魔笛の序曲とクレメンティのソナタのモティーフはそっくりじゃねえか - 2006.02.28 Tue,01:14

上が有名なモーツァルトのオペラ魔笛の序曲の部分。
曲は違うが、下は同時代の作曲家、ソナチネアルバムに入っている曲で有名なクレメンティのソナチネではなく、とある「ソナタ」のテーマ。

実はクレメンティの方が早い時期に書かれている。
これをモーツァルトはパクったのか?(爆)
ということは、これもいわゆるパチもの?(爆)
でもモーツァルトの方が「俺ならもっと上手く展開させてみせる」ということだとしたら(そうなっているとはおもうけど)パチものではないわけだし、魔笛のこのモティーフが盗作なんて事をほざいたら殺されるかもしれないし、これはまちがいなく「本物」だろう。
バッハだって他人の作品を元にもっと素敵に書き直しているものも少なくないし、シェイクスピアだって、自分のオリジナルというよりは元からある話を魔法に書けたように「彼の」ストーリーに仕上げてるし、モーツァルトだって、バッハみたいなことはいくつもしているからこういうのは当たり前なのかも知れません。
じゃ、本物っていう定義は何だ?
でもそれ以前に、この類似性が、「たまたまそっくりだった」のか、「わざとモーツァルトがクレメンティのモティーフを料理した」のか知りたいものです(爆)
できれば後者の方が面白い(すみません)
美術品の真贋論争でも外野からするとおもうけど、もし偽物の方が本物より良くできていたらどうなんだろうってよく思っちゃう。
それが本物か偽物かという論点とどっちが素晴らしいかというのは、話が違うものな。
それは親子関係をDNAで証明しないといけない場合と、育ての親と子供の愛の絆の問題を考えるのに似ているが、そこまで話を発展させず、この二つの曲の類似性というかそっくりさを笑おうではないか(爆)
でも絶対にモーツァルトの方がすばらしいと誰でも思うだろうからクレメンティ先生のサポーターをちょっとしてみたいが、この曲結構全体として評価するとすてきな曲です。
で、でも、やっぱりどれでもいいけどモーツァルトのソナタの方が好き。m(_ _)m
で、でも、クレメンティのソナタなんてあまり誰も弾かないけど、もっと評価しても良いとおもいます。(汗)
だって、かのベートーヴェン先生はクレメンティをかなり評価していたんですぞ。
だから、そのうちこの曲もコンサートで取り上げてみたいです。
で、でも、そんな曲練習する暇あったら、モーツァルトを練習するほうが、、、。
そういう意味じゃ、サンサーンスの「動物の謝肉祭」ってパロディーがパロディーに聞こえないでサンサーンスの音楽だと受け取られている希有な例だろうね。
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キッコーナン醤油 - 2006.02.27 Mon,07:40


これは、「いわゆるパチもの」という範疇ではなく、れっきとした「本物」なのだ。
亀甲というのは醤油を作る人のなかでは歴史的に大事な一つのキーワードらしい。
その証拠にトレードマークが亀甲の形。
キッコーというのは、亀甲の事なのは調べてみて分かった。
調べてみると「キッコー~」という名称の醤油は全国各地にヴァリエイションがある。
でも通常全国区としては、キッコーマンしかしらなかったから、つい、微笑んでしまうわけだ。
秋田県にある 日南工業株式会社というところで製造のもの。
自分が類似品をサイトに紹介していることを知り、鈴玲さんが画像を提供してくださいました。
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猫の散歩? - 2006.02.26 Sun,15:00

