
2005/5/26(木)門仲天井ホール 白石准のピアノ・ラボ36。
この日は、白石准の主宰する自作の演奏団体、“山猫合奏団”による、白石准の作曲した、宮沢賢治原作の、“どんぐりと山猫”と“セロ弾きのゴーシュ”の二本立ての演奏会でした。
通常は、語り手は1人ですが、“どんぐりと山猫”の公演回数が59回目くらいになったのを記念して、初演以来、ずっと語り続けてくれている楠定憲(くすさだのり@写真左),高山正樹(たかやまさき@写真右)の両氏に役割分担をし、ある種朗読劇仕立てでやってもらいました。
“セロ弾きのゴーシュ”のチェロは、初演の奏者であり、依嘱者でもある、大島純氏でしたが、ゴーシュでは、ゴーシュの台詞も担当してもらいました。
今までにない劇的な演奏になった実感があります。実に面白かった。
(撮影byララッチさん,写真は突っつくと大きく表示されます。)
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この記事は元々別のページから移植してきたのでその場所で記述されていたコメントをここに紹介します。
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■どんぐり山&ゴーシュ@門仲天丼
なかなかに筆舌に尽しがたい素晴らしいコンサートで、腰が抜けるかと思いました。感動のあまりここに初めて書きこもうと思ったくらいです。個人的にはモテるためにやるだけが音楽でないという当たり前のことを再認識しました。
楽譜は死後も残された方がよいと思います(笑
どうもありがとうございました。共演者の方々にもよろしくお伝えください。
大和田 (2005/05/27(Fri) 10:39)
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■どんぐりと山猫、セロ弾きのゴーシュ@門仲天井ホール
普段は「ブラボー」野郎を軽蔑するのですが、自分でやってしまった。
家内と二人で色々語り合いながら楽しく帰りました。
ゴーシュの大島さんはチェロの大役の他に台詞までご苦労様でした。
あと何回かやれば、もっと目を剥いて、大げさにゆっくりしゃべれるのでは?
何か、デモンストレーションテープ(CD、MD??)のようなものを
もらえれば心当たりへの営業をやってみたい。
4人を呼ぶとなると、(恐怖のアゴアシは別として)予算は相当考えねば駄目でしょうね。
ぽんちゃん (2005/05/27(Fri) 15:43)
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■どんぐり&ゴーシュ@門天ホール
門天ホールが小さな劇場となった一夜でした。
勿論、朗読の域を保っていながら、音楽と朗読が融合していたように思います。
言葉も音楽も心地よい拍動があり、間がとても大切に演じられていると思いました。
私は、最前列に陣取り、出演者の身体から発する気を感じていました。(出演者にとっては、目の前で、笑いこけてるのはやりにくかったかもしれません。でも、おかしいんですもの!)
どんぐりでは、音楽が朗読を色づけするように思われ、准さん独自の世界が広がったと思います。透明感があるというか、私はとても美しいとおもいます。そして、音楽が朗読のように語っていると思います。
私は、岩手出身の友人がいて、岩手弁で宮沢賢治の作品をいくつか聴きました。賢治の死生観と共に、作品の面白さにも触れることができていたわけですが、音楽がこれほどまでに語れるとは思っていませんでした。
言葉と共に音楽は、想像を広げてくれると思いました。
もうひとつ言えば、言葉と音楽は境界線がなく表現するという点では、同一のものだと思いました。
ゴーシュは、圧巻でした。
前回よりパワーアップしたようでした。
前回とはまた、違った感動でした。
これは、音楽の作品として聴けるので、一緒に行った友達は聴きやすいと言っていました。
私は、お話の中から、音楽が主張をもって飛び出す(お話から別になっているということではなくて!)ように思われました。
どの曲がすきって優劣をつけられないけど、やっぱり虎狩かなー。
新たに加えられた奏法が効いていました。
面白いのは、ゴーシュが最後に上手になることですね。
また、次回楽しみにしています。
雪 (2005/05/29(Sun) 09:36)
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■ゴーシュ最高!!
