Sunday in the Park with Georgeの楽士たち - 2009.07.24 Fri,11:04
今は時間がないので、それぞれの人物像へのコメントはそのうち加筆しようと思っています。
演奏場所は、オーケストラピットではなく、舞台上手奥の空間で弾いています。
プログラムには各パート二人ずつ書かれていることがほとんどだけれども、それは、レギュラーと代役が併記されているので、同時に演奏して居るのは指揮者を除いて7人です。
たまたま昨日、一昨日は全員レギュラー・プレイヤーだったので、撮ってみました。







Sunday in the Park with George開幕しました - 2009.07.06 Mon,13:12

僕の作業環境はこんな感じです。
ピアノのペダルの右横にちょっとみえているフットスイッチで右側のキーボードの音色を切り替えます。
キーボードを弾くときにヴォリュームペダルを踏むことは皆無な様にしてあるので、あとチェレスタの音を弾くときとか一部、ダンパーペダルを使うのでそれが見えています。
ときどき、Steinwayのペダルを左足で、そして同時にKeyboardのペダルを右足で踏んで弾く時もあります。
だからピアノのを椅子が左側に寄せて右側の脚が移動するのにキーボードスタンドを蹴らないようにしてあります。
キーボードには譜面台を置いていません。
だからキーボードを弾くときの目線は指揮者(画面でいえばほぼこの写真の真上方向)とピアノのところにある譜面に向いています。
カーテンコールのどこか最後の方の4小節間だけこのバンドの姿が不思議な形で客席に見えるらしいけどまだ弾くのに忙しくていつそうなっているのか知りません。

開演前練習していたりプログラムを読んでいる時間帯のことです。
こんな事は未だかつてなかったけど、今回、服装に関しては、「黒は禁止」ということでした。
その理由は、先に記述したとおり、カーテンコールで客席に見えるときに黒だと溶け込んでしまうからということらしい。
昨日はマチネ(昼公演)の開幕という亜門氏もかつて経験がないと言っていましたがそういえば、僕もそうなので、終演後、さっそくロビーで酒盛りが始まりましたが、バンドはその後階下の居酒屋に繰り出し、事務所主催で一升半の焼酎を摂取し、帰ろうと思ったら、若い人たちが「締めにラーメン」と言いだし、2007年決闘血が高いといわれてからそういう行為を自粛してきた自分でしたが、たまにはいいだろうということで、博多ラーメン屋に行き(珍しく記憶があったぞ)、そして珍しく何も紛失することなく、帰宅しました。
まだ日が沈む前から飲み続けていたので、正気を残したまま帰宅するとは偉いぞ、自分と思いました(違)
昨日は終演直後尿意を催し、客席ロビーにあるトイレに向かおうと舞台袖からドアを開けて出たとたん、亜門氏と僕の共通の大学の同窓生三人に出くわし、びっくりし喜び合いました。
その三人は特に高等部から大学まで亜門氏と一緒だったせいか、作品を見たら彼の人生の投影に見えたような家族的な感慨を語っていました。
ほとんど弾いているところからは観客の反応が分からないので、懐かしい再会は嬉しかった。
Sunday in the Park with Georgeの視覚効果の仕掛けは相当面白いです(加筆再投稿) - 2009.07.04 Sat,10:32
その時点では自分が全部弾いていたので観ることができなかったけど、その前のリハーサル中には、僕と分担し全公演のうち何割か弾いて貰う、もう一人のピアニストに演奏を頼み、二幕の半分くらいは客席にいて、客の視点で観、聴く事が初めて出来ました。