かつて東京の町田市にあるアパートで飼っていた猫達は僕と一緒に、小一時間隣の神社の裏山の雑木林(結構広く、全体を歩くとそのくらいかかる)を歩いたものなんです。
もちろん首輪なんかしない。
カルガモの親子のように僕が歩くと数匹の猫が後ろを着いてきたものだ。
車や人があまりいなければ、猫も散歩したがるものです。
猫の性格によってずっとそばにいる奴や、マイペースでいろいろ草むらの臭いを嗅いで遅れる奴、他の猫にちょっかいをだして暴れる奴と子供の遠足とそう変わらない。
元はと言えば、それまでの人生(そのアパートに住みだしたのは今から20年近く前だったが)で飼ったのは犬しかいなかったので、猫を飼うノウハウは全然知らなかった。
犬には散歩が必要だから、猫も必要だと勘違いして(爆)その行事は発足したのです。
でも自然についてきたから、犬のようには素直についてこない時もあるけど、今でも猫は散歩を欲しているもんだと思ってしまっています(爆)
当時どのくらいの数飼っていたかというと、同時には5匹くらいいたことがあったし、他の部屋の人も数匹飼っていたからそのアパートは猫屋敷といえるものだった。
まあ、僕の敬愛するNHK交響楽団のトランペットの津堅さんの一時20匹くらい飼っていたことに比べれば大したこと無いけどね。
もちろん全部「捨て猫」だし、心ない人がわざわざそのアパートの庭に捨てに来るのだから、集まってくるのに手間もかからなかったといえばいえるが、、、(?)
結構放し飼いだったので野性的に育ち、だいたい牡は成人(成猫)すると、テリトリー争いが起きてけっこうどこかへ行ってしまうので代替わりは早かった。
雌は結構いついて、ここで出産した奴もいます。
写真は、左から「きん」「しょく」「すい」「じん」(猫ブログの元記事(該当の段落には戻れませんが)に戻る)
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近い親戚より遠い他人(爆) - 2006.02.26 Sun,14:43
実は、自分の持っている猫ブログにかつて書いた長文を移植する際、どうもタグが上手く反映されないので、本文にもともと書いてある「脚注」をこの記事にしてみる。
故に、猫ブログをブラウズしているひとはこの記事に飛ぶし、この記事を先に見た人は猫ブログを参照しないと何の記事だか分からないだろうから、すこし手直しをしてこの記事だけでも成立するようにしてみる(爆)
金環食の日付の思い出(脚注1)
もうだいぶ前になる(1996年か97年頃)けど、いまじゃとても懇意になった近所の獣医さんの“田沼ぱぱ”のところに初めて、自分の猫を診断してもらいに持っていったところ、「年齢は?」と訊かれて困ったことがある。
眼が開く前にひろったことは確実なのだが、情けないことにそれからもう何年かはっきり憶えていなかったからだ。
家に帰り、(当時はインターネットではなく、パソコン通信の時代だった)NIFTY Serveの天文のフォーラムに行って掲示板に、猫を拾った顛末を書き、
「どなたか最後に日本で金環食があったのはいつだったのか、判れば、教えて下さい」
と質問したところ、数日後天文に詳しい人から、猫の名前の由来が愉快だといって、1987年の秋だと教えてくれた。
9/23だそうだ。(文文ぶんさんありがとうございました)
知り合いと E-mailをやりとりしたり、シェアウェアのダウンロードしかNIFTYを使っていなかった私としては初めての経験で知らない人から貴重な情報をもらえて嬉しかった。情報のやりとりのまさに妙味だと思った。
だいぶ前に見たが、北欧の国の女子大生が大学の研究室に、調べものをしていて残っていたのに、守衛にドアに鍵をかけられて閉じこめられた状態になり、窓もない部屋だったのか、息苦しくなったらしく、その部屋のパソコンからどこかのBBSに繋いで助けを求めたところ、海を隔てて、アメリカの少年がそれを見て、母親に頼んで警察に通報し、そこからその国に連絡が行ってあやういところを助けたと言うニュースがあった。
近くの親類より外国のパソコン少年のほうが、役に立つ時代ということだ。
猫ブログの元記事に戻る(該当の段落には戻れませんm(_ _)m)
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音階を教えて欲しいのです(珍客1) - 2006.02.25 Sat,13:45
にあるたなかさんの“セロ弾きのゴーシュ”の一文をよんで思い出した。
僕にもトリノ、否、鳥の訪問をうけたことを。

猫がいるので一緒に暮らすことはできなかったし、その日のうちにどこかへ帰っていったけど、まるでこれがかっこうなら“セロ弾きのゴーシュ”にでてくるやつみたいだな。(爆)
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Ehrbar(エアバー)のPiano - 2006.02.24 Fri,08:56

