どんぐりと飼い猫
2007-11-05
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこ、否、飼い猫が、すこし心配そうに、それでもむりに威張って言いますと、どんぐりどもは口々に叫びました。「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。」
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。」
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」
(中略)
「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」(宮沢賢治“どんぐりと山猫”より、、、、写真はクリックすると大きくなります)
しかしこの裁判長は普段怠惰な生活をしているのです。
サイガバレエと白石准
2007-04-12
この記事は10年くらい前に別の場所に掲示してあったものなので、時間の経過をふまえて若干修正してここに移植しました。
****
1982年頃のある日、僕の友人の福田雅夫君(オーボエ奏者)から彼が当時留学していたフランスで投函された手紙が僕のところに届きました。
「母親(バレエの先生だということは話に聞いていた)が用があると言っているので、一度連絡して下さい。」
そして、東京は飯田橋の駅のそばの神楽坂からちょっと入ったところにある稽古場兼ご自宅に訪ねていきました。
そこで、お会いしましたのが、サイガバレエのボス、雑賀淑子(さいがとしこ)先生です。
しかしびっくりしたなあ、一通りの挨拶が済んだ後、いきなり彼女に言われたことには、、、
「ねえ、金儲けしない?」
?????絶句。しょ、初対面なのに、、、
続けて話をきくと、
電話でコンクールについての用件だとは聞いていたが、賞金の額までは聞いていませんでした。
今だったとしても200万円は涎がでるほどあこがれの価値がありますが、社会人になりたて当時のその金額は今よりもっと貨幣価値があったに記憶しています。
ゆえに最初の衝撃から立ち直り、すこし興味が沸いてきました。
しかし、熱心に台本のあらすじの説明(すでに彼女は台本を書いていた!)を聞くうちに、なんと〆切が一週間後だということをそのときに知り、自分の能力ではとても無理だ、ということに気がついたときには、先生は熱意溢れる説明の佳境に入り、“できません”と言い出すきっかけがつかめず、結局最後まで話を聞くしかありませんでした。
と言われたときの私の狼狽ぶりをご想像下さい。
しばし沈黙、、、、、(白石准の行動様式からすると、ご存じの方はびっくりなさるかも知れませんが、これはとても例外的なリアクションでしょう)
といきなり話をそらす戦法にでました。
こっちも妙に準備が良かったと言えばそうなのだが、、 とたんに先生の不愉快そうな顔、、、、、
やばい!
と私をピアノの部屋に連れていきました。
いくら自分の書いた曲とは言え、練習はほとんどしていなかった(結構簡単ではないパッセージがある)し、こういう雰囲気に(だれがしたって?、知るか。)なっていたので、相当うろたえながら、宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」に音楽をつけたものを自分で語りながら、たどたど弾き始めました。
するとどうでしょう、先生の態度が豹変しました。
とおっしゃったのです。
耳を疑いました。
この作品についてそれまで数回演奏して時々ほめられることはあっても、演奏するチャンスはなかなか見つからなかった卒業したての音楽家はあまりの具体的なスケジュールの話になって目を白黒。
じつは雑賀先生はとても占いがお好きである。
このバレエ初演の9/19という日付は実は偶然、「どんぐりと山猫」の冒頭部分。一郎がうけとる、おかしなはがきの中に、 「かねたいちろう様、九月十九日‥」 とあるじゃないですか! (この後、後にだいぶ経って96/9(やはり九月だ)に同じホールで全く別の形で再演された)
それを知った彼女は紅潮して
‥彼女の狂喜乱舞をご想像下さい。

そして上演となった「どんぐりと山猫」のバレエ初演(東京都新宿区新宿文化センター大ホール)の一こまが上の写真です。
これはラストの馬車に乗って帰る場面ですね。
馬が三頭、馬車別当と馬車の中に山猫(子供がやった)と一郎さんが見えます。
語り手の楠氏はこの日実は事情があり(?)頭蓋骨にひびがはいっていて(爆)きゃたつの上にいて読んでいますが、結構くらくらしていたそうです(爆)
これが我々の出会いです。
それ以来、プーランクの「ババールの物語」や、ドビュッシーの「子供の領分」などをバレエにしたときに、演奏で参加させてもらうようになり、ときどき、稽古場でも古い崩壊寸前のスタインウェイのアップライトでConcertをさせてもらったりしました。
まあコンクールは、結局「どんぐりと山猫」を出してくれましたが、まったく相手にされず、落選しました。
しかし、あの作品は今でもたびたび上演のチャンスが、バレエ以外にも多いので、どうでもいいけど。
(しかし、、200まんえ〜〜〜〜〜〜〜ん!(爆))
彼女はサティーや、プーランク、そして、僕が紹介したモンポウを特に好み、93年のカザルスホールのモンポウ音楽祭でのぼくのリサイタルでは来場した観客のなかで、唯一僕の演奏に涙してくれた貴重な「母」でもある。
96年には長年関わっている、スコットランドのアバディーンという町で行われているフェスティヴァルに、八王子車人形の西川古柳氏(当時柳時)、フルートの木ノ脇道元氏とともに連れていってもらいました。