今回のこの舞台は、視覚的には画家、ジョルジュ・スーラー(実際は、英語読みのジョージと発音される)の話だし、チラシにある有名な“グラン・ジャット 島の日曜の午後”がチラシにもなっているので、当然「眼」に訴える演出がされるんだろうなとは漠然と想像していたけど、やっぱり自分は演出家ではないので、具体的にはなにも思い浮かんではいなかったのは当然です、ストーリーも知らなかったんだから。
しかし、こんなにまで「網膜」、あ、だまされてはいけない、表面的な視覚の悦びではなく、二次元だったものが三次元になったり、そこにいろんな人間の人生が重なり合ってリアリティをうきだたせるイメージなんだな、そう、それを観ている人に楽しませるこんなに凝ったしかけのある作品だとは思わなかった。
だからあんなにシンプルな舞台装置だったんだ。
同様に、ほとんど舞台装置がなかった、CHICAGOのシンプルさとは全然違う。
あっちが黒の上に成り立っているシンプルな世界だったらこっちは、根本が真っ白でなくてはいけない世界観だし、あっちは、バンドが客に見えているということが象徴的に大事だけど、これは音楽がとても大事なんだけど、もしかしたら音質には影響があることは承知の上で、客席から見えないところから音楽が鳴ってくるというのは視覚効果を最大限に強調するためには必然かも、、とはこれを書いていて思えてきた。
さっきまでは、なんで、せっかく生演奏なのに、マイクを通した音しか客席に聞こえないのか、いくらピットの無い劇場とはいえ、あんまりじゃねえか、とずっと劇場にいるときから、弾いている場所で自分が聴いている「生の音」と客席で聞こえてくる音の質感の乖離にいらいらしていたんだけど、やっぱりこうやって文章にしていくあいだに点と点がつながってくることもあるんだな。
これこそ点描に通じるといったら無理矢理な感じがするけど(爆)
話を元に戻そう。
映画の特殊撮影を楽しむというのとはちょっと違うけど、舞台なのに映画を観ているような錯覚、やっぱりこれが舞台で起きていることが面白いといえばよいのか、とにかく観にいらっしゃってその部分も含めて楽しむに限ります。
かつて、高校生の頃(70年台半ば)いろんな「実験映画」(寺山修司さんの「演劇的にアヴァンギャルドなもの、たとえば、「青少年の為の映画入門」と題されて、三つのスクリーンがあって、両側の画面にはなにが映っていたか、もしかしたら寺山修司さんの小学校の通信簿だったかなあ、あとは忘れた、、、そして真ん中には、スキンヘッドの全裸の少年が現れてカメラに向かって放尿するだけ(爆)、とか、別の作品では売春婦みたいな女性が二人観客を画面の中から挑発していたら一人の観客が僕のそばの客席から画面に向かって歩いていくとそのうち画面にひっぱりこまれて画面のなかに現れて身ぐるみ剥がれて真っ裸でまた画面の中から飛び出てくる、、、とか、逆にグラフィック・アーティスト出身の監督のものだと、ストーリーはなく、とにかく眼がチカチカするような感じの、動く「模様」みたいなものがずっと続くものなど、、、)を観て歩いた時期があった(そういえば、当時西武劇場と言っていたこの劇場でもそういうイヴェントで観に来てたんだ)から手法の「新しさ」とかに面白がっているというより、そのころの「アヴァンギャルドなとんがりかた」とはちがって、なんというか「普通に」商業演劇でも素材の一つとしてそういう手法が溶け込んでいることに隔世の感を感じるのです。
でも今回の舞台装置の中にある絵の制作にはすごい苦労が隠されているのだろうね。
自分の仕事としては、かなりピアノ単独の状態から間髪を入れず、ピアノとキーボードを左右の手で同時に演奏することに移動しながら早い曲の譜面から眼がそれない状態で棒を見ながら周りの音を聴いてアンサンブルすることにも慣れてきたので、今日のゲネ・プロでたぶん初日を迎える自信を確実にすることができそうです。
それはそうと、数日前にも感極まって涙してしまったことを書いたが、もう何が起こるか分かっているのに同じ場所でまた涙を抑えることができなかった。