今はなくなっちゃったメーカーだけどウィーンの名器といわれるEHRBARエアバー(エルバーともカタカナ表記されたりする)ピアノです。
専門家でもこのメーカーを知っている人はあまり多くないように思います。
同じウィーンのメーカーでもベーゼンドルファーとは全然違う個性で、独特の「声」をもっていました。
一時期自分の部屋にありました。たしかこれは170センチ台のちいさなものでしたが、とてもこっちが苦労しなくても歌ってくれるような楽器でした。
プロフィール写真目線の“ピにゃニスト”もこれと一緒に記念撮影をすることに誇りを持っているようです(爆)
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ラストテーマ - 2006.02.23 Thu,09:43
こういう場面で流れている音楽をラストテーマというかどうか知らないのだけど、自分がある芝居の音楽を書いたとき、劇中で流れている音楽に比べ、客席の灯りが点いて客が外に出て行く時間を想定しているから「最後の音楽」は実に時間を長く書かなければなりませんでした。
でもそこで腕の見せ所というか、各場面で流れた音楽をミックスしたり、音楽的に「自己紹介」しかできなかったような劇中の音楽は時間があれば「展開」していくことが可能だったりします。
つまりある意味一番「力を入れて書いた音楽」が芝居が終わったあとの音楽だったりするのです。
自分も書いた当初はその規模に手応えを感じ、「一番聴いて欲しい音楽」として本番、客席の上の調整室から「どういう反応だろう」と客席を見ていたら、作曲者の期待とは裏腹に、あっという間に人がいなくなりました。(爆)
そうだよな、映画と違ってテロップも流れないし、映画ならそれを見せるためにまだ音楽がなっている間は暗いのに比べて、芝居だとあっという間に明るくなるし、もともと「客出しの音楽」というつもりで書いているんだし、やっぱり芝居は「終わった」のだからもう客席には誰も用がないわけですな。
これがミュージカルのようにオーケストラ・ピットで生演奏していたら、中には覗き込んで拍手をしてくれる人がいたりするけど、録音って振り向いてもらう力がこういう場合実に弱いのです。
中には映画館のように数人耳を傾けてくれる人もいるかも知れないという期待は打ち砕かれ、無人の客席に最高潮に盛り上がった場面が虚しく鳴り響いているのを確認し、自分のかけた苦労と実際の受け取られ方の違いにすごくショックを感じ、それ以来映画を観るときは最後まで聴くことにしています。(爆)
そうするとやはり音楽的な盛り上がり方が本編のなかではなかったテンションだったりするし、本編では聴けない展開もあります。
でもなかには、最初の録音で予想された長さからテロップの数が伸びてしまい。一旦終わってからまたちがうメロディーでたぶん後から録音したのかなという風にも思える「続編」が続いたりして、内情を想像したりもします。
でも実際は作曲家に悪いけどおしっこしたくて終わるやいなやトイレに駆け込み、そしてすっきりしてまた客席に戻ったりもしていますが。(爆)
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いわゆる“パチもの”@アミノサブリ - 2006.02.22 Wed,00:51

これも発売当時と今じゃパッケージのデザインが変わっている。
これは最近のものだ。

パッケージに類似点はほとんど無いけど、この「語呂合わせ」はまさにパチものの王道。
アミノエブリと来たよ(爆)
沖縄で見つけたのだけど少なくとも東京圏で自分が行くコンビニでは見たことがないのでどこか地域は限定されているのだろうか。
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Ibach(イバッハ)のPiano - 2006.02.21 Tue,09:20

でも歴史は英国のブロードウッドと並んで相当古いはず。
神奈川県の厚木市にある厚木楽器に陳列してあった。
売り物というより現在はディスプレイ状態だけど修理を依頼されていてるものということだった。
ゆえに今すぐ演奏会に使える状態ではないけど、なんか弾いてみると音がとんがって無くて古い時代のレコードを聴いているような独特の音がして素敵だった。
製造番号が目立つところに見つけられなかったので良く分からないけど20世紀前半ひょっとしたら、初頭かなと思えるくらい古いと思います。
その独特というのが大事なんだよね。この前の同じカテゴリーでもベヒシュタインの古い楽器のところでもかいたけど。
会社によって、あるいは個体によって違う個性って人間の個性と同じで大事だと思う。
毎回書くけどこういう楽器がちゃんと手入れをされて置いてある演奏会場がもっとあればいいのにって本当に思う。
スタインウェイやヤマハでは出ない音があるんだけどな。

