マニュエル・デ・ファリャの「三角帽子」の、そもそも三角の帽子って? - 2013.03.20 Wed,22:08
昨日(2012/12/27が第一回目の練習だったのです。最初の投稿日が2012/12/28だったから)はこの記事に書いた、千葉県の少年少女オーケストラの練習に住んでいる神奈川県最北部から、東京を横断して千葉まで行きました。
僕が弾くのは、大好きなスペインの作曲家、マニュエル・デ・ファリャの書いた、バレエ音楽の組曲版“三角帽子”です。
プロのオーケストラでもたまに僕は弾きますが、全曲通じてというのはそれほど普通では無い事だと思います。
第二組曲だけとか、終曲だけというのが圧倒的に多い。
それで、どうやら指揮者が立ち会う全体練習としては昨日が初日だったらしく、指揮の井上道義さんは、最初、この作品のく、周辺的なストーリー等の話をしていたのだが、そもそも「三角帽子」というのは、クリスマスパーティーで被るときのある円錐形のとんがり帽子が三角になっているものを想像しがちだけど、そうじゃなくて、こういうものだと持参して被って見せていました。
(ピンぼけはわざとさせたのでは無いが、子供の顔ははっきり映ってない方が良いらしいから丁度いいやと捨てずに出します。)

で、いつの間にかその帽子が僕のPianoの横に、曲中に乗り換えて弾くCelestaの上に置いてありました。
そりゃ、もちろん、指揮者が演奏を停め、子供に説明をしている間、暇な僕は、カメラを楽器の上に置いてセルフタイマーで自分撮りをしないわけはないわな(爆)
畜生、満面の笑みを浮かべたつもりが、タイミングを間違えて真面目な顔になってしまった(爆)

帽子の向きは僕が被ったのと違うけど、きっと僕の方が正しいような気がするが、きっと帽子が楽器に当たるので気にして被り直していたからこうなったのかな(爆)

彼には了解済み(爆)
実は帽子が楽器に当たって弾きにくいのでこの後すぐに脱がれてしまいました(爆)
面白かったのだけどな。
練習終了後に、記念撮影をしました。
左から、このオーケストラの音楽監督の佐治薫子さんと、指揮者の井上道義さんと、帽子を被ったままの僕と、ハープの山崎祐介さんです。