その瞬間、客席は暗かったし、周りに人がいないところで涙をぬぐえてよかったと思いつつ、やっぱり長い間練習してきたセクションとは違い、まだこの作品に知り合ったばかりだとはいえ、またもや涙腺が緩んでしまう心理っていったい自分がどうしたんだろうと思って、楽器のところに戻ったら何人か同じ事を言ってきた。
ということは、みんなそれぞれの私生活に投影しがちで(爆)、なんか思い当たるふしか、心の中の理想を見たのか、どうかわからんけど、これはやっぱりこの手の仕事をしている輩にとっては、低くない確率で心の琴線に触れる内容なのかもしれません。
さすがに弾いているときには大丈夫になったけど、観たらだめだ(爆)
画家の人生なんて知らないわけで、そのリアリティとかが真に迫っているとかいうんじゃないところなんだけど、なんかいろんな場面が重なったあと出てくるある台詞がツボなんですね(爆)
もちろん今回の仕事に関わって居る人全員泣いているわけじゃないから(爆)、これから観る人(音楽家であれそうでなくたって)にとってはもちろん泣けなくても恥じることはないし、ましてや僕に、年取ったから涙腺弱くなったんじゃないの?と言いたくなったとしても、自分の人生に作品を投影して涙するくらいの権利は俺にもあるわけだから、聞く耳を持ちません(爆)。
そんなことより、観にいらっしゃる方は、もしかしたら、
"グランジャット島の日曜の午後"という絵を今一度よ~く、このページや、画集などでじっくり観てから劇場にいらっしゃると、より楽しめるかもしれません。
関連する作品と本作の習作もそこにあるから見比べると興味深いね。
スーラーに着いては、このページに情報があります。
いけないことなんだが、泣いてしまった - 2009.07.02 Thu,01:43
オーケストラの配置は、戸田恵子さんのブログのこの記事に出ているとおり。
これは劇場に入る前に別の場所で稽古していたときのもの。
僕の後ろ姿は一番左だけど、見えているキーボードは、ほとんど右手だけで弾くことが多い。
その90度左に劇場では、Steinwayのフルコンサートグランドが置いてあり、そっちがメインなんだけど、両手で両方の鍵盤を弾いていることも結構ある。
僕のすぐ右に長髪のマルチ・リードの大下君(@2004年のMiss Saigonで共演した)が居る。
その右隣には、Harpが居て、その奥に見えているのが、キーボード(こっちは様々な楽器の音色を担当)の荻野清子ちゃん。彼女の事は、この記事なんかに出ている。
そして、僕の斜め前に、ViolinとViolaとCelloが扇形に拡がって座っている。
固有名詞を出してないプレイヤーのみなさんはみんな初共演の方々です。
一部の人とは飲みましたが、そのうち追々打ち解けてくるでしょう。(演奏上はもうすっかり仲良しだけど)
画面には見えてないが、この写真だと左側に指揮者がいて、僕らは舞台上手の袖の奥で弾いている。
客席からは一切見えないし、きっと生の音は聞こえない。
そうして、僕らは演技も装置も見えない。
練習の最中もついぞ、全貌を見ることができなかったから、視覚的には未だによく分かってないことも多い(爆)
これはCHICAGOみたいに舞台上に乗っかってればまだしも、いつものことだからしょうがない。
台本も渡されないことがあたりまえだし、、
しかし、台詞と歌は聞こえてくるのでストーリーは大体分かる。
この写真の日だったか、最後の場面に来て、台詞のやりとりを聴いているだけで、胸が熱くなった。
泣きそうになってしまい、完全に譜面の繰り返しの回数が分からなくなってやばくなった。
まあ、練習中だからいいや。その瞬間は完全に客になってた。
本番ではもう大丈夫。
すばらしい作品だと日に日に思えてきた。
指揮者用のモニターが僕のすぐ後ろにあって場当たりをしているときに見ると実に綺麗な舞台だ。