日本の古典人形とフルートとピアノで「おやゆび姫」の上演を中心に参加したが、とても評判がよかった。
彼女のハートの中にはいつも「童話」が中心にあると思う。
僕の作品にしろ、ババール、おやゆび姫、いまあげなかったものの中にも無数に彼女の作品は「童話」抜きには考えられない。
バレエの先生なのに、琵琶を習い、ある作品では舞台上で踊りながらクレープを焼き、客にくばってしまったり、どこか、サティーのような、風変わりな存在感が溢れている。
それは、自分のところに踊りに来る人はエキストラであろうとなんであろうと、あだ名をつけて呼ぶことにも現れている、
かいとん、ほよほよ、たひち、うなぎ、きゃべつ、 まだまだ上げ始めたらきりがないほど部外者が見たらレッスン中に飛び交うこの呼び名に、当惑するのは間違いない。
ただ、僕の呼び名は不思議なことに一定しないし、定着しない。
ブラックホール、べーぶ
そして、ダンサー達にはこの当時中学生だった娘たちにも未だに白石君と当たり前に呼ばれるのだ。
逆にこんな呼ばれ方は他ではないから面白いぞ。
毎年仕事を一緒にするわけでもないが、どこか、自分の音楽生活の中で自分を形作ってきた歴史の中で決して忘れることのできない芸術家であり、彼女の一座(といったほうがいいな)の人たちとの思い出も同様に重要なものである。
自分でピアノを弾きながら、西洋音楽というのは、どこか、「舞曲」であることは頭で解っていても、いわゆる、ダンスミュージックのジャンルに携わっているミュージシャンや、バレエ専門のピアニストや音楽家以外は、具体的に目の前で踊りを見ながら音楽をすることは少ないと思う。
自分の曲や、ドビュッシーの曲を弾きながら、狭い舞台で、ダンサーと目が合い、にっこりしながらコンタクトをとると、なんというか、「原初的」快楽というか、ダンスは音楽無しには成立しないが、音楽はダンス無しにも成立すると思っていた自分を恥じるのだ。
自分が弾いて誰かが踊る。
このあたりまえの作業のなんと新鮮なことか。
今でこそ、ミュージカルの仕事でそういうシチュエーションは特別なものではない経験値を持つ様になったが、それまで、共演と言ったら、歌い手であり、管楽器、弦楽器奏者だっただけだから、ダンスはとても「観念的」なものだったのだ。
友人のダンサー、勅使川原三郎氏(てしがわらさぶろう、彼も今じゃカリスマとしてその世界に君臨しているが、大昔サイガバレエスタジオで知り合ったのだ)がある子供向けの公演のプログラムに書いた言葉が気に入っている。
これを最初に感じさせてくれたのは、彼でもあるし、サイガバレエの「踊り子」たちでもある。
なかには小さい子供もいる。
ドビュッシーの「子供の領分」をダンスにしたとき、「雪が踊っている」という曲の中では、寒がっている小さい子供だけが舞台にいて、そのうちピアノを弾いている僕のところにマフラーをかけに来てくれる振り付けがあったが、こういうアイデアは雑賀先生ならではのものだろう。
ほかの「お姉さま」方もバレリーナだとは思えないほど、よく酒につきあってくれる。
そして、公演のたびに参加するスタッフの人たちも最高にいい人達だ。
96年にアバディーンに行ったときは、ウィスキーのシングルモルトのメッカといっていい場所だったので、毎日宿泊していた大学の寄宿舎で酒盛りをしていたが、これが本当に上手かったなあ。
あと偶然なことだが、モンポウの魅力にとりつかれるきっかけになったスペイン歌曲を歌う柳貞子氏と、1985年ころはよく共演させてもらったが、なんと昔、アルバイトで、柳さんがフラメンコを歌い、雑賀さんが踊っていた時代もあるらしい。
それを聴いたときには人の出会いの妙を感じたものだ。
今年(2007)の8月2日に軽井沢で久しぶりに、共演が予定されているのでたのしみだ。
****

1982年頃のある日、僕の友人の福田雅夫君(オーボエ奏者)から彼が当時留学していたフランスで投函された手紙が僕のところに届きました。
「母親(バレエの先生だということは話に聞いていた)が用があると言っているので、一度連絡して下さい。」
そして、東京は飯田橋の駅のそばの神楽坂からちょっと入ったところにある稽古場兼ご自宅に訪ねていきました。
そこで、お会いしましたのが、サイガバレエのボス、雑賀淑子(さいがとしこ)先生です。
しかしびっくりしたなあ、一通りの挨拶が済んだ後、いきなり彼女に言われたことには、、、
「ねえ、金儲けしない?」
?????絶句。しょ、初対面なのに、、、
続けて話をきくと、
「バレエの曲と台本のコンクールがあって、万が一1等賞を取ると、200万円の賞金がでる」 ということだったのです。
電話でコンクールについての用件だとは聞いていたが、賞金の額までは聞いていませんでした。
今だったとしても200万円は涎がでるほどあこがれの価値がありますが、社会人になりたて当時のその金額は今よりもっと貨幣価値があったに記憶しています。
ゆえに最初の衝撃から立ち直り、すこし興味が沸いてきました。
しかし、熱心に台本のあらすじの説明(すでに彼女は台本を書いていた!)を聞くうちに、なんと〆切が一週間後だということをそのときに知り、自分の能力ではとても無理だ、ということに気がついたときには、先生は熱意溢れる説明の佳境に入り、“できません”と言い出すきっかけがつかめず、結局最後まで話を聞くしかありませんでした。
「どう?やらない?」
と言われたときの私の狼狽ぶりをご想像下さい。
しばし沈黙、、、、、(白石准の行動様式からすると、ご存じの方はびっくりなさるかも知れませんが、これはとても例外的なリアクションでしょう)
「じ、実は自分としても先生に台本を書いていただきたい作品を持ってきたのです。」
といきなり話をそらす戦法にでました。
こっちも妙に準備が良かったと言えばそうなのだが、、 とたんに先生の不愉快そうな顔、、、、、
やばい!