必ずや驚きを持って客席で眼を丸くすることになるでしょう。
チラシは、ここにあります。
すぐに売り切れますから早く申し込んだ方が良いです。
前に紹介した記事も書きましたが、この少年少女オーケストラの演奏水準は、半端なく高いです。
明後日本番でも大丈夫な位で、アマチュアとしたら、本番があと三ヶ月後なので、普通はこの時期の初めての練習なんてかっこにならないものですが、佐治さんを始め、様々なトレーナーの先生達の努力の甲斐あって、毎回素晴らしい演奏を展開しているのです。
そして、今回の指揮者もそうだし、毎回の演奏会、アマチュアの専門の指揮者ではなく、他にも僕の仲良し、佐渡裕ちゃんとか一流の指揮者がいつも指導するという贅沢な団体なのです。
最初の練習は何時から始めたんだろうな、きっと今年の春の演奏会の後、新学期に入ってメンバーが入れ替わってからすぐなんだろう。
だから、もう子供たちは暗譜で弾ける状態なのだろうな。
今日の練習は午後からで、僕もハープも指揮者も練習開始直前に行きましたが、朝から昼間ではびっちり練習していたようですし、、。
今日のトークで、井上道義さんは、今話題のベネズエラの子供のオーケストラ(エル・システマという歴史のある国の事業)と良い勝負をするくらいのレヴェルにあると鼓舞していましたが、それはあながち間違えては居ないと思います。
ただ、僕が前回来た時に比べて、男の子の比率が非常に少なくなっていて、その分、ちょっと「優等生的」な音になっていて、それを井上道義さんは結構残念がっていました。
ベネズエラのオーケストラは男の子の比率が高そうに見えますね。
脱線してしまいましたが、比較の問題では無くとにかく上手い。
嫌みな意味では無い巧さがあります。
だって、弾いている時、「子供とやってるんだ」という意識はありませんから。
音楽にちゃんとどっぷり浸かれる。
この辺は、僕が20年以上おつきあいしている、横浜のヴァイオリン教室で居るときの高揚感と共通しています。
その他にも中学や高校のブラスバンドと共演する事もたまにある僕にとっては、単に可愛いというレヴェルでは無く本気でやっている子供たちとやるのは、自分の心も浄化されるし、大人の一流の人達と演奏しているときと全く変わらぬ高揚感を得ることが出来るので嬉しいです。
せっかくだから、この際、音楽作品としてでは無く、
かぶり物としての「三角帽子」についてちょっと調べてみました。
今日はアルペン登山の練習(爆) - 2013.01.08 Tue,09:18
僕は今日、山登りの練習(リヒャルト・シュトラウスのアルペン(アルプス)交響曲)に行って来ます(爆)
学芸会で言えば、Celestaの僕は登り始めてしばらく行った後に出てくる「滝」の役だ(って、そこしかない(爆))
この曲を知らない人達の為に後で追記しますが、良い曲ですよ。
交響曲と書いてあるけど、叙事詩みたいなもので、アルペンに登る様を数十分の音楽で表現したものです。
景色や、天候も表現されています。
頂上に立ったときの爽やかさもすばらしいですが、途中で嵐にあうところは、「ウィンド・マシン」とか「サンダー・マシン」という風の音や雷のを出す特殊な楽器、詳しくないけど、たぶん、この曲で始めて使われたのかなあ、言ってみれば音楽に、通常の楽器では無く、効果音を手動で付け加えた作品です。耳にも面白いけど打楽器奏者の方々が「演奏」している姿も普通は見られないから面白い。
オーボエ族も、確かヘッケルフォーンという特殊な、たぶん日本でも数本あるかないかの楽器を使います。
今日練習に行ったら撮ってこよう。
レスピーギの「ローマの松」でも、譜面に「テープレコーダーで鳥の声を重ねろ」ということが書いてありますが、最近は鳥笛でやることが多いし、そういうときに大活躍するのは打楽器奏者の方々ですね。
Celestaという楽器の名前を聞いたことの無い方々は、この記事に写真が載っています。
今回の数十分の交響曲の僕のパート譜もほとんど一枚(爆)
しかも、始まるところまでガイドはほとんど無く(爆)、譜面に「この辺から」と書いてある(爆)のは、その記事の作品と同じ。
たぶん、昔は打楽器奏者が乗り換えて弾いていたのだと思う。
始めて弾いた時、「この辺から」ってなんだよ!ヽ(`Д´)ノ
て感じで、やっぱりスコアを買って勉強しろということか、と思い、当たり前の事だが高価な譜面を買った記憶があります。
そうなんです、お芝居の台本とは違い、orchestraや吹奏楽を演奏している人は、人によって全体像は耳では聞くけど眼で見てない人が居たりします(爆)
自分のパートだけで吹きますから、指揮者が大事になる訳です。
僕も仕事として割り切っている仕事で弾く曲は全体が書いてある総譜を見ないで弾いている事も多いです。
でもこれはやっぱり好きだからということもあるし、自分が作曲してる一連の“どんぐりと山猫”なんかの作品と指向性は似ているところがあって、この曲から学ぶべき「描写」というのは、ドビュッシーやラヴェルと言ったフランスの作曲家の描く音の「絵」とはまた違うけど、このドイツの作曲家から得るものは無数にあります。
景色が耳で見えるんです。
そうだ、これは誰にも気づかれてないかもしれないが、拙作“どんぐりと山猫”の冒頭、手紙の提示の後、手紙をもらった一郎が登場して眠りに着くまでの場面は、完全に白石准が、リヒャルト・シュトラウスに憧れて、そりゃ、こんな拙い音の何処が、と思われるかも知れないけど、自分では彼の「ティル・オイレンシュピールの愉快ないたずら」の雰囲気に憧れて書いた音楽だったことをここに告白します(爆)。
それは、僕らはまだ演奏してないけど、語り手たちの楠定憲や高山正樹と、やるつもりで居た「イノック・アーデン」というテニスンの詩に書かれたシュトラウスの「語りと音楽」のほとんど誰も知らない作品も“どんぐりと山猫”作曲に於いては参考にしていたからだと思います。
最後に老婆心ながら書いておきます(爆)
このシュトラウスさんは、ワルツ王のヨハン・シュトラウスさんとは別人の19世紀の終わりから20世紀前半に活躍した人ですからね(爆)
教えて貰わないことを実践する勇気が大事かな - 2012.12.22 Sat,22:18
そうでないと、話の流れがわからないからです。
CDとして録音した、元NHK交響楽団のトランペットの津堅さんと録音したものの中のアルチュニアンのトランペット協奏曲についての話です。
実はこのアルチュニアンの協奏曲、終楽章(って全部繋がっているから譜面上は別れてないけどやる人はわかる)の間奏の僕の独奏部分に仕掛を僕(実は僕だけがやってることだとは思えないが)が施していて、ごくたまに学生さんから「あそこはああいう風に鳴らすのは不可能なはずなのですが、どうやって弾いているんですか」と質問が来る箇所がある。