丸いお尻も好きだけどこういう形も趣があるね。


脚線美の種類から行くと、猫足も素敵だけど、こういう丸い脚も美しいと思います。
関係ないけど、ブログのアクセス解析で「検索ワード」でどうやってアクセスしてこられたかというのを参照することが出来るのだけど、「脚線美」というので結構このページにヒットしている方々が多くてその結果がこれだったりするのでさぞかし怒らせているのだろう(爆)けどこれでまた一つヒットするネタが増えたね(爆)


写真の例が、ニューヨーク・スタインウェイだったりするところがちょっと珍しかったり(爆)
ハンブルグと書いてある方が沢山見かけるしね。
一概にどっちが良いとは言えないのだろう。
各々言い分があるだろうし、技術者の中にはその特徴を聴いただけで分かる人もいるのかもしれないが、自分は見ないで弾いていて「弦の留め方」がどっちなのかは分からない。
楽器は様々な要素が総合して弾き手にとってファンタジーを感じる「楽器」になるのだと思う。
酷い状態のスタインウェイより、良く調整された国産のピアノの法が楽器としては素敵な音楽をする楽器になりうるのだから。
まあ「腐っても鯛」という言葉どおり、腐ってもスタインウェイみたいなこともあるけど、持ち主の無理解で酷い状態なのに、ブランドとして「西洋の名器」だから凄いだろうとちゃんと手入れをしてない会場もたまにあるのだけど、そういうときは聴く側もそういうブランドで楽器の鳴りを期待するから始末に負えないときがある。
逆に、国産の物でも弦を一本ずつ独立して留めてある方式のメーカーがあるけど、その会社の楽器は全く好きになれない楽器だし、構造の特色の一つは楽器を成立させる要素だけど「音楽」をするにはその部分だけが演奏を気持ちよくする「すべて」ではないからね。
イバッハから話題がずれちゃったけど、こういう楽器で演奏会してみたいものです。
それと、Steinway & sonsと同様に、メーカー名に「息子」という言葉が付随しているのは、やはり職人が世襲制であったことの象徴で面白いね。
2005年にウィーンに行ったときに訪れた工房では、今の主人がなんと五代目だというからびっくりした。
歴史を感じます。
蛇足だけど、ピアノの工房と同時にダンススタジオをその彼が主宰しているのがまた凄いのです。(爆)
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植物に詳しい人からするとおかしくともなんともないのだろうが、公園でこういうのをみると、おもわず「なんじゃもんじゃ」と言ってしまうところがキャッチーなのかもしれません。
この別名の真意を知りたいものです。
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サンタ・バーバラの思い出 - 2006.02.19 Sun,20:09

結構こういう形のオブジェ好きなんだ。
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いわゆる“パチもの”@リポビタンDシリーズ - 2006.02.19 Sun,16:02

リポルタミンは神奈川県相模原市内のスーパー三和で買ったが最近は全然みかけませんぞ。幻の一品か。


その後自宅近くにSEIMSの店が出来たのでよく見かけるようになりました。
リポルタミンと同じコンセプトですな。
しかも味までリポビタンに大変似ているよ。
このSEIMSブランドは色々この手の商品が多いらしい。他にも見てみたい物です。
リポビタンにもタウリンの量が違うものがあるのに呼応してリッチミンもリッチミン2000というのがあります。

感謝感激です。DとVの違いはあるが、「~ビタン」ということと、全体を通じて「語呂合わせ」がパクリものの王道を行っているとおもいます。
田村薬品工業株式会社(大阪市中央区道修町1-7-10)製造販売だそうだ。

「リ」で始まってないので、一見リポビタンとは似ていないようですが、ビタンをみればやっぱり、Dだし、仲間に入れた方が良いと思った。
タウリン1000だの2000だの、今度は3000か、数字のキャッチフレーズはこの他にも見渡すと実に多い。一時はそのカテゴリーで集めてみたがあまりに多くてその割に面白味に欠けるのでやめた(爆)

たぶん閉店セールもあったので、70円もしなかったように思う。

なぜならば、
1. 「新グロモント」の「新」
2. 「グロンサン」の「グロン」
3. 「チオビタドリンク」の「ビタ」
4. そして、「リポビタンD」の「D」
といくつもの有名なドリンク剤の名前を含んでいるからだ。オリジナルな物は、ビターのなかの「ー」しかないじゃないか。(爆)
製造元は、正露丸の類似品にも紹介した「常磐薬品」だ。
さすがだ。どこで買ったかちょっと忘れちゃった。値段は100円台だったと思う。
2001の秋であることは間違いない。