「なにせ、し、〆切も近いことですし、、、」
今までの説明が相手に受け取られていなかった落胆を隠せない先生でしたが、とりあえずこの若造(たしか大学を出たばかり歳だった)の申し出を受けることにして、
「じゃあ、どんな曲か聴くだけ聴かせてよ。」(このニュアンスは相当ネガティブな音色だった。)
と私をピアノの部屋に連れていきました。
いくら自分の書いた曲とは言え、練習はほとんどしていなかった(結構簡単ではないパッセージがある)し、こういう雰囲気に(だれがしたって?、知るか。)なっていたので、相当うろたえながら、宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」に音楽をつけたものを自分で語りながら、たどたど弾き始めました。
するとどうでしょう、先生の態度が豹変しました。
「面白いわこの曲、コンクールに関係なくあたしこれバレエにしてあげる。」
とおっしゃったのです。
「今年(たぶん1982年頃)の9/19に新宿文化センターの大ホールをとってあるからそこでやりましょう!」
耳を疑いました。
この作品についてそれまで数回演奏して時々ほめられることはあっても、演奏するチャンスはなかなか見つからなかった卒業したての音楽家はあまりの具体的なスケジュールの話になって目を白黒。
じつは雑賀先生はとても占いがお好きである。
このバレエ初演の9/19という日付は実は偶然、「どんぐりと山猫」の冒頭部分。一郎がうけとる、おかしなはがきの中に、 「かねたいちろう様、九月十九日‥」 とあるじゃないですか! (この後、後にだいぶ経って96/9(やはり九月だ)に同じホールで全く別の形で再演された)
それを知った彼女は紅潮して
「こうなるべくしてなったのよ!」
‥彼女の狂喜乱舞をご想像下さい。

そして上演となった「どんぐりと山猫」のバレエ初演(東京都新宿区新宿文化センター大ホール)の一こまが上の写真です。
これはラストの馬車に乗って帰る場面ですね。
馬が三頭、馬車別当と馬車の中に山猫(子供がやった)と一郎さんが見えます。
語り手の楠氏はこの日実は事情があり(?)頭蓋骨にひびがはいっていて(爆)きゃたつの上にいて読んでいますが、結構くらくらしていたそうです(爆)
これが我々の出会いです。
それ以来、プーランクの「ババールの物語」や、ドビュッシーの「子供の領分」などをバレエにしたときに、演奏で参加させてもらうようになり、ときどき、稽古場でも古い崩壊寸前のスタインウェイのアップライトでConcertをさせてもらったりしました。
まあコンクールは、結局「どんぐりと山猫」を出してくれましたが、まったく相手にされず、落選しました。
しかし、あの作品は今でもたびたび上演のチャンスが、バレエ以外にも多いので、どうでもいいけど。
(しかし、、200まんえ〜〜〜〜〜〜〜ん!(爆))
彼女はサティーや、プーランク、そして、僕が紹介したモンポウを特に好み、93年のカザルスホールのモンポウ音楽祭でのぼくのリサイタルでは来場した観客のなかで、唯一僕の演奏に涙してくれた貴重な「母」でもある。
96年には長年関わっている、スコットランドのアバディーンという町で行われているフェスティヴァルに、八王子車人形の西川古柳氏(当時柳時)、フルートの木ノ脇道元氏とともに連れていってもらいました。
日本の古典人形とフルートとピアノで「おやゆび姫」の上演を中心に参加したが、とても評判がよかった。
彼女のハートの中にはいつも「童話」が中心にあると思う。
僕の作品にしろ、ババール、おやゆび姫、いまあげなかったものの中にも無数に彼女の作品は「童話」抜きには考えられない。
バレエの先生なのに、琵琶を習い、ある作品では舞台上で踊りながらクレープを焼き、客にくばってしまったり、どこか、サティーのような、風変わりな存在感が溢れている。
それは、自分のところに踊りに来る人はエキストラであろうとなんであろうと、あだ名をつけて呼ぶことにも現れている、
かいとん、ほよほよ、たひち、うなぎ、きゃべつ、 まだまだ上げ始めたらきりがないほど部外者が見たらレッスン中に飛び交うこの呼び名に、当惑するのは間違いない。
ただ、僕の呼び名は不思議なことに一定しないし、定着しない。
ブラックホール、べーぶ
そして、ダンサー達にはこの当時中学生だった娘たちにも未だに白石君と当たり前に呼ばれるのだ。
逆にこんな呼ばれ方は他ではないから面白いぞ。
毎年仕事を一緒にするわけでもないが、どこか、自分の音楽生活の中で自分を形作ってきた歴史の中で決して忘れることのできない芸術家であり、彼女の一座(といったほうがいいな)の人たちとの思い出も同様に重要なものである。
自分でピアノを弾きながら、西洋音楽というのは、どこか、「舞曲」であることは頭で解っていても、いわゆる、ダンスミュージックのジャンルに携わっているミュージシャンや、バレエ専門のピアニストや音楽家以外は、具体的に目の前で踊りを見ながら音楽をすることは少ないと思う。
自分の曲や、ドビュッシーの曲を弾きながら、狭い舞台で、ダンサーと目が合い、にっこりしながらコンタクトをとると、なんというか、「原初的」快楽というか、ダンスは音楽無しには成立しないが、音楽はダンス無しにも成立すると思っていた自分を恥じるのだ。
自分が弾いて誰かが踊る。
このあたりまえの作業のなんと新鮮なことか。
今でこそ、ミュージカルの仕事でそういうシチュエーションは特別なものではない経験値を持つ様になったが、それまで、共演と言ったら、歌い手であり、管楽器、弦楽器奏者だっただけだから、ダンスはとても「観念的」なものだったのだ。
友人のダンサー、勅使川原三郎氏(てしがわらさぶろう、彼も今じゃカリスマとしてその世界に君臨しているが、大昔サイガバレエスタジオで知り合ったのだ)がある子供向けの公演のプログラムに書いた言葉が気に入っている。
ダンスは体を動かして踊る。
音楽は音を動かして踊る。
ダンスと音楽はほとんどおなじこと。
ダンスは見える音楽。
音楽はきこえるダンス。
だからダンスと音楽は友だち。
だからひとつになれる。
音楽は音を動かして踊る。
ダンスと音楽はほとんどおなじこと。
ダンスは見える音楽。