答えは「これは勿論ピアノの曲では無く、オーケストラが原曲なので僕はそれを忠実に『裏技』、あるいは『秘技』を使って再現しようとした」と答えます。
これじゃピアノを弾かない人には何だか判らないよね。
でも良いです。
そういうことなんです(爆)
憧れのハインツ・ホリガーさんと共演できた! そして、ピアノの内部奏法について - 2012.10.11 Thu,12:31
この日(先週の土曜日に東京錦糸町にある、すみだトリフォニーホールで行われた新日本フィルハーモニーの演奏会)は僕にとってすばらしい体験をしました。
世界的なOboe奏者にして、作曲家、そして今回僕は初めて指揮者として出会ったハインツ・ホリガー(Heinz Holliger)氏とのconcertの本番でした。
ハインツ・ホリガーって誰?(Wikipedia)
ホリガー氏に対しては、僕が二十代の頃、とても刺激的なOboeの友人ができて、三つのコンクールに挑戦していた頃、予選で演奏するアンリ・デュティユ(アンリ・デュティユって誰?(Wikipedia))のソナタ(僕の最も好きなOboeの曲と言っても過言じゃ無い)の演奏で、彼のお気に入りとして、ホリガー氏の演奏を参考に聴かされたのが影響し、その頃から僕の最も好きなOboe奏者になっていました。
その友人が使っている楽器も、日本では一番人気に使われる楽器じゃないメーカーで、ホリガー氏と同じメーカーの楽器を使っていた位、彼が音の指向性としてその楽器にも、そして奏者としても傾倒していたのだ。
これからの記事には全く関係ないが、その友人と受けた三つのコンクールのうち、フランスのトゥーロンで行われた時のエピソードは僕が1997年にwebsiteを開いた時、昨今の「写真中心」というblogのスタイルではなく、「言葉の洪水」というスタイルを取っていた頃に書いた印象深い海外の思い出(爆)
出来れば、この記事を下まで全部読んだ上で、この位置に戻り、その珍道中の記事は後に読んだ方がよろしいかと思います(爆)
彼は、四つの全く方向性の違う曲を振りました。
ドビュッシーの管弦楽のための「映像」は、今まで感じたことの無い感覚の中で終わりました - 2012.09.07 Fri,23:59
下の写真は、開演直前の玄関の様子です。
前にも出した、以下の写真の噴水の向こうからこっち側を撮りました。
何と書けば良いか判らないのですが、今まで長年orchestraの中でCelestaは弾いて来たんです。
でも、今日は何か根本的に違う世界に居た気がします。
それは自分が成長したとか言う問題もわずかの割合で感じ方に影響を及ぼしているのかも知れないけど、どう書こうかな、、、
チャイコフスキーの「金平糖の踊り」がこの世でCelestaという楽器のために書かれた最初の作品であることは周知の事実なんだけど、それとか、ホルストの惑星の中の印象的なCelestaなんかは、「ピアノを弾く延長線上にある世界観」と書けば良いのかな、、、。
Celestaは今までも何度も書いてきたけど、そういう意味でピアノを弾くということと繋がっている楽器でもあるが、orchestra全体の音色のパレットの中で、特にドビュッシーやラヴェルの書いた音の中に於ける役割は、あるときは、光だったり、あるときは水滴だったり、波のしぶきだったり、そこに、「演奏者の名人芸が反映する世界」とでも言おうか、そういうものとは全く無縁の、「色の要素」に過ぎない「素材」であることが良くある。
そういう事も知った上で、でも、今日は今までとは違う感覚に包まれていた。
違うというのは、この直前の段落で書いた「素材」ということを否定するという意味じゃ無くて、その先に見えたものを感じたとでも言おうか。
たしかに金平糖の踊りや、惑星、そして最近では、映画「ハリー・ポッター」の「ヘドヴィックのテーマ」のソロ部分を弾いている喜びは何度でも味わいたいと思うが、そこには、書いた通り「Solo」としてorchestraの中で抜きんでた瞬間を楽しんでいるところがある。
しかし今日弾いたドビュッシーの音は、こんなにも繊細な全体の中で溶解するCelestaの音を聴いたことがあるか、と思うほど弾いていてぞくぞくしたということです。
曲が終わるのがもったいないという感覚です。
これはピアノを弾いている時に味わう喜びではありません。
この曲をピアノに編曲されたものを弾いても味わうことはできません。
弦楽器、管楽器、打楽器、ハープの全体が混ざった「空気」の中にチェレスタの音が、ハーブの様に隠し味として入っていることの充実感なんです。
あるいは、演奏されている全体の音が、クリスタルのコップにつがれた水で、とっても響きの良いモスクみたいなところで、一滴の水が上から垂らされて「ぽちゃん」と音がする、それがチェレスタなんです、というたとえがいいかなあ。
「俺が」弾いているという事はどうでも良い。
そこには自己主張とかいう世界もない。
ただ、最高に透明な、人に寄ったら全く聞こえてないかもしれない小さなチェレスタの音の中に、しかしながら、これが無いとこの曲の全体が崩れるというか、それはチェレスタだけじゃなく、他のすべての楽器の有り様もそうだから、最後指揮者のアルミンク氏がすべて独奏的な部分を弾いた人を立たせたのには意味があったわけでしょう。
こんなに良い曲なのに、なぜこんなに演奏されないのか実に残念です。
ドビュッシーという男の頭の中に鳴っていた音というのは、視覚、触覚、味覚、嗅覚まで含んでいる様な、単純な音じゃない、音なんだよね。
残念ながら今日は空席も見える満員とは言えない状態だったけど、今日の演奏は相当ご機嫌だったはず。
この曲なら毎週演奏会があっても良いよって感じだ。
穿った書き方をするならば、「牧神の午後への前奏曲」をピアノ弾きが聴いていて、あの夢の様な、そして絵で言えば、光と影の描き方のグラデーションが凄い世界に対して、編成にピアノがないから、自分がそこに参加できないジェラシーを感じていたものが、同じような世界に今度はチェレスタで彷徨うことが出来た喜びとでも書こうか。
こういう世界に居ると、なんてピアノってデリカシーの無い楽器だろうと思ってしまったりもする(爆)
もちろん、またピアノに戻れば、「ピアノしか出来ない世界」に酔うことになるのは判った上で書いているのだが。
子供の頃からラヴェルはすぐに好きになったが、ドビュッシーとフォーレは興味を持ったのが、二十代半ばで、本当に好きになったのはどうだろう、二十代後半からだけど、今日で、その「好き」という強さはこれまでの10倍は強くなった様な気がする。