やっぱり宮本亜門がこの作品を取り上げようと思った動機の中に、いくら大学の同級生とはいえ、当人に訊いた訳じゃないから僕は知らないが、Candideにあったものとある部分共通して存在する「生きる力を鼓舞する」というテーマがあるのかなって思った。
これは、果たして主婦や、会社員や公務員の人が同じ場面で僕と同じ気持ちになって泣けるかどうかわからないけど、僕はものすごくツボにはまってしまい絵描きの話だけどなんか泣けてしまいました。
スーラーに興味があるひとはもちろんだけど、伝記として見るのではなくとにかく、ドラマとして、そして音楽が面白いです。
生きる力がわいてくる。
初日に向けては今戦争状態にすべてのセクションが入ったので大変で、僕も試行錯誤の繰り返しで失敗も多いけど、なんか客席のそばで弾けないことを除けば(ああだと、生演奏してないと思い込む客が相当居るかも知れない)大変だけど精神的にはちっともつらくなく楽しい。
この時期の劇場のロビーは、幕が開けた時とは大違いの様相を呈しています。
詳しくは伝えるつもりもないけど、本当にどれだけ多くの人がここにいて様々な仕事をしているか実感できるという感じです。
休憩中もロビーなんかに居場所というかスペースはない様な状態だから(楽屋がとても遠い場所にあるからいちいち行きたくならない)、結局楽器のところにいて何かしらしています。
ふと思った。
かつてやはり宮本亜門の演出だったときにSound of Musicも弾いていたけど、昔のミュージカルって曲を演奏した後、台詞の場面が長くて時に、15分くらいは演奏がなく、ミュージシャンがタバコなんかを吸いにピットの外にでていっちゃうというのがあったけど、最近のミュージカルというかこれだって20年くらい前のものだろうけど、結構間が空かずに弾き続けているというやつが多い気がするね。
そういう方がだれないで集中力が続くから良い。
そういえば、ミュージカルって、曲ごとにナンバーが着いていて、たとえば、最初の曲がM1で次がM2とか呼ぶ。
関連している曲や続けざまに来る曲の中には、その後に接尾辞みたいに、アルファベットが続いたりする。
M1AとかM1Bとか。
しかし、今回のこの作品の二幕のM29と名付けられた曲からは、ずっと曲が続いて来て、なんとM29Pまであったりする(爆)
こんなのは初めてだ。
しかも譜面を初めて見たとき、その一曲前は自動的にM29Oと書いてあって、ハイフンが入ってればまだしも、最初「290曲め?」ってジョークが飛んだのはお約束通りだった(爆)
寝ている時間よりピアノを弾いている時間の方が長い生活もたまには楽しいものです。 - 2009.06.27 Sat,01:26
ピアノのパートは、CHICAGOのときは、自分の位置じゃかなり全体の中で大事な音を弾いていたけれども、録音したバランスで聴く限り、ほとんどピアノの美味しい場面は聞こえてなかったから残念だったけど、これはたぶん良くも悪くもたくさん聞こえるだろう。
今日(昨日)から、ピアノの横にセッティングされたキーボードと一緒に二台を渡り歩く練習も兼ねて歌合わせに臨んだ。
7人の音楽家が奏でるそれぞれのパートが無くてはならない役割をもっていて、まるで絵を描くための絵の具の様だ。
家に帰っても久しぶりに、丑三つ時に近い時刻まで練習したりしてみても、楽しくてやめられないが、ゴーシュみたいに寝不足で行くと歳だしろくな事がないから寝てみるけど、一日中頭のなかにはこの作品の音が鳴っている矢先、明日じゃない今日からこの仕事のリハーサルが始まるのだけど、これも午前中から夜まで一回のリハーサルが二日間を二回やるのだけど、この一ヶ月だけ区切っても自分が舞台で弾く本の厚さを重ねると結構な腰掛けになるかもしれないのだが、やっぱりマイペースだの、自分が自発的にやろうとしていることの処理能力なんかたかが知れていて、たまにこういうタイトなスケジュールのなかで、いくつもの作品と同時につきあわなければいけない様な異常な負荷がかかっている状態だと、疲労しているはずなのに、面白さが先に立ってすぐに忘れる。