音楽はきこえるダンス。
だからダンスと音楽は友だち。
だからひとつになれる。
これを最初に感じさせてくれたのは、彼でもあるし、サイガバレエの「踊り子」たちでもある。
なかには小さい子供もいる。
ドビュッシーの「子供の領分」をダンスにしたとき、「雪が踊っている」という曲の中では、寒がっている小さい子供だけが舞台にいて、そのうちピアノを弾いている僕のところにマフラーをかけに来てくれる振り付けがあったが、こういうアイデアは雑賀先生ならではのものだろう。
ほかの「お姉さま」方もバレリーナだとは思えないほど、よく酒につきあってくれる。
そして、公演のたびに参加するスタッフの人たちも最高にいい人達だ。
96年にアバディーンに行ったときは、ウィスキーのシングルモルトのメッカといっていい場所だったので、毎日宿泊していた大学の寄宿舎で酒盛りをしていたが、これが本当に上手かったなあ。
あと偶然なことだが、モンポウの魅力にとりつかれるきっかけになったスペイン歌曲を歌う柳貞子氏と、1985年ころはよく共演させてもらったが、なんと昔、アルバイトで、柳さんがフラメンコを歌い、雑賀さんが踊っていた時代もあるらしい。
それを聴いたときには人の出会いの妙を感じたものだ。
今年(2007)の8月2日に軽井沢で久しぶりに、共演が予定されているのでたのしみだ。
宮沢賢治原作“どんぐりと山猫”について
2006-02-17
この記事はかつて別の場所で運用していた演奏会専用ブログに投稿していたものですが、そちらのブログを閉鎖する為にこちらに移植するものです。
そのブログが記事のバックアップができないゆえ、本文は元々の投稿日時に指定しましたが、コメントの転載についてはその投稿日時は全く正確なものではありませんので、それは今後投稿するたびに文末に記述することにします。
********
この作品は宮沢賢治の原作による語りと音楽の為の自分の作品であるが、そういえば内容についてはあまり書いたことがない。
外面的にどういうきっかけで書いたかとか演奏記録については該当ページを作っているが、原作についての「読み方」については、共演者と語り合ってきたにすぎない。
ちょうど知り合いのたなか秀郎氏のブログにこの作品(もちろん賢治の原作)についての一文がでた のでそれに対するトラックバックとして、この原作についての自分の見解を以下に書いてみようと思います。
書くという行為は思考を呼び覚まし、実は自分の中で新たな発見がありました。
それ故、「演奏会専門ブログ」と銘打ったこのページに新たに「作曲ノート」としてカテゴリーを一つ増やしました。
結局は昨年作曲した“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”についての見解も比較対象として言及することになりますから、記事のタイトルはふさわしくないかも知れません。
この記事については元記事があって触発されて書いたことゆえに、これから書いてあることを読む前に、たなか氏のブログを読んで頂いた方が良いと思われます。
もちろん、それより前に“どんぐりと山猫”、及び“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”の原作を読まれることは条件ですがm(_ _)m
最近は著作権も切れているのでネットで検索すると全文参照することができます。
**********
たなかさんの文章はそのまま僕の作曲した音楽の解説文になると思われるほど、自分にとっては国語の時間に先生の説明が自分の思っていたのと同じで嬉しがるのと同じ感想を持ちました。
別のページでたなかさんが、拙作を「透明な人形劇」 と評して下さいまして、それも照れずに言えば自分の指向している世界観の様なものを客席から看破してくださった気がして、本当にありがたい理解者を得た幸せを感じています。
物語の最後、なぜ再び一郎のものに「はがき」が来なかったのか、というたなかさんの解釈についてはたしかにそのとおりだと思います。
でも、ちょっとそれだけではなく、ちょっと考えすぎの深読み(爆)と言われてもしょうがない僕の見解を、その「模範解答(決して皮肉を込めているのではありません)」に対して書いていこうとおもいます。そうじゃなければ改めてこうやって記事を書く意味がない(爆)
裁判をすっきり解決した一郎の「このなかでばかでめちゃくちゃでてんでなってなくてあたまのつぶれたようなやつが一番偉い」という言葉は、たなかさんの記述しているとおり、この童話を「寓話」にしたてる重要な台詞に思われます。
しかしながら、実は「本当に一郎がそういう価値観でいるのか」裁判後、山猫は一郎をさまざまな問答の中で試しているのであって、判決理由のアドヴァイスは結局一郎が「伝聞」で聞いたことを山猫に伝えただけで「本当に自分の価値観」ではないことをついには看破され、その結果山猫に嫌われてしまったゆえ、二度と山猫から手紙が来なかったのだ、と僕は今回文章にするにあたり、考えるようになりました。
もちろんそんな解釈は作曲当時や今年になるまで持ってはいませんでしたが。
ストーリーの最後で「やっぱり出頭すべしと書いても良いと言えば良かった」なんて一郎は思っていますが、実は一番大事な問答は、裁判のお礼に「金のどんぐり一升と塩鮭の頭」の選択を迫られたときなのです。
裁判では一般常識のせめぎ合いの原因である「価値観」をひっくり返した一郎ではありますが、お礼をもらう段になって、金銭的に価値があると常識的に思われる方(金のどんぐり)を選択したとたん、その瞬間から山猫はあくびをしたり、一郎に突然無関心になります。
しかも、予想されたことではありますが、結局金のどんぐりは一郎が現実に戻った時点で色褪せます。
あのとき、塩鮭の頭が欲しい、ともし解答していたら結末は明らかに違ったと思われます。
悲しいのは、一郎は最後までその事実に気づいてないと言うことですし、もう一つの選択肢は、常識の世界に生きている一郎の中には絶対にありえないものだからしょうがないことなのです。
山猫の罠にまんまとはまったことなのです。
それこそが賢治の蒔いた「毒」で、この作品がある意味、裁判の決めぜりふの寓話風なポイントより、その事に於いて相当に読み手に対して挑発的な作品だと自分は思ってしまったゆえんです。