上の写真は今日の練習の始まる前のものです。
今日はまるで初めてorchestraで弾いたとか、初めてCelestaを弾いた、とかの感動を持って帰る事ができました。
ふと思うと、最近光や色について、毎日写真を撮ることに執心していることと、こういう風に今まで聞こえなかった様に音楽が聞こえてくる様になった事には、思い込みだと言われそうだけど、絶対に関係があると思っています。
でも思うな。この感覚って、きっとヤマハやシードマイヤーのCelestaでは味わえないだろうと言う事。
楽器としては一番不完全に出来てるこのMustelだからこそのドビュッシーなんだよね。
チャイコフスキーと同時代に生きていたわけだから、彼にとってもこの楽器は最新兵器だったわけだ。
この楽器に巡り会えてラヴェルもドビュッシーもその管弦楽曲にスパイスが利いたわけだ。

ドビュッシーの管弦楽のための「映像」は情景だけでなく、香りも漂う音楽に感じます - 2012.09.07 Fri,07:21

あまりに、音楽のネタが最近少ないので、たまには音楽の話題を(爆)
本日サントリーホールで弾く、新日本フィルハーモニーのサントリーホールでの定期演奏会(新日本フィルハーモニーの該当ページはここ。興味のある人はまだチケットはあるようです。19:15開演です。)で、僕は写真のCelestaを弾く。
件名にあるとおり、今日弾くのはドビュッシーの「映像」だ。
「映像」というと、ピアノのための二つの(各々三曲で出来ているが)作品がピアノ弾きの間では有名なのだが、この管弦楽のための曲は前から好きだったのだが、弾く機会が無かったからものすごく興奮しています。
周りで一緒に演奏している知り合いに訊いても、今日二曲目に弾かれるイベリアという曲だけ吹いたけど、全曲は初めてだと言っていた(だから、渡された時点で、僕の弾くパート譜には、前弾いた人の書き込みのある曲と、まったく書き込みのない曲があったのだ。)し、全曲弾いた事のある別のベテランの人も別のオーケストラだったから10年ぶりだとか、つまり、こんなに素晴らしい、ドビュッシーにとってもたぶん相当重要な位置を占める作品もそれほど有名な他の作品(「海」とか「牧神の午後への前奏曲」とか)に比べれば演奏頻度は多くないと言う事だ。
曲について説明のあるページは、ここと、そして、ここのものにlinkをはっておきます。
それを見ると、初演当時は、賛否両論だったんだね。
その時代の「現代音楽」な訳だから、今じゃ普通に心地よい音楽に聞こえるけど、Debussyが試したそれまでにない試みとかには、否定的な人も多かったのでしょう。
だから批評家の言う事は正しい場合ももちろんあるけど、近視眼的なものも多いというのは歴史が証明しているわけだ。
大まかに言うと、上のリンク先のページの説明にもあるとおり、この三曲は、最初の"ジーグ"がイギリス(スコットランド)、"イベリア"がその名の通り、スペイン、そして最後の"春のロンド"がフランスという、「世界旅行」みたいな音楽です。
ラベルやドビュッシーの音楽は、その音楽から景色が良く浮かぶ種のものだと僕は思いますが、この曲は、どうだろうな、よくケーブルテレビでチャンネルを合わせるNationalGeographicあたりの膨大なコレクションから自然の動画と組み合わせて見せて貰いたいとも思っちゃうほど、三曲の個性がそれぞれ違う景色が見えます。
最初のジーグは、最初titleが「悲しきジーグ」という風に着いていたらしく、途中では凄く盛り上がるけど、音楽の冒頭には哀愁があり、凄く晴れた景色というよりいは、どこか曇っているあの国のポピュラーな天気を思わせるような色合いを感じます。
そしてイベリアは三曲からできているけど、スペインの路地の活き活きとした喧噪や、お祭りの盛り上がり、そして、まさに、題名そのものが「夜の香り」というやつが二曲目にあって、Celestaが「夜の楽器」に聞こえる(夜のお菓子うなぎパイじゃないが(爆))、なんとも言えない、空気感というか、ぞくぞくします。
ラヴェルもドビュッシーもフランス人だけど、本当にスペイン風の音楽が似合うね。
最後の「春のロンド」は途中に五拍子の可愛いダンスがあるけど、本当にボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」が見える様な(フランスじゃないけど(爆))繊細な春への賛歌に聞こえます。
解説したページを見て、知らなかったのだが、もともとピアノ二台と管弦楽としても着想されていたということで、そのヴァージョンも聴いてみたい(弾いてみたい)。
僕の弾く量と言えば、全体の音楽のどうだろう、5%にも満たない様な気がするけど、同じ少なさといっても、ラヴェルのボレロなんかの、「ただの倍音成分」を担当している、という感じでは無く、もちろん、Celesta特有の、FluteやHorn、Oboeと重なって一つの音を作っている部分もあるけど、そこはかとなく、数小節だけSoloっぽくなる箇所があちこちにあって、弾く量はごくわずかだけど、何というか、「Celesta冥利に尽きる」みたいな作品です。
話は飛ぶけど、この二週間くらいで、日本のヤマハのチェレスタ(8月の芥川作曲賞)と、ドイツのシードマイヤーのチェレスタ(NHKのラジオの録音)と、そして今回はフランスのミュステルのチェレスタを三種類弾き分けるのも楽しいです。