最近集めるのに興味を失っていたが久しぶりにみつけた。上のリポサルミンに名前だけ似てるね。
そして、グロンビターDも同じ会社だからやっぱ常磐薬品はこのページの期待に相当応えてくれるすばらしい会社だと思う。
常磐薬品の正露丸はこのマークそのものですから正露丸コレクターとしてはなかなか嬉しいし(爆)
また見つけたらこの記事自体を更新しよう。
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Bechstein(ベヒシュタイン)1924年製 - 2006.02.18 Sat,00:04

タイトルにある楽器(写真右のC.Bechstein)は、今年の一月京都にある森田ピアノ工房でのコンサートで弾いたものである。
その記事の中でも表明したとおり、小さな楽器だとは思えない立派な響きがした楽器です。
すごく内面的な曲を弾くのに気持ちよくなる楽器、と一言で書いておきましょう。
楽器の大きさ(165センチ)にしたら、立派な低音が鳴ってくれたことはコンサートブログでも書いたけど、高音部だって、現代のヤマハ(大昔はこのベヒシュタインがヤマハの手本だったらしい、今はスタインウェイが手本になっているようだけど)やスタインウェイの様に高音部を響かせるためのアリコート方式をとっているわけでもないのに、気持ちよく響いた。
たしか最近のベヒシュタインはアリコートを取り入れているんじゃなかったっけな。間違えていたら誰か教えて下さい。
需要と供給の関係でスタインウェイっぽくしないと売れないからなのかな。
だんだん個性がなくなっていくのかな。
これだけ良く鳴るわけでスタインウェイともベーゼンドルファーとも違う良さがあるのに。
もちろんこの楽器は森田ピアノ工房の手入れの水準が高いから気持ちが良いわけだが、楽器の才能としてもとても素敵な音のする板を備えている感じがあったなあ。
経済的に余裕があったら間違いなくこの楽器は自分の部屋にも大きさ的に合うしとても欲しいと思った。
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宮沢賢治原作“どんぐりと山猫”について - 2006.02.17 Fri,16:40