では山猫はなぜ、一郎を「試した」のでしょう。
そこには「一郎という登場人物の基本的な役割」について観察する必要があります。
*********
この一郎という登場人物は物語の中の他の登場人物と比較すると「特殊な次元」に立ってこの物語に関わっているというような気がしています。
この物語の主人公は誰なのか、と問われると“セロ弾きのゴーシュ”におけるゴーシュだと即答できるように一郎をあげることはどうも素直に思えないのです。
確かに物語の中では「出ずっぱり」なのですが。
一郎は登場人物ではあるのだけど、「読み手」というか「観客」の象徴なのかもしれないと僕は思っています。
能でいうところの「ワキ」みたいな存在(つまり恐山のイタコの様に、あの世の人と現実世界にいる人とのメッセージのやりとりをする翻訳者、だからわけるという言葉から派生したわけだ)と言えばよろしいでしょうか。
そう考えると能のシテ(するひと、という意味ですねこっちは)にあたるのは山猫を初めとする「異界」の人たちでみんなシテがかぶっている「面(おもて)」のように、動物や植物しかでてこないのは、そういう事故なのかもしれません。
馬車別当は人間ぽいけど、やはり「異形の人」でしょう。
“注文の多い料理店”のラストシーンで山猫軒が消え去って「現実」に戻るときに、狩人と、死んだはずの犬たちがが二人の紳士を迎えに来ると、なぜかほっとしますね。
あれは、言葉を喋る山猫やその子分達とちがって、喋らないで吠えるだけの「現実に存在する」犬や普通の人間が目の前に現れるから、悪夢から覚めたという実感を表しているように思います。
でも一郎が遭遇する馬車別当には、俺なら山の中であの風貌で鞭をもっていてにらまれたらまず逃げます(爆)
しかし一郎は全然恐怖を感じてないし、自分から会話を始めてしまう。
それは夢を見ていて「これは夢だからビルの屋上から下に飛び降りても大丈夫なんだ」とどこか納得して飛び降りる(良く見るんです)のと同じような動機に感じます。
“セロ弾きのゴーシュ”にも人間と動物が入り交じってでてくるけど、言葉を喋る動物たちはみんな草木も眠る時刻にゴーシュを訪問してくるというのも、異界の住民達が活動しうる時間帯に次元を超えてやってきてゴーシュになにか働きかけている様に思えます。
しかしながら、動物たちも人間達も、“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”にでてくるすべての登場人物には「同じ次元に存在して触れあっている」という「動物と喋ったとしても、それが当たり前に思える存在感」、そして「おのおのとても豊かな感情の起伏があること」を感じるのです。
しかし一郎は徹頭徹尾、醒めた目であの山の中の出来事を見ているようでなりません。
“ヘンゼルとグレーテル”しかり、“ハリー・ポッター”しかり、やはり“森”というものは、恐ろしいものが住んでいるから、子供は独りでその中に足を踏み入れることはタブーである、ということは洋の東西を問わず良くある一種の常識なのに、一郎は朝ご飯を食べてすぐに出かけていきます。
なんでこんなにお気楽なのだろう。
たしかに手紙をもらった段階では、お約束としてキャラクターを想像するのに難くない「子供らしさ」を備えていて、家中飛び跳ねて喜んでいることになっていますが、翌日山に入ってからは完全に「客席」でその「異界」を眺めているような感じがしています。
そうなんです。主人公ならもっと自分が遭遇する山や森の中での困難を克服していくことで観ているものに感動を与えるはずでしょう。
しかし、この“どんぐりと山猫”を読んでいて馬車別当や山猫に出会うまでのことは、凄く魅力的なロード・ムービーの様な冒険的な感じがするのに、出会うキャラクターの個性ばかりが際だっていて一郎の存在感はかなり希薄。
それは前述の夢の中のように、つまり「絶対に自分は傷つかないけれど目の前に起きるスペクタクルはびっくりしながら、時に不安をかんじたりもしつつ、楽しんで見てるし、観客にストーリーの展開について舞台上から選択を迫られたら喜んでそれに協力するけど、それによって火を浴びたり水に飛び込むのは登場人物の方であって自分は椅子に座って(つまり安全地帯から)笑ったり同情したりする」立場みたいな感じが強くします。
一郎がやっとのことで出会ったはずの馬車別当や山猫とずっと会話をするときは、なにかたとえていうと、芝居の終演後の楽屋で客と出演者が初めて話すみたいな「遠い距離」を感じざるを得ません。
たしかに一郎は客人ではありますが、同じ客人でも“注文の多い料理店”の紳士達とはやっぱり違う。
未知のものと出会う際に普通にもつであろう「恐怖心」というか「なんじゃこれ」みたいな「驚き」が「当事者」のはずなのに希薄なところがとても現実から遊離している感じがするのです。
山猫との初遭遇にしたって、突風とともに背後から現れた山猫に対して「やっぱり山猫の耳は立って尖っているな」なんてすごく冷静に思っちゃって相手が「ようこそいらっしゃいました」という前に「やあ、昨日ははがきをありがとう」なんて馴れ馴れしく恐れを感じず自信たっぷりなのもいい加減にしろって感じです(爆)
ゴーシュと動物たちは、共演者達の既知の関係の言葉のやりとりの次元みたいなものを、設定はたしかにおたがい初対面なのに、感じてしまうのです。
フランス語でいう、vousとtu、ドイツ語で言うSieとDuの違いみたいなものかな。
その距離は比較するとすごく大きい。
最初ドアを開けて対峙したときは反発から始まってはいるけど、対話を続けていく内にゴーシュは相手に対して、接し方が変化していくのが読んでいて分かるのだけど、一郎は道を聞くか単なる挨拶と、質問されたことにのみ答えているのに過ぎません。
そういう一郎の不思議な立場が、僕は、なぜ一郎が再び山猫からの招待状を受け取れなかったかということに繋がる重要なファクターだと考えます。
つまり、賢治は読み手(一郎)へ挑戦状をつきつけているのです。
塩鮭の頭は現実世界ではただのゴミです。