たぶん、画像が小さすぎて良く判らないと思いますが、「春のロンド」のパート譜です。
CelestaはViolinたちにくらべて弾くところが少ないので、こんな譜面が多いのです。
「こんな」とは、自分が弾き出すところまでの情報が「書いてない譜面」ということです(爆)
僕は練習番号10番(小節数と別に音楽的にまとまりのあるフレーズごとに振られている番号を意味します。だから10小節目ということではなく、数十小節、あるいは、ものによっては何百小節待たされることもあるわけです。)から演奏の準備をはじめますが、冒頭からそこまで、そこそこの間は、待っているだけで、今どこを演奏しているかを知るために本番中スコアを見るわけには行きません(爆)
こういう仕事の難しさは、演奏する音符の難しさもあるけど、ちゃんと乗り遅れないで弾くということ自体への理解と、集中力が必要なのです。
たいていの場合、直前に誰かが演奏している「ガイド」が書いてあるのでほとんど問題はないのですが、それにしたって、同じフレーズを別の場所で演奏される場合もあるわけだから、そこで勘違いすると大変なことになります。
やっぱり初めて演奏する時(今まで聴いていた曲だとしても、聴くのと弾くのとでは全然違うものなのです。)は、「今どこをやっているのか解らない」ということが一番怖いので、今回は、スコアから「曲の最初からそこまで」の休みの小節数を書き込んであります。
もちろん、拍子も変わるしテンポも変わるから、単純にカウントして数えられるものではないのですが、その不安は初日の練習ですぐに解消しましたが、やっぱり書かないよりは書いておいて良かったと思う(爆)
次からはまっさらな譜面でも自信をもって弾けるとは思うけど、こういう苦労は普段独奏や伴奏やアンサンブルのピアノの譜面にはないね。
この曲に興味を持った人は、iTunes Storeあたりで、
Debussy Image for Orchestra
で検索するとでてくると思います。
そうそう、この曲の木管楽器、オーボエのパートを注目すると、通常のオーボエに加えて、orchestraではおなじみのコーラングレ(イングリッシュホルン)、そしてあまり見かけることが多いとは言えない、前記の二つの楽器の中間の音域を担当するバロックではおなじみの、オーボエ・ダモーレも活躍します。
フェデリコ・モンポウ(Federico Monpou)の罠 - 2011.12.02 Fri,11:43