この記事はかつて別の場所で運用していた演奏会専用ブログに投稿していたものですが、そちらのブログを閉鎖する為にこちらに移植するものです。
そのブログが記事のバックアップができないゆえ、本文は元々の投稿日時に指定しましたが、コメントの転載についてはその投稿日時は全く正確なものではありませんので、それは今後投稿するたびに文末に記述することにします。
********
この作品は宮沢賢治の原作による語りと音楽の為の自分の作品であるが、そういえば内容についてはあまり書いたことがない。
外面的にどういうきっかけで書いたかとか演奏記録については該当ページを作っているが、原作についての「読み方」については、共演者と語り合ってきたにすぎない。
ちょうど知り合いのたなか秀郎氏のブログにこの作品(もちろん賢治の原作)についての一文がでた のでそれに対するトラックバックとして、この原作についての自分の見解を以下に書いてみようと思います。
書くという行為は思考を呼び覚まし、実は自分の中で新たな発見がありました。
それ故、「演奏会専門ブログ」と銘打ったこのページに新たに「作曲ノート」としてカテゴリーを一つ増やしました。
結局は昨年作曲した“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”についての見解も比較対象として言及することになりますから、記事のタイトルはふさわしくないかも知れません。
この記事については元記事があって触発されて書いたことゆえに、これから書いてあることを読む前に、たなか氏のブログを読んで頂いた方が良いと思われます。
もちろん、それより前に“どんぐりと山猫”、及び“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”の原作を読まれることは条件ですがm(_ _)m
最近は著作権も切れているのでネットで検索すると全文参照することができます。
**********
たなかさんの文章はそのまま僕の作曲した音楽の解説文になると思われるほど、自分にとっては国語の時間に先生の説明が自分の思っていたのと同じで嬉しがるのと同じ感想を持ちました。
別のページでたなかさんが、拙作を「透明な人形劇」 と評して下さいまして、それも照れずに言えば自分の指向している世界観の様なものを客席から看破してくださった気がして、本当にありがたい理解者を得た幸せを感じています。
物語の最後、なぜ一郎のものに再び「はがき」が来なかったのか、というたなかさんの解釈についてはたしかにそのとおりだと思います。
でも、ちょっとそれだけではなく、ちょっと考えすぎの深読み(爆)と言われてもしょうがない僕の見解を、その「模範解答(決して皮肉を込めているのではありません)」に対して書いていこうとおもいます。そうじゃなければ改めてこうやって記事を書く意味がない(爆)
裁判をすっきり解決した一郎の「このなかでばかでめちゃくちゃでてんでなってなくてあたまのつぶれたようなやつが一番偉い」という言葉は、たなかさんの記述しているとおり、この童話を「寓話」にしたてる重要な台詞に思われます。
しかしながら、実は「本当に一郎がそういう価値観でいるのか」裁判後、山猫は一郎をさまざまな問答の中で試しているのであって、判決理由のアドヴァイスは結局一郎が「伝聞」で聞いたことを山猫に伝えただけで「本当に自分の価値観」ではないことをついには看破され、その結果山猫に嫌われてしまったゆえ、二度と山猫から手紙が来なかったのだ、と僕は今回文章にするにあたり、考えるようになりました。
もちろんそんな解釈は作曲当時や今年になるまで持ってはいませんでしたが。
ストーリーの最後で「やっぱり出頭すべしと書いても良いと言えば良かった」なんて一郎は思っていますが、実は一番大事な問答は、裁判のお礼に「金のどんぐり一升と塩鮭の頭」の選択を迫られたときなのです。
裁判では一般常識のせめぎ合いの原因である「価値観」をひっくり返した一郎ではありますが、お礼をもらう段になって、金銭的に価値があると常識的に思われる方(金のどんぐり)を選択したとたん、その瞬間から山猫はあくびをしたり、一郎に突然無関心になります。
しかも、予想されたことではありますが、結局金のどんぐりは一郎が現実に戻った時点で色褪せます。
あのとき、塩鮭の頭が欲しい、ともし解答していたら結末は明らかに違ったと思われます。
悲しいのは、一郎は最後までその事実に気づいてないと言うことですし、もう一つの選択肢は、常識の世界に生きている一郎の中には絶対にありえないものだからしょうがないことなのです。
山猫の罠にまんまとはまったことなのです。
それこそが賢治の蒔いた「毒」で、この作品がある意味、裁判の決めぜりふの寓話風なポイントより、その事に於いて相当に読み手に対して挑発的な作品だと自分は思ってしまったゆえんです。
では山猫はなぜ、一郎を「試した」のでしょう。
そこには「一郎という登場人物の基本的な役割」について観察する必要があります。