兎に角、楽しく、すばらしく、ぞくぞくする時間でした。
友人と会社の同僚も大満足です。
山手111番館でももちろんすてきと感じましたが、先生頑張っているなってどこかで思っていて自分の家だったらモンポウを弾いて下さいっていえるのになと思っていました。
そんな思いもいだかせない何かがゴーシュにありました。
よかった。
sekimama (2005/05/29(Sun) 21:50)
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■5/26☆どんぐりと山猫/セロ弾きのゴーシュ
久しぶりに訪れた門天での演奏会は、「え、私こんなに想像力を膨らませたことって今まであったかな?」というくらい、目の前に鮮烈にイメージが広がる快感を味わうことができた夜でした。
何かを想起させるものだけが音楽ではないけれど、やっぱりこういうとき、音楽ってなんと計り知れない可能性に満ちているのだろう! と素直に思います。
音楽と言葉の素敵な関係。
「どんぐりと山猫」と「セロ弾きのゴーシュ」における、それらの関係の違い。
音楽、リズムによる抑制によって生まれるもの、そして解き放たれて自由になったことで感じるもの。
それらを体感し、ワクワク、ゾクゾクして大いに楽しんだと同時に、表現することやその手法や技術について、自分にとって大きな発見もありました。
言葉も音楽も、きっとまだまだ私の知らない無限の可能性を秘めている、私もいろいろ試してみよう! ……そんなことを思った夜でした。
次回はぜひ友人を連れて。この感動をたくさんの人に味わってもらわなきゃ!
ありさ@Piano (2005/05/30(Mon) 02:55)
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■5/26,どんぐりと山猫&セロ弾きのゴーシュ@門仲天井ホール
初めて耳に(目にも)したゴーシュ、最高でした。
特に、「印度の虎狩り」!
ゴーシュのセロが、ボン・ボン・ボン・・・と太鼓の音のごとくを響かせての始まりに、たちまち勇ましく気分高揚し、脳内に広がる虎狩りの風景と、悶絶して暴れる猫の様相に圧倒され、そのリズムに身を委ねて、酔いました。
多分、観客一同、それは感じられたのでは、と思います。
あっという間に終わってしまったようで、もっともっと長いバージョンでも聴いてみたい、と思いました。
“謎々のピアノマン”(?)の台詞参加も面白く、大変楽しませていただきました。
これは、すぐれた作品だと思います。老若男女、すべてが楽しめます。
死後、楽譜はすべて破棄する、などどジョークで言われてましたが、それは人類の文化遺産喪失になりますので、どうぞ、くれぐれも思い留まられますよう。
み~は~ (2005/05/31(Tue) 15:51)
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■無題
26日は、芸達者な共演者にも恵まれ、白石准の世界を堪能しました。
いつもより聴衆も多かったが、本当にもっと多くの人に聴いてもらいたいと思った。
康 (2005/05/29,10:08:15)
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■凄い!
26日はプロの凄さを見せ付けられました。
真鶴での「合同レッスン」で<どんぐりと山猫>の台詞を少しやらせていただいた事があるのですが、リズムに合わせて台詞を言うのがどんなに大変か分りました。それを難なくこなしていくのを聞いて凄い!と思いました。
プロだから!だけではなく
素敵な音楽とメルヘンの世界にも入らせていただいてありがとうございました。
好きで 聞きたいところに行くって 遠いという距離感はありません。
ただ 帰りが遠いですけどね。
すー (2005/05/29,22:11:27)
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■よかったがいっぱい
素敵なコンサートでした。やっぱり行ってよかった!