しかし芸術やスポーツの実現者の創作過程や訓練のなかには結果しか見ない人たちからすると、ずいぶん無意味に見えること、しかしながらそれを大事にすることが一般常識でははかれない価値があることの象徴だったりもするのかな。
金のどんぐりには「すぐに分かる価値」があるからそれを一郎は欲しがったのでしょう。
しかし「塩鮭の頭」こそが、あの世界では最も価値のあるものだったのかもしれません。
というかその価値を分からなければあの世界でだれとも仲良くはなれないのですよ。
異界なんですな、そういう意味でも。
しかしここまで考えて自分の作曲(1980年)時の、脚色の失敗に気づきました。
さまざまな動物との出会いのなかで、「りす」との部分だけ原作ではあまりにあっけなかったので、自分の曲では、りすと、もっと「対話」をさせています。
否、させてしまっています。
音楽的にはある意味その場面のアイデア(乱暴に言えばラップみたいに音楽のリズムに合わせてメロディーなしに会話をしている)は気に入っているし、聴いた人からも結構面白がってもらえる場面なのですが、あんなに「親しげ」にりすと会話をさせたことは当時の自分にとって一郎の立っている平面が他の登場人物とは違うということに気づいてなかったからゆえのことです。
他にも脚色しました。
劇中劇(とある意味言えるかも)である裁判のクライマックスはなんと「固まってしまう沈黙」であり、若い作曲家は、それを音楽作品の頂点にどう表現させるか稚拙な技術では無理におもったので、判決が決まった後に、原作では書いてない「凱旋のダンス」を山猫と馬車別当、そして一郎にまで一緒に踊らせてしまいました。
この舞曲については最近思い切って原作に忠実にするために、割愛する勇気ができたのですが、りすの場面に関しては、これはもう未熟な若いアプローチだったということで、その曲を削除することなくこれからも弾いていくと思われます。
こうやってこの投稿時点で初演以来60回近く30年弱の付き合いをもって演奏してテキストを読むと、読み方って変わってくるものですね。
ある意味作曲した当時の「世界観」を全否定するのは大人げないとは思うし、いつ何時リスの場面を改作しようとするかもわからないけど、こうやって考えてみることは僕にとって決して無駄なことではないと思われます。
しかしながら悪い癖でこれを説明するにのにこんなに文字数を使わないとだめな文章力はなんとかしないといけないとは思います。
ここまで読んでくれた人に感謝です。
簡潔に書き直すことができたらまたこの記事を改訂することもあるかもしれません。その場合にはコメントに報告します(爆)
蛇足ながら、昨年作曲した“注文の多い料理店”に出てくる(実際には登場しないが)、山猫の敗走の後日談として“どんぐりと山猫”があるという奇想天外な演出プランを僕は持っています。
“注文の多い料理店”では、計画が頓挫してしまった山猫はリヴェンジを期し、部下も新たに雇って一郎に挑戦状を送ったのです。(爆)
ゆえにこの愚かな作曲家は“注文の多い料理店”の音楽の中に密かに“どんぐりと山猫”の中にある山猫のモティーフを埋め込みました。
上演するなら“注文の多い料理店”→“どんぐりと山猫”の順であることが望ましく、その場合初めて聴く人は“注文の多い料理店”の中で山猫のモティーフを認識することは不可能ですが、この屈折した解釈(爆)は二つの作品を並べて聞けば納得してくれる人もいたりするでしょう(爆)
もう一つ書いた“セロ弾きのゴーシュ”に対となる作品として、今年か来年までのあいだに“オツベルと象”を書こうと思います。
これをカップリングするのも客観的な根拠に基づくものではなく、僕の独断です。
だんだん良い人になっていくゴーシュと、だんだん悪い状況になっていくオツベルと象、その正反対の変化が面白いと思うのです。
そのブログが記事のバックアップができないゆえ、本文は元々の投稿日時に指定しましたが、コメントの転載についてはその投稿日時は全く正確なものではありませんので、それは今後投稿するたびに文末に記述することにします。
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この作品は宮沢賢治の原作による語りと音楽の為の自分の作品であるが、そういえば内容についてはあまり書いたことがない。
外面的にどういうきっかけで書いたかとか演奏記録については該当ページを作っているが、原作についての「読み方」については、共演者と語り合ってきたにすぎない。
ちょうど知り合いのたなか秀郎氏のブログにこの作品(もちろん賢治の原作)についての一文がでた のでそれに対するトラックバックとして、この原作についての自分の見解を以下に書いてみようと思います。
書くという行為は思考を呼び覚まし、実は自分の中で新たな発見がありました。
それ故、「演奏会専門ブログ」と銘打ったこのページに新たに「作曲ノート」としてカテゴリーを一つ増やしました。
結局は昨年作曲した“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”についての見解も比較対象として言及することになりますから、記事のタイトルはふさわしくないかも知れません。
この記事については元記事があって触発されて書いたことゆえに、これから書いてあることを読む前に、たなか氏のブログを読んで頂いた方が良いと思われます。
もちろん、それより前に“どんぐりと山猫”、及び“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”の原作を読まれることは条件ですがm(_ _)m
最近は著作権も切れているのでネットで検索すると全文参照することができます。
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たなかさんの文章はそのまま僕の作曲した音楽の解説文になると思われるほど、自分にとっては国語の時間に先生の説明が自分の思っていたのと同じで嬉しがるのと同じ感想を持ちました。
別のページでたなかさんが、拙作を「透明な人形劇」 と評して下さいまして、それも照れずに言えば自分の指向している世界観の様なものを客席から看破してくださった気がして、本当にありがたい理解者を得た幸せを感じています。