*********
この一郎という登場人物は物語の中の他の登場人物と比較すると「特殊な次元」に立ってこの物語に関わっているというような気がしています。
この物語の主人公は誰なのか、と問われると“セロ弾きのゴーシュ”におけるゴーシュだと即答できるように一郎をあげることはどうも素直に思えないのです。
確かに物語の中では「出ずっぱり」なのですが。
一郎は登場人物ではあるのだけど、「読み手」というか「観客」の象徴なのかもしれないと僕は思っています。
能でいうところの「ワキ」みたいな存在(つまり恐山のイタコの様に、あの世の人と現実世界にいる人とのメッセージのやりとりをする翻訳者、だからわけるという言葉から派生したわけだ)と言えばよろしいでしょうか。
そう考えると能のシテ(するひと、という意味ですねこっちは)にあたるのは山猫を初めとする「異界」の人たちでみんなシテがかぶっている「面(おもて)」のように、動物や植物しかでてこないのは、そういう事故なのかもしれません。
馬車別当は人間ぽいけど、やはり「異形の人」でしょう。
“注文の多い料理店”のラストシーンで山猫軒が消え去って「現実」に戻るときに、狩人と、死んだはずの犬たちがが二人の紳士を迎えに来ると、なぜかほっとしますね。
あれは、言葉を喋る山猫やその子分達とちがって、喋らないで吠えるだけの「現実に存在する」犬や普通の人間が目の前に現れるから、悪夢から覚めたという実感を表しているように思います。
でも一郎が遭遇する馬車別当には、俺なら山の中であの風貌で鞭をもっていてにらまれたらまず逃げます(爆)
しかし一郎は全然恐怖を感じてないし、自分から会話を始めてしまう。
それは夢を見ていて「これは夢だからビルの屋上から下に飛び降りても大丈夫なんだ」とどこか納得して飛び降りる(良く見るんです)のと同じような動機に感じます。
“セロ弾きのゴーシュ”にも人間と動物が入り交じってでてくるけど、言葉を喋る動物たちはみんな草木も眠る時刻にゴーシュを訪問してくるというのも、異界の住民達が活動しうる時間帯に次元を超えてやってきてゴーシュになにか働きかけている様に思えます。
しかしながら、動物たちも人間達も、“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”にでてくるすべての登場人物には「同じ次元に存在して触れあっている」という「動物と喋ったとしても、それが当たり前に思える存在感」、そして「おのおのとても豊かな感情の起伏があること」を感じるのです。
しかし一郎は徹頭徹尾、醒めた目であの山の中の出来事を見ているようでなりません。
“ヘンゼルとグレーテル”しかり、“ハリー・ポッター”しかり、やはり“森”というものは、恐ろしいものが住んでいるから、子供は独りでその中に足を踏み入れることはタブーである、ということは洋の東西を問わず良くある一種の常識なのに、一郎は朝ご飯を食べてすぐに出かけていきます。
なんでこんなにお気楽なのだろう。
たしかに手紙をもらった段階では、お約束としてキャラクターを想像するのに難くない「子供らしさ」を備えていて、家中飛び跳ねて喜んでいることになっていますが、翌日山に入ってからは完全に「客席」でその「異界」を眺めているような感じがしています。
そうなんです。主人公ならもっと自分が遭遇する山や森の中での困難を克服していくことで観ているものに感動を与えるはずでしょう。
しかし、この“どんぐりと山猫”を読んでいて馬車別当や山猫に出会うまでのことは、凄く魅力的なロード・ムービーの様な冒険的な感じがするのに、出会うキャラクターの個性ばかりが際だっていて一郎の存在感はかなり希薄。
それは前述の夢の中のように、つまり「絶対に自分は傷つかないけれど目の前に起きるスペクタクルはびっくりしながら、時に不安をかんじたりもしつつ、楽しんで見てるし、観客にストーリーの展開について舞台上から選択を迫られたら喜んでそれに協力するけど、それによって火を浴びたり水に飛び込むのは登場人物の方であって自分は椅子に座って(つまり安全地帯から)笑ったり同情したりする」立場みたいな感じが強くします。
一郎がやっとのことで出会ったはずの馬車別当や山猫とずっと会話をするときは、なにかたとえていうと、芝居の終演後の楽屋で客と出演者が初めて話すみたいな「遠い距離」を感じざるを得ません。
たしかに一郎は客人ではありますが、同じ客人でも“注文の多い料理店”の紳士達とはやっぱり違う。
未知のものと出会う際に普通にもつであろう「恐怖心」というか「なんじゃこれ」みたいな「驚き」が「当事者」のはずなのに希薄なところがとても現実から遊離している感じがするのです。
山猫との初遭遇にしたって、突風とともに背後から現れた山猫に対して「やっぱり山猫の耳は立って尖っているな」なんてすごく冷静に思っちゃって相手が「ようこそいらっしゃいました」という前に「やあ、昨日ははがきをありがとう」なんて馴れ馴れしく恐れを感じず自信たっぷりなのもいい加減にしろって感じです(爆)
ゴーシュと動物たちは、共演者達の既知の関係の言葉のやりとりの次元みたいなものを、設定はたしかにおたがい初対面なのに、感じてしまうのです。