以下、写真と本文には全く関連性はございません(爆)
人間は自分だけの世界観でいると、視野が狭くなる。
やはり自分の視点じゃないものの見方を本や他人の主張、僕の場合は他人の演奏や、創作などを鑑賞することによって、自分では気づかなかった価値や方法、無数と言って良いほど自分に影響を受けることになる。
全くのオリジナルを作っていると思いきや、やはりどこか誰かの真似というととても屈辱的なニュアンスに取る人はいるかもしれないが、言い直せば、「見たことのないもの、聴いたことの無いもの」を想像することは不可能だと言うことだ。
では、全く新しい価値観を我々に与えてくれる人は0からそれを思いついたのか?
先頃亡くなったApple Computerの創始者、スティーブ・ジョブスであれ、シェイクルピアであれ、バッハであれ、下敷きは他の所にあるのだ。
しかし、その加工の仕方が尋常じゃないプロセスを踏むから、前にも先にも居ないような存在感というか存在理由と創作を残すことになる。
ここ最近聴いた他人の演奏の数々で強く感じたことがある。
自分が音楽人生の中で培われた価値観を通して、評価することになると、とろけてしまうほどすばらしいもの、そしてどうしても感心しないもの。
そして、自分とは違う土台に立ってやってるんだろうな、というものを通り越す嫌悪感。
普通は前者の事しか思いつかないし、感動すると人よりその嬉しさを激しく外(会えればその創造者当人に)に表現したくなるくらい、自分の人生の気がつかなかった価値観をもたらしてくれた事への感謝で一杯になる反面、僕は失礼ながら、特に生演奏の音楽を聴いていてどうも違和感を感じると、コンサートの最後まで居られないで出て、お口直しに飲み狂いたくなるところがある(爆)
感動するから拍手をするので、その反対だったときになぜおとなしく聴いてられるか、良く分からない。
昨日もあるピアノを聴いていて、残念なことに、その楽曲のすばらしさを表現するより、客席に「演奏を歌って聴かせる」ことに執心していたゆえ、あまり良いたとえではないが、まるで歌い手の演奏の様に聞こえて感心できなかった。
この場合の歌い手というのは、字義通りの「歌い手」という職業ではなく、「歌詞になっている言葉の感情、しかも客観的に自然を詠んだものではなく、台詞の様に人間的なメッセージを直接相手にぶつけようと感情を込めて表現する」ことだけですべてが形作られている表現方法ということだ。
「音楽はすべて歌である」と思い込んでいる人たちがいる。
それは、歌の好きな人たちにとっては、気持ち良いのは器楽より声だから間違ってはいない。
だからすべてが「感情に支配されなくては行けない」ことになる。
だから、演奏というのは、「歌わなくては行けない」ということになる。
まあ、いわゆる、冷たい表現で、ちっとも嬉しそうに弾かず、「歌心」のないピアノ演奏も困ったものでそっちの方が多いので批判の矛先はそっちの方にこそすべき(Lessonではいつもそこでいらいらしているのだが(爆))なのだが、「表現することができない」ということは批判以前の問題なので、すべてが前述の様な感情を込められると器楽の音楽では困っちゃうことになることがある。
建築物や山の風景には、そこから影響を受けてエモーショナルになる人間の心はあったにせよ、それ自体には何も感情はないはずだ。
器楽の音楽、特にハーモニーを自分で構築できるピアノの演奏というのは、全く機械的とは言わないまでも即物的に音象を空間に放り投げる瞬間が必要な時がある。
それが例え歌曲であろうと、オペラであろうと、後ろに居る管弦楽がすべて歌い手と同じ気分で居たら音楽は崩壊する。
その中にまるで映画のセットのように、登場人物がでてきて歌うときに冷たい背景が活き活きとしてくるのだ。
背景までが感情を持ち過ぎている(もちろん歌の感情に寄り添う必要のある場所も多いことは大前提の上で)とその歌は響かないし、僕だけかもそう思っているのかも知れないが、ここで撮している写真の生き物が出てない景色には、何も感情がないからクールな気分になれるものもあると思うのだ。
それは、作曲の視点にもある。
風景画に徹する必要のあるとこが場所によってはあるわけなのだ。
(まあ美術の専門家ではないから、風景画だってゴッホのそれと他の同時代人とは全く違うのだからつっこまれると返答のしようがないが、風景や静物をあまり感情的に描かないということ)
話は飛ぶが、僕の大好きな、フェデリコ・モンポウの音楽には罠が多い。
よくサティとかと類似点を引き合いに出す大馬鹿野郎が居るて困るのだが、この二人の作曲家の根本はまったく違う地平線に立っている。
似ているとすれば、時にゆっくりで静かな雰囲気が支配しているという物理的なことだけだ。
それは全く似て非なるものなのだが。
サティは、当時ヨーロッパを席巻していたドイツの表現主義に対してどこか斜めに醒めて見て、破壊に走る1910年代のパリのダダからシュールレアリスムの影響を無視できない、どこか諧謔、しかしながら、彼独自の内面ではものすごく古いフランスの時代の禁欲的な音楽の風情を内在する、どこか、中世の絵の中にある、感情を殺しているような静けさが全体を支配しているのだ。
だから、サティは「教会ではキャバレーの中に居るように振る舞い、キャバレーでは教会に居るが如く振る舞った」と言われてしまうのだ(爆)
それに引き替え、モンポウというのは同時代にパリには居たけれども、無口で社交があまり得意ではなかったと言われる彼の飽くまで個人的な内省が全体を支配しているのであって、そういう意味じゃ、少ない音の中で、「歌い込む」という意味じゃサティよりは、歌が全体を支配しているようにも見える。
そこにモンポウの罠がある。
モンポウは教会の鐘を作っている工場の息子だったらしい。
ゆえに、フルートやヴァイオリンなどが表現しにくい、とても打楽器的というか、ゆっくりだけど、鐘が鳴って減衰していくピアノが表現できるソノリティというか、その響きの中では人間の感情なんて霧散していくのだ。
湖という曲があるが、完全にそこは、白黒でソフトフォーカスで霧のなかに浮かび上がる湖が見える様な気がするが、それに一喜一憂しているような歌はない。
できるだけ感情を抑えて弾くべきだと思うのだが、だからといって、コンピュータで打ち込みをした感情のない平坦な表現が良いのかというとそれとも違うから、難しいのだ。
そういう所はある意味サティなんかより、ドビュッシーの表現に近いところもあるのだろう。
だから僕はモンポウを知ってからの方がドビュッシーの音楽が好きになったものだし、モンポウ夫人にLessonを受けた時、その辺の感情表現とピアノを響かせるということの調整に苦しんだものです。
そういう意味だと昨夜あるピアニストが演奏したモンポウを聴いたのだが、その前の訥々としたトークと全く同じように、フレーズの最初だけ感情を噴出させて、語尾が消えてしまう感じでした。
気持ちが入るフレーズの長さが一定だし、途中で妙に感情が途切れる瞬間が訪れるのです。
たしかにモンポウ自身の演奏は自由なルバートがそこかしこにあるのだが、動いては行けないと思う部分も常に動き回るから、(それがピアニストの若さゆえのことなのかもね)、停まってじっくり観たいという「視覚に訴える建築物のような音楽」にはならなくて、いつもピントが流し撮りみたいな写真に見えてしまって残念だった。
動いたり停まったり、楽曲のテンポの問題ではなく、「内面の鏡の中に映る景色のスピードが一定」だったのだ。
強調して欲しい音が全く強調されず、強調しなくて良いと思う音が強調されているのは、もう趣味の問題だから弟子でもないし(爆)、許容することにしたのだが、でも時折ピアノの響きのピントに神経を使ってるなという瞬間があるのだが、それが点で浮かび上がるのであって線にはならないのだよな。
もっと音域が違うところででてくるメロディーに人格が与えられ、別の人物が複数居る感じに聴きたかったが、「ピアノの演奏」になっていたな。
たぶん、「彼を聴きに来たのだから、それの何処が悪い」とファンの人は言うのだろうが。
音楽の演奏も、我慢が必要という作品は多い。
表現を豊かにしようと思うと、つい、動いてしまうのは良く分かります。
でもモンポウの罠にはまっているなと思いました。
でも自分も苦労している技術的に難しいところは、僕より何倍も技術をもっている彼にとっても苦労しているのを見て少し安心した(爆)
でも彼に感謝すべきは、あまり取り上げられる頻度が多くないこういう作品を取り上げようとする意欲、そこにはモンポウの一ファンとして嬉しかった。
トークで「客席の99%はこの曲を聴くのは初めてだとは思いますが」とあったが、その1%の存在だったことに誇りを持つし、久しぶりにこの曲を弾いてみたくなった気分にさせてくれたことに感謝です。
こう考えると、結局は音楽の内面を表現したいという気持ちと、演奏家なら誰でも持って居る自己顕示欲に基づく、感情表現というのは何時の時代も陣地争いの戦いなのでしょう。
でも本当に感情的に爆発する場面である種の違う次元に魂が飛躍するためには、体や心が触れまくるとろくな事はないと思います。
彼がそうだった訳では決してないのですが、だから、僕は体を「常に」動かしまくる演奏が嫌いなのです。
動かしまくる人で好きな人もいるけど、どういうんだろうな、それは必然性を感じるから不愉快には思えないのだけど。
その必然性とは、「内容が先にあるから、それに従って動いている」風に見えるのと、
「体を動かすことによって表現豊かだということを思わせる」のとの違いだな。
新興宗教のなかには、音楽で煽って、情感の強い信者には、体を痙攣させるようにして信じ込ませてしまうものがありますが、あれは、ロックを聴いて興奮している若者と似ていますが、逆に純粋にロックを聴いて陶酔しているよりは、その裏に邪悪な洗脳の意図があるから、すごくたちがわるい。
座禅の様に何も動かないところに、最高の表現の原泉があるように思います。
でも主義の違いや、趣味の違い、その日の調子悪さ、楽器の状態、様々な障害や違いの中で起こることは、普通に演奏を聴いた感想として出てくるのであって、違和感を感じつつも、怒りの気持ちまではなかなかでてきたりしないし、自分だったらこうやるのにな、程度でその日一日を終えることができるのです。
Pianoでハ長調は難しい、「猫踏んじゃった」は簡単@ちょっとした事なんだけどね - 2011.09.01 Thu,12:45
あの曲のほとんどが黒鍵を使う曲だ。
譜面にしたら#にせよ♭にせよ、6つもついている曲だ。
あれをハ長調で弾けと言われたらほとんどの人が弾けないだろう。
何故か。
pianoを弾くとき、全部白鍵よりデコボコしていて目印がはっきりしている黒鍵を捕まえる方が絶対に楽だからだ。
電卓もtouchするだけの物より出っ張っているbuttonの方が打ちやすいのと同じだ。
かのChopinが初心者の弟子に音階を初め弾かせる時、ハ長調では無くロ長調やホ長調を弾かせたという。
試せば解るがロ長調だと何処で指をくぐらせば良いかが非常に明快なので始まった指と同じ音に戻って来た時にハ長調でありがちな違う指になってしまうということがないのと、くぐらすのも黒鍵の下を親指が通るので高さにも余裕があるし長い指が黒い鍵盤に乗るのも白鍵より構えた指の形が綺麗になる。
目をつむって弾いても黒鍵のありかがよく解るし同じ事を白鍵でやると一回ずれたらみんな同じ形なので混乱する。
目で楽譜を読もうとするのと実際に手が鍵盤と仲良くするのとは違うという事だね。
オヤジの為の教則本で全ての曲がハ長調になっているものもあるが、あれは如何なものかと思う。
耳で音を聴きながら演奏する事を優先したら黒鍵と仲良くなったほうが楽にpianoを弾く事が出来ると思いますよ。
以下の写真は全く本文には関係ありませんが、羊と聞くとだいたい白いけど、この子は白じゃないから、まあ白鍵より黒鍵という話題だったから無理矢理関連づけてください(爆)

