対する畏れがない二人の紳士はある意味、一郎に似ているのだけど、最後は完全に命の危険を感じ異界から逃げて来たと言うところが、また異界から誘いを受けたいと願う一郎とは正反対でやっぱり完全に「登場人物」なんだよね。
でもますます異界に住む山猫の「二つの罠」をつなげて演奏してみたくなりました。
(2006-02-18 12:26:32)投稿
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に高山氏が取り上げました。