フランス語でいう、vousとtu、ドイツ語で言うSieとDuの違いみたいなものかな。
その距離は比較するとすごく大きい。
最初ドアを開けて対峙したときは反発から始まってはいるけど、対話を続けていく内にゴーシュは相手に対して、接し方が変化していくのが読んでいて分かるのだけど、一郎は道を聞くか単なる挨拶と、質問されたことにのみ答えているのに過ぎません。
そういう一郎の不思議な立場が、僕は、なぜ一郎が再び山猫からの招待状を受け取れなかったかということに繋がる重要なファクターだと考えます。
つまり、賢治は読み手(一郎)へ挑戦状をつきつけているのです。
塩鮭の頭は現実世界ではただのゴミです。
しかし芸術やスポーツの実現者の創作過程や訓練のなかには結果しか見ない人たちからすると、ずいぶん無意味に見えること、しかしながらそれを大事にすることが一般常識でははかれない価値があることの象徴だったりもするのかな。
金のどんぐりには「すぐに分かる価値」があるからそれを一郎は欲しがったのでしょう。
しかし「塩鮭の頭」こそが、あの世界では最も価値のあるものだったのかもしれません。
というかその価値を分からなければあの世界でだれとも仲良くはなれないのですよ。
異界なんですな、そういう意味でも。
しかしここまで考えて自分の作曲(1980年)時の、脚色の失敗に気づきました。
さまざまな動物との出会いのなかで、「りす」との部分だけ原作ではあまりにあっけなかったので、自分の曲では、りすと、もっと「対話」をさせています。
否、させてしまっています。
音楽的にはある意味その場面のアイデア(乱暴に言えばラップみたいに音楽のリズムに合わせてメロディーなしに会話をしている)は気に入っているし、聴いた人からも結構面白がってもらえる場面なのですが、あんなに「親しげ」にりすと会話をさせたことは当時の自分にとって一郎の立っている平面が他の登場人物とは違うということに気づいてなかったからゆえのことです。
他にも脚色しました。
劇中劇(とある意味言えるかも)である裁判のクライマックスはなんと「固まってしまう沈黙」であり、若い作曲家は、それを音楽作品の頂点にどう表現させるか稚拙な技術では無理におもったので、判決が決まった後に、原作では書いてない「凱旋のダンス」を山猫と馬車別当、そして一郎にまで一緒に踊らせてしまいました。
この舞曲については最近思い切って原作に忠実にするために、割愛する勇気ができたのですが、りすの場面に関しては、これはもう未熟な若いアプローチだったということで、その曲を削除することなくこれからも弾いていくと思われます。
こうやってこの投稿時点で初演以来60回近く30年弱の付き合いをもって演奏してテキストを読むと、読み方って変わってくるものですね。
ある意味作曲した当時の「世界観」を全否定するのは大人げないとは思うし、いつ何時リスの場面を改作しようとするかもわからないけど、こうやって考えてみることは僕にとって決して無駄なことではないと思われます。
しかしながら悪い癖でこれを説明するにのにこんなに文字数を使わないとだめな文章力はなんとかしないといけないとは思います。
ここまで読んでくれた人に感謝です。
簡潔に書き直すことができたらまたこの記事を改訂することもあるかもしれません。その場合にはコメントに報告します(爆)
蛇足ながら、昨年作曲した“注文の多い料理店”に出てくる(実際には登場しないが)、山猫の敗走の後日談として“どんぐりと山猫”があるという奇想天外な演出プランを僕は持っています。
“注文の多い料理店”では、計画が頓挫してしまった山猫はリヴェンジを期し、部下も新たに雇って一郎に挑戦状を送ったのです。(爆)
ゆえにこの愚かな作曲家は“注文の多い料理店”の音楽の中に密かに“どんぐりと山猫”の中にある山猫のモティーフを埋め込みました。
上演するなら“注文の多い料理店”→“どんぐりと山猫”の順であることが望ましく、その場合初めて聴く人は“注文の多い料理店”の中で山猫のモティーフを認識することは不可能ですが、この屈折した解釈(爆)は二つの作品を並べて聞けば納得してくれる人もいたりするでしょう(爆)
もう一つ書いた“セロ弾きのゴーシュ”に対となる作品として、今年か来年までのあいだに“オツベルと象”を書こうと思います。
これをカップリングするのも客観的な根拠に基づくものではなく、僕の独断です。
だんだん良い人になっていくゴーシュと、だんだん悪い状況になっていくオツベルと象、その正反対の変化が面白いと思うのです。
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芸術は破壊行為から始まる - 2006.02.17 Fri,09:08

categoryのscrapというには飛躍しすぎている様に見えるが、artになり得る、「もう通常の使用には耐えないもの」という意味で立派に僕の定義するscrap(artに見えるもの)の資格は十分に持って居ます。
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