傍から見てるとすっごく楽しそうに見えるこういう仕事でも、実にくだらないパワー・ハラスメントを受けるような仕事をしたりすると、それは他の仕事同様、精神的に重くなってきてとほほになるけど、最近は共演者もこっちが楽しくやる人ばかりだし、このカンパニーは音楽家は初めての人がほとんどだけど、雰囲気も良いし、今日(じゃない昨日)初めて役者と対面したとき手を振ってくれる人が半分近くいたので嬉しかった。
この間から稽古ピアノの人がそばで聴いているんだけど、自分が他の作品でその役割を担っていたときの気持ちを考えると「下手に弾いたら」ある部分役者以上に傷つくのはそういう人たちだと(俺なら毒づく)分かっているので、せっかく育ててきた作品を嫁に貰うよというくらいの責任感を感じ、特にピアノのパート(当初は電子ピアノで弾くことになっていたけど、劇場にあるSteinwayで弾くことになった。この劇場で演奏したという思い出は1985年くらいに武満徹さんのやっていたMusic Todayでの思い出に遡るから同じ楽器じゃないだろうけど、それ以来だから興奮している)だし、初日に彼女たちと乾杯できたらと思う。
客よりもそっちをまず何よりも喜ばしたいくらいだ(爆)
今回はピアノのパートにはBGMの最中アドリブして良い箇所が珍しくあるのでそれを数十回遊べるのも自分の楽しみの一つ。
今日はそっちの練習はお休みだけど、子供たちのヴァイオリンと一日中戦う。
戦うけど遊ぶ。
日曜日もそっちに行くからMusicalは二日間お休み。
二日間は、ベートーヴェンやモーツァルトやヘンデルや諸々クラシックの演奏家みたいに(爆)、弾いてくる。
最近僕のジャンルはどこにあるのか分からなくなりつつありますね。
「負荷負荷な寝心地」は魂の強化には必要な土台だ。
どだい、マイペースで上手く行ったことはよく考えたら俺の人生で何もない。
筋肉や骨は負荷をかけないと強化されないのと似たようなものだ。
病気は気からというけど、人生を面白くするのも、その気になってさえ居ればあっというまに幸せを感じられるものだな。
元来怠惰に出来ている性格だから、趣味なんかないし、ある意味音楽は趣味で一日中遊んでいる様なものだから、上手い具合な巡り合わせと、任侠の気持ちを起こさせてくれる何かの要素が、自分が誰かの為に役にたっているかもしれないという気持ちを産み、自分が予想も出来ないハイテンションになるのが楽しい。
面白い作品に出会うことは運でもあるだろうけど、面白くするのはやる側の気持ち一つで堂にでもなるからね。
演奏という言語以外のコミュニケイションの方法でいろんな人たちと楽しい時間を過ごすことが出来るというのはありがたいと思いますし、作品と共演者に感謝だ。
このハイな気分を習いに来ている人たち(特になんかつらそうに演奏して居る人がいたりすると)に伝えたいのだけど、いくら得意の言葉の洪水をもってしても、言葉はあくまで言葉に過ぎないわけで、それが全くできないのがもどかしい、どうしたらいいのかなあ。
楽しかったCHICAGOの次にこのすばらしい作品に出会えてこれはまた忘れられない作品になると確信した。
予想と裏切り(加筆訂正再投稿) - 2009.06.23 Tue,11:34
それが良い悪いといっているつもりじゃないが、実際、自分が作曲して演奏し続けている一連の山猫合奏団による宮沢賢治作品(“どんぐりと山猫”、“セロ弾きのゴーシュ”、“注文の多い料理店”)を、それをご覧に(お聴きに)なっていらっしゃらない人々に口で説明を試みるとたぶん、こっちが期待したものと先方が予想するものの乖離は相当に大きい。