物語の最後、なぜ再び一郎のものに「はがき」が来なかったのか、というたなかさんの解釈についてはたしかにそのとおりだと思います。
でも、ちょっとそれだけではなく、ちょっと考えすぎの深読み(爆)と言われてもしょうがない僕の見解を、その「模範解答(決して皮肉を込めているのではありません)」に対して書いていこうとおもいます。そうじゃなければ改めてこうやって記事を書く意味がない(爆)
裁判をすっきり解決した一郎の「このなかでばかでめちゃくちゃでてんでなってなくてあたまのつぶれたようなやつが一番偉い」という言葉は、たなかさんの記述しているとおり、この童話を「寓話」にしたてる重要な台詞に思われます。
しかしながら、実は「本当に一郎がそういう価値観でいるのか」裁判後、山猫は一郎をさまざまな問答の中で試しているのであって、判決理由のアドヴァイスは結局一郎が「伝聞」で聞いたことを山猫に伝えただけで「本当に自分の価値観」ではないことをついには看破され、その結果山猫に嫌われてしまったゆえ、二度と山猫から手紙が来なかったのだ、と僕は今回文章にするにあたり、考えるようになりました。
もちろんそんな解釈は作曲当時や今年になるまで持ってはいませんでしたが。
ストーリーの最後で「やっぱり出頭すべしと書いても良いと言えば良かった」なんて一郎は思っていますが、実は一番大事な問答は、裁判のお礼に「金のどんぐり一升と塩鮭の頭」の選択を迫られたときなのです。
裁判では一般常識のせめぎ合いの原因である「価値観」をひっくり返した一郎ではありますが、お礼をもらう段になって、金銭的に価値があると常識的に思われる方(金のどんぐり)を選択したとたん、その瞬間から山猫はあくびをしたり、一郎に突然無関心になります。
しかも、予想されたことではありますが、結局金のどんぐりは一郎が現実に戻った時点で色褪せます。
あのとき、塩鮭の頭が欲しい、ともし解答していたら結末は明らかに違ったと思われます。
悲しいのは、一郎は最後までその事実に気づいてないと言うことですし、もう一つの選択肢は、常識の世界に生きている一郎の中には絶対にありえないものだからしょうがないことなのです。
山猫の罠にまんまとはまったことなのです。
それこそが賢治の蒔いた「毒」で、この作品がある意味、裁判の決めぜりふの寓話風なポイントより、その事に於いて相当に読み手に対して挑発的な作品だと自分は思ってしまったゆえんです。
では山猫はなぜ、一郎を「試した」のでしょう。
そこには「一郎という登場人物の基本的な役割」について観察する必要があります。
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この一郎という登場人物は物語の中の他の登場人物と比較すると「特殊な次元」に立ってこの物語に関わっているというような気がしています。
この物語の主人公は誰なのか、と問われると“セロ弾きのゴーシュ”におけるゴーシュだと即答できるように一郎をあげることはどうも素直に思えないのです。
確かに物語の中では「出ずっぱり」なのですが。
一郎は登場人物ではあるのだけど、「読み手」というか「観客」の象徴なのかもしれないと僕は思っています。
能でいうところの「ワキ」みたいな存在(つまり恐山のイタコの様に、あの世の人と現実世界にいる人とのメッセージのやりとりをする翻訳者、だからわけるという言葉から派生したわけだ)と言えばよろしいでしょうか。
そう考えると能のシテ(するひと、という意味ですねこっちは)にあたるのは山猫を初めとする「異界」の人たちでみんなシテがかぶっている「面(おもて)」のように、動物や植物しかでてこないのは、そういう事故なのかもしれません。
馬車別当は人間ぽいけど、やはり「異形の人」でしょう。
“注文の多い料理店”のラストシーンで山猫軒が消え去って「現実」に戻るときに、狩人と、死んだはずの犬たちがが二人の紳士を迎えに来ると、なぜかほっとしますね。
あれは、言葉を喋る山猫やその子分達とちがって、喋らないで吠えるだけの「現実に存在する」犬や普通の人間が目の前に現れるから、悪夢から覚めたという実感を表しているように思います。
でも一郎が遭遇する馬車別当には、俺なら山の中であの風貌で鞭をもっていてにらまれたらまず逃げます(爆)
しかし一郎は全然恐怖を感じてないし、自分から会話を始めてしまう。
それは夢を見ていて「これは夢だからビルの屋上から下に飛び降りても大丈夫なんだ」とどこか納得して飛び降りる(良く見るんです)のと同じような動機に感じます。
“セロ弾きのゴーシュ”にも人間と動物が入り交じってでてくるけど、言葉を喋る動物たちはみんな草木も眠る時刻にゴーシュを訪問してくるというのも、異界の住民達が活動しうる時間帯に次元を超えてやってきてゴーシュになにか働きかけている様に思えます。
しかしながら、動物たちも人間達も、“セロ弾きのゴーシュ”や“注文の多い料理店”にでてくるすべての登場人物には「同じ次元に存在して触れあっている」という「動物と喋ったとしても、それが当たり前に思える存在感」、そして「おのおのとても豊かな感情の起伏があること」を感じるのです。
しかし一郎は徹頭徹尾、醒めた目であの山の中の出来事を見ているようでなりません。
“ヘンゼルとグレーテル”しかり、“ハリー・ポッター”しかり、やはり“森”というものは、恐ろしいものが住んでいるから、子供は独りでその中に足を踏み入れることはタブーである、ということは洋の東西を問わず良くある一種の常識なのに、一郎は朝ご飯を食べてすぐに出かけていきます。
なんでこんなにお気楽なのだろう。
たしかに手紙をもらった段階では、お約束としてキャラクターを想像するのに難くない「子供らしさ」を備えていて、家中飛び跳ねて喜んでいることになっていますが、翌日山に入ってからは完全に「客席」でその「異界」を眺めているような感じがしています。
そうなんです。主人公ならもっと自分が遭遇する山や森の中での困難を克服していくことで観ているものに感動を与えるはずでしょう。