Carl PilssのTrumpet Sonataは本当に美しいと思う。 - 2011.02.04 Fri,20:54
この間新宿御苑で、撮ったやつより小ぶりでした。
ここ二回自転車で通ったこの場所からは1/31も今日も富士山が見えませんでした。
今日お寺で練習してて思った。
本当にピルスのトランペットソナタは美しい。
(三楽章も良いし僕は結構弾いたけど、今日は1楽章だったのだけど、最高です。)
http://www.youtube.com/watch?v=3ew5YDHwIR0
こういう曲を書けたらいいなあ。
このYouTubeのピアノの人よりかなり情熱的に弾く自信があるよ(爆)
Trumpetもきっと僕の好きな友人達の方がもうちょっと情熱的に吹いてくれると思うなあ。
今なら、Musicalで知り合ったJazz系の人たちとやってみたいな。
もっとこう、なんというか、バトルな感じな曲だと思うのだけど、、、。
今回は学生さんと発表会で弾くんだけどね、、、。
エワイゼンとかピルスとか、学生時代は全然知らなかったレパートリーです。
あ、エワイゼンのソナタは、まだその頃存在してなかったかも。

ディーヴァという言葉 - 2010.12.24 Fri,08:39

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1776843.htmlに解説されているようにすばらしいプリ・マドンナ(この言葉も分からなかったら、ここをクリック)のことを言うようです。
先月末から今月上旬まで大阪に滞在中、コインランドリーで洗濯していたら偶然このようなパチンコ屋があったので、このことを思い出しました(爆)
洗濯中には鳩を撮していたなあ。
そして、このそばには、こんな居酒屋もありました。
3/4と6/8拍子の違いを説明しろというなら、 - 2010.10.22 Fri,10:36
前者が、3/4拍子、後者が、6/8ということだ(爆)
昔はストレートプレイでもピットでオーケストラが劇音楽を演奏していたわけか。 - 2010.09.16 Thu,08:34