先頃、川崎市のあるフェスティヴァルで演奏させて貰ったが、事前のいくつかの取材でも、僕は参加していないが、スタッフとの打ち合わせでも、同じ日本語で、同じ事を話題にしているのに、僕らと先方では恐ろしく違うものが頭に浮かんでいただろうということは、上演後再び同じ人たちとの会話で実感したものだ。
逆に一度理解して貰うと「安心して」先方も僕らの評価ができるし、ありがたいことなのだが、それは好意を持って貰ったときであって、逆の場合は発信者にとってとても凹む。
しかしそれは宿命なんだけど、別に自分の作品のオリジナリティをここで自慢するためにかいたんじゃないんだ。

この仕事が決まって事務所から参考の音資料が来るだいぶ前に、表示されているアルバム(ロンドンのカンパニーの演奏)をiTunes Storeからダウンロードしを聴いてみた。
ソンドハイムのこの音楽について、聞いてみるのと弾いてみるのでは、こういう状況だといつものことではあるけど、印象が違う。
やっぱり聴く以上に弾いてみると実に面白い。
しかも、なんで今日これからリハーサルに行かなくてはいけない忙しい時刻にこんなことを支離滅裂になりながら書くかというと、まだ歌合わせ(ごく一部あれが歌といえるのか、音楽に乗せた台詞といえるのかどっちともつかないものなのだけど)がないので、完全な実感とはまだ違うのだけど、歌が乗ったロンドンのカンパニーの演奏を聴くと、完全におこがましいのだけど、言葉と音楽の関わりに於いて、自分が作曲していて模索している根本的な事についてとても、あこがれるというか納得というか、実に示唆が富むサンプルを、しかも実際に演奏しながら味わえるという幸運に遭遇したと感じたからだ。
ただ、他の人が同じように思っているかは知らないし、これから一般の聴衆がこの作品、特に音楽の面に関して、「なんじゃこれ」とか「難しい」、逆に「ユニーク」、「面白い」と思うかそれは、事前に簡単に予想できるものではない。
これのどこがミュージカルなんだ、オペラじゃないかと思うかもしれないし、オペラだって?こんなミュージカルっぽいのに、とか、これは、ストレートプレイの音楽の部分を増やしたものじゃないかとか、なにを言っているのかどれもあたらないようで当たっているような微妙な感じがする。
ボーダーレスだの、ボーダーラインにあるものとか言ってしまえば簡単だけど、この作品が最初からそこを狙ってビジネスしているわけではないのは明白だ。
そうは言っても、自分だって最初聴いたときは、何じゃこれっぽいところはなかったわけではない。
でも、それって「Musicalを聴いている」という予見から出てくる感想であって、単に「音楽」を聴いているという感覚からすると何もびっくりすることはないのだけど、ここの微妙な差異がやっかいだったりするのだ。
でも、何回か聴いたり、こうやって弾いてみるとそのおもしろさに気づくんだけど、聴衆は一回しか観ない(一回も観ない人の方が圧倒的に多いわけだけど(爆))人がほとんどで、その人たちにどう伝わるのかは僕らの責任も相当あるけど、なんかいわゆる安全パイっぽいテイストがあふれている作品に関わるより、実にやりがいを感じます。
今回のミュージシャンたちは、もう一人のキーボード(CHICAGO以来の共演です)とマルチのリード奏者(大下君といって何年か前のMiss Saigonの時に一緒でした)の二人以外指揮者も音楽監督もアレンジャーたちもみんな初めての人ばかりでそれも新鮮です。
この作品は80年代のものなのかな。
ちょっと70年代から現代音楽の分野で流行っていたスティーヴ・ライヒのミニマルミュージックの作品のテイストがする箇所もある。
でも、弾き続け、聴き続けているとやっぱり、Musicalってこうじゃなきゃ、とも思えてくる。