私が子供のころは、ラジオ劇がまだ健在でしたが、
その憧れのラジオ劇を生でみられたような、とてもワクワクする一時でした。
見て楽しく、眼を閉じて聴くとイメージはさらに増幅して、
やはり子供の頃が思い出されました。
3月12日の’どんぐりと山猫’のときもそうでした。
私の生まれ育ったところは、北上川の下流にあります。
賢治の愛したイギリス海岸はその上流です。
北上川は、とても水量の多い、美しい川です。
賢治の童話が、この川と北上山地とその上に広がる空から生まれたと思うと、
とても懐かしくなりました。
ですから、この童話を音楽劇に創られた白石さんとは、やはりご縁があったのですね。
ピアノも、チェロもよかった。高山さん楠さんの語りもよかった。
チェリストの冷や汗もよかった(爆)
もちろん、小ねずみも・・・よかった。
余談ですが、このコンサート、
私の母校(明治の木造校舎が、重要文化財になっています)で
上演されたらいいだろうなあと、ふと思いました。
もうひとつ余談。
郷里には、美味しいウナギやがあります。
北上川を眺めながら、天然川ウナギが堪能できます。
川べりに漂う蒲焼のにおい、忘れられません~。
こんなことまで思い出しながら、楽しませていただきました。
本当に、ありがとうございました。
月人 (2005/05/30,01:40:39)
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■5/26 門仲天井ホール
遅ればせながら投稿させて頂こうと思ったら、突然ブログ形式になっていてびっくりしました(笑)。
白石さんのコンサートに行くと、いつも贅沢な気分になります。それはその場限りで終わってしまうものではなく、何日たっても後を引くような濃厚な感動なのです。
今回は語り手がお二人の上、セロ弾きのゴーシュでは大島さん自身がゴーシュを演じ、さらには白石さんも台詞に参加するという、なんともゴージャスなキャストで本当に楽しませていただきました。
どちらの作品もまだ二、三度ずつしか拝見していないのですが、毎回新鮮で異なる気分を抱けることに驚いてしまいます。会場や参加者、演出方法の違いなど様々な理由があるのでしょうが、一回一回の演奏がそれぞれ違う色彩を持つ記憶として自分の中に蓄積され、そのことに不思議な嬉しさを感じるのです。
これは、宮沢賢治の小説としての「どんぐり」と「ゴーシュ」では味わえない感覚ではないでしょうか。小説は何度読んでも大体同じような感想しか得られませんが、白石さんの「どんぐり」と「ゴーシュ」は一度として同じ顔を見せず、回を重ねるごとにどんどん存在感を増していく、まるで生き物のような作品だと思います。
まだそれほど日が経っていないにもかかわらず、早くも再び「彼ら」に出会える機会を心待ちにしている自分がいます。
白石さんが生み出した二つの作品世界は、もうすっかり私の中に息づいてしまっているようです。
にしだ (2005-06-02 23:30:05)
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■明日に向けて、、、
感じたことを、言葉でまとめようと思っていたら一週間が過ぎてしまいました。
「どんぐり」は語りが対話になったことで、一人語りより役者さんの負担が減り、より穏やかで深い緊張感を楽しめました。
「ゴーシュ」は初めてでしたので、どう展開するのか心から楽しみました。楽器を練習したことのある人は、多少なりともゴーシュの心境になったことはあるでしょう。チェリストがゴーシュを演じることは、演じるというより、心の奥底からせりふに共感した結果の言葉のように感じました。演技という枠を超えて伝わりました。別にチェロでなくても、ピアノ弾きでも、ラッパ吹きでも、器楽奏者なら普遍的に成り立つのではないかと思いました。でも、ラッパを吹きながらせりふは言えないから、微妙に間は変わるかな、、、そう、歌い手さんが語っても、役者さんが語るのとは違う、奥行きがでそうです。
それともう一つ、朗読劇と言う要素に加えて、観客も劇中の音楽会の聴き手として参加できる楽しみもありました。以前、N.Y.で「タマラ」という観客も参加するというか、一軒家のパーティーの客と言う設定で飲み食いしていると、別の部屋で殺人事件が起こり、その騒動に観客も巻き込まれて一緒に犯人探しをする、という芝居を体験したことがあります。言葉が今ひとつで、日本語なら、もう少しうまく役者にからめたのに~といううちに終わってしまったのですが、観客の反応によってストーリーは微妙に変わってしまいます。そのときと同じような興奮と満足を、味わいました。金星楽団の聴衆として、山猫合奏団の聴衆として、境目が融けてしまった空間に入り込んだ快感です。
准さんの作品はまだまだ変化して行きそうで、可能性がありそうで「明日」が楽しみです。そして、作曲者と同時代を生きて、人生の今だけの瞬間に作品とその時の聴衆とともに立ち会える贅沢がとても魅力です。
のの (2005-06-03 10:00:21)
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