しかし、この“どんぐりと山猫”を読んでいて馬車別当や山猫に出会うまでのことは、凄く魅力的なロード・ムービーの様な冒険的な感じがするのに、出会うキャラクターの個性ばかりが際だっていて一郎の存在感はかなり希薄。
それは前述の夢の中のように、つまり「絶対に自分は傷つかないけれど目の前に起きるスペクタクルはびっくりしながら、時に不安をかんじたりもしつつ、楽しんで見てるし、観客にストーリーの展開について舞台上から選択を迫られたら喜んでそれに協力するけど、それによって火を浴びたり水に飛び込むのは登場人物の方であって自分は椅子に座って(つまり安全地帯から)笑ったり同情したりする」立場みたいな感じが強くします。
一郎がやっとのことで出会ったはずの馬車別当や山猫とずっと会話をするときは、なにかたとえていうと、芝居の終演後の楽屋で客と出演者が初めて話すみたいな「遠い距離」を感じざるを得ません。
たしかに一郎は客人ではありますが、同じ客人でも“注文の多い料理店”の紳士達とはやっぱり違う。
未知のものと出会う際に普通にもつであろう「恐怖心」というか「なんじゃこれ」みたいな「驚き」が「当事者」のはずなのに希薄なところがとても現実から遊離している感じがするのです。
山猫との初遭遇にしたって、突風とともに背後から現れた山猫に対して「やっぱり山猫の耳は立って尖っているな」なんてすごく冷静に思っちゃって相手が「ようこそいらっしゃいました」という前に「やあ、昨日ははがきをありがとう」なんて馴れ馴れしく恐れを感じず自信たっぷりなのもいい加減にしろって感じです(爆)
ゴーシュと動物たちは、共演者達の既知の関係の言葉のやりとりの次元みたいなものを、設定はたしかにおたがい初対面なのに、感じてしまうのです。
フランス語でいう、vousとtu、ドイツ語で言うSieとDuの違いみたいなものかな。
その距離は比較するとすごく大きい。
最初ドアを開けて対峙したときは反発から始まってはいるけど、対話を続けていく内にゴーシュは相手に対して、接し方が変化していくのが読んでいて分かるのだけど、一郎は道を聞くか単なる挨拶と、質問されたことにのみ答えているのに過ぎません。
そういう一郎の不思議な立場が、僕は、なぜ一郎が再び山猫からの招待状を受け取れなかったかということに繋がる重要なファクターだと考えます。
つまり、賢治は読み手(一郎)へ挑戦状をつきつけているのです。
塩鮭の頭は現実世界ではただのゴミです。
しかし芸術やスポーツの実現者の創作過程や訓練のなかには結果しか見ない人たちからすると、ずいぶん無意味に見えること、しかしながらそれを大事にすることが一般常識でははかれない価値があることの象徴だったりもするのかな。
金のどんぐりには「すぐに分かる価値」があるからそれを一郎は欲しがったのでしょう。
しかし「塩鮭の頭」こそが、あの世界では最も価値のあるものだったのかもしれません。
というかその価値を分からなければあの世界でだれとも仲良くはなれないのですよ。
異界なんですな、そういう意味でも。
しかしここまで考えて自分の作曲(1980年)時の、脚色の失敗に気づきました。
さまざまな動物との出会いのなかで、「りす」との部分だけ原作ではあまりにあっけなかったので、自分の曲では、りすと、もっと「対話」をさせています。
否、させてしまっています。
音楽的にはある意味その場面のアイデア(乱暴に言えばラップみたいに音楽のリズムに合わせてメロディーなしに会話をしている)は気に入っているし、聴いた人からも結構面白がってもらえる場面なのですが、あんなに「親しげ」にりすと会話をさせたことは当時の自分にとって一郎の立っている平面が他の登場人物とは違うということに気づいてなかったからゆえのことです。
他にも脚色しました。
劇中劇(とある意味言えるかも)である裁判のクライマックスはなんと「固まってしまう沈黙」であり、若い作曲家は、それを音楽作品の頂点にどう表現させるか稚拙な技術では無理におもったので、判決が決まった後に、原作では書いてない「凱旋のダンス」を山猫と馬車別当、そして一郎にまで一緒に踊らせてしまいました。
この舞曲については最近思い切って原作に忠実にするために、割愛する勇気ができたのですが、りすの場面に関しては、これはもう未熟な若いアプローチだったということで、その曲を削除することなくこれからも弾いていくと思われます。
こうやってこの投稿時点で初演以来60回近く30年弱の付き合いをもって演奏してテキストを読むと、読み方って変わってくるものですね。
ある意味作曲した当時の「世界観」を全否定するのは大人げないとは思うし、いつ何時リスの場面を改作しようとするかもわからないけど、こうやって考えてみることは僕にとって決して無駄なことではないと思われます。
しかしながら悪い癖でこれを説明するにのにこんなに文字数を使わないとだめな文章力はなんとかしないといけないとは思います。
ここまで読んでくれた人に感謝です。
簡潔に書き直すことができたらまたこの記事を改訂することもあるかもしれません。その場合にはコメントに報告します(爆)
蛇足ながら、昨年作曲した“注文の多い料理店”に出てくる(実際には登場しないが)、山猫の敗走の後日談として“どんぐりと山猫”があるという奇想天外な演出プランを僕は持っています。
“注文の多い料理店”では、計画が頓挫してしまった山猫はリヴェンジを期し、部下も新たに雇って一郎に挑戦状を送ったのです。(爆)
ゆえにこの愚かな作曲家は“注文の多い料理店”の音楽の中に密かに“どんぐりと山猫”の中にある山猫のモティーフを埋め込みました。
上演するなら“注文の多い料理店”→“どんぐりと山猫”の順であることが望ましく、その場合初めて聴く人は“注文の多い料理店”の中で山猫のモティーフを認識することは不可能ですが、この屈折した解釈(爆)は二つの作品を並べて聞けば納得してくれる人もいたりするでしょう(爆)
もう一つ書いた“セロ弾きのゴーシュ”に対となる作品として、今年か来年までのあいだに“オツベルと象”を書こうと思います。
これをカップリングするのも客観的な根拠に基づくものではなく、僕の独断です。
だんだん良い人になっていくゴーシュと、だんだん悪い状況になっていくオツベルと象、その正反対の変化が面白いと思うのです。

★10月に幕を開ける