Sunday in the Park with GeorgeのOrchestraのリハーサルが始まりました。(再投稿) - 2009.06.22 Mon,10:45

なかなか難しそうな曲なので苦労しそうだけど実に楽しみです。
編成は、Violin,Viola,Cello,Harp,Multi Reed,Keyboard,Piano(Keyboardも一部あり)の7人です。
Sunday In The Park With GeorgeとWestside Story - 2009.04.18 Sat,18:58

サンデー・イン・ザ・パークとネットで検索すると、FMの番組も拾ってしまいますが、それではなく、タイトルにあるとおり、「ジョージと一緒に」という言葉も着く題名の、ミュージカル公演の告知です。
作曲家は、ご存じWestside Storyの作詞を手がけ、昨年話題になった、「スウィニー・トッド」の作曲家としても有名な、スティーブン・ソンドハイムの手によるものです。
(オスカー・ハマースタインさんの弟子なんだね。そういえば、「ワルツが聞こえる?」というほとんど誰も知らない作品もかつて弾いたのだけど、それってこの二人のコンビだったとは今知った(爆))
東京渋谷にあるPARCO劇場で7/5(日)から8/9(日)まで公演があります。
公式サイトとスケジュールはこちらにあります。
ただし、この話が来たのが最近で、残念ながら全公演を演奏することは他の仕事との兼ね合いで不可能です。
演奏楽器は、ピアノ(正確に言うとキーボードは二人でピアノだけの音色を出す側という意味)だそうです。
演出家は大学の同級生だった宮本亜門ちゃんで、彼とはCANDIDE以来だし、出演者の中にももちろん初めての方が多いけど、別の公演で一緒だった人もいるので楽しみです。

ちょうど同じ時期に、再びブロードウェイから来日公演のWestside Storyも来ていて、(なんでも、50周年記念だそうで)このころと同様、通常はアシスタント・コンダクターが弾いているピアノパートを僕が代役で弾くことになっています。
1996年にこのカンパニーに初めて関わったときは編成が違っていてアシスタント・コンダクターは、キーボードでオーボエやファゴット、そしてギターなどの楽器を弾いていたのでピアノは僕が二ヶ月の公演すべてを担当していました。
しかもバーンスタインの作品に対しては、CANDIDE(演奏会形式ではなく、日本で行われた二回の舞台公演は両方ともリハーサル・ピアノをやりました)や佐渡裕ちゃんとのおつきあいで何度もバーンスタインの作品を弾いたゆえに、やはり作品にも、演奏回数は本当に少ないのですが、そこで演奏する人たち(もちろんそのたびに違うが再会する相手もいるので)との邂逅にも思い入れがあります。
7月はその他にも恒例のイヴェントと別のお芝居の公演で生演奏することになっていますが、それは別記事で告知します。
ゆえに、両方の公演は全公演通じて弾くわけではありません。
肝心の僕の出演日ですが、
Sunday in the Parkは数が多いので、「出演しないことが今のところ決定している日」を書いておくと、
7/11(土),12(日),
7/17(金),18(土),19(日),
7/22(水)(夜の公演は弾きますが、昼は弾きません。),
7/25(土),
8/5(水)の昼公演のみNG,たぶん夜は弾くことになると思う。
8/9(日)千秋楽
Westside Storyは、演奏する日のみ列挙しておくと三回の公演のみです。
7/25(土)の昼公演のみ(名古屋公演)
7/30(木)の昼公演のみ(東京公演で、夜は"Sunday~"に行くつもりです両方とも渋谷の劇場だからありがたい(爆))
8/5(水)の昼公演のみ(これも7/30同様に夜はPARCO劇場に行くつもりです。)