最近は小さい編成が多かったけど、昨日はオーケストラでした。
メンバーはいろいろな場所で会った人たちがあちこちにいてちょっと楽しかった。
僕らが一曲録音した後は、東京混声合唱団の人たちが待っていたので、きっとそれに合わせて歌を重ねて録音したことでしょう。
でも、この記事の話題にしたいことは、そのことではなくて、考えてみたらビゼーの“アルルの女”も、グリークの“ペール・ギュント”も、今では組曲版が演奏されているわけだけど、もともとは、演劇の付帯音楽だったわけです。
本当にそうだったのかと、今日池辺さんに訊いてみたらやっぱり、当時は今のように「録音されたものが劇場に流れる」というわけに行かなかったので、あの編成の音楽がですよ、オペラやバレエでもないのに、普通の芝居をやっているのにオーケストラ・ピットがあって、演奏していたらしく、今思えば、ずいぶん贅沢だったと思います。
現代の演劇では、まずそんなことは数人の楽士が演奏することはあっても(かつて渋谷のジァンジァンで連続上演をしていて僕もファンだったシェイクスピア・シアターでは、いつも数人のロックバンドがあの狭い舞台に居て、シェイクスピアの作品をやっていたし、僕もハンナのかばんという芝居ではヴァイオリンと二人で弾いていたことがあるけど)、オーケストラ・ピットで演奏するということはないでしょう。
そういう意味じゃ、僕は思い返すに、学生の頃、ソフォクレスの「オイディプス王」とか、楢山節考とか、ハウプトマンが原作で泉鏡花が翻案した「沈鐘」とか太宰治の「奉教人の死」とかの作品をMusicalではないけれども、生演奏で上演していたわけで、ある意味貴重な体験をしていたとは帰りながら思っていました。
まあきっとそれは今の作曲に少しは役に立っているけど全然スタイルが違うので、もうあの音楽を復元することは不可能だけど、ちゃんと録音しておけばよかったなとは思います。
「沈鐘」は元々モーリス・ラヴェルが晩年オペラにしようと試みていた(ラヴェルが好みそうなかなりファンタジーに富んだ話、最近のCGの技術で映画にしたらいいのに)のですが、病気で叶わなかった作品と知り、僕は結構登場人物に歌わせたりしていたので、もちろん、僕がやるとかなりちゃらいものではありますが、人知れずラヴェルへのオマージュではあったことも合わせて思いだした。
そこで作ったある曲のモティーフは、「ノジーフ物語」に流用したんだ。
このことを思い出したから今頃、なんで12年も前の事かとおもうでしょうが、ノジーフ物語の記事をしたためたのです。
普通は音がでかすぎると言われるんだけど(爆) - 2007.09.16 Sun,12:20

どうもクラシック系の演奏をしているとマイクを通して舞台で弾くことにアレルギーがあるものだから、そういう指示を読み飛ばしちゃうんだよな。
でも僕は幸運なことにMusicalの仕事を若い頃からやってきたから免疫がついているから、この指示を「敗北感」をもって受け入れることはしないで済む(でも自分を始め誰もきづいてなかったじゃん(爆))し、やっぱりでかい音がこの曲では要求されるのですよ。
しかしかつて「生の音で大丈夫」と過信してやっぱり沈没したことがあります。
打楽器奏者の山本晶子ちゃんのリサイタルで、ササスという人の書いた、「マトルズダンス」という太鼓とピアノのすごいバトルみたいな曲もこちとらベーゼンドルファーのでかいモデルだから大丈夫だとおもったら全然だめでした。
やっぱり作曲家(これはササスの作品)がこういうこと(↓)を書いているのはちゃんと言うことを聴くべきだと痛感したことを思い出しました。

話を元に戻します。
今回の演奏会は三カ所の位置で弾くことになりそうで、三カ所とも使う訳じゃないけど、向きや蓋のことやなんかもあって前よりはリフスの最後でピアノが埋もれないように(始まってしばらくするソロだって同じことだし、逆に聞こえてないはずの音まで聞こえる可能性があるから(爆)過酷かもしれない。)しないとね。
今回僕と一緒にゲストとして参加する越智順子さん(ヴォーカル)、則竹裕之さん(ドラム)は数年前に京都市交響楽団と関西でVivaバーンスタインというコンサート(もう情報はないと思ったら今日時点ではここにあった)でご一緒して以来で、越智さんのヴォーカルは最高にご機嫌だし則竹さんとはこのリフスを前回シエナでツアーをし、(パソコンや携帯の場合PCサイトビューワーで見たときに見ることのできるこのページの左側にの看板にもある)CD(ブラスの祭典2)を入れたときからのおつきあいで興奮してます。
そして佐渡裕ちゃんとシエナのみなさんとまた楽しい思い出を作ることを楽しみに今日もリハーサルに出かけます。
明日はDVD録画がライブで入ります。
前回の同じ曲での共演のCDはこれでした。
![]() | ブラスの祭典(2) (2002/06/26) 佐渡裕&シエナ・ウインド・オーケストラ 商品詳細を見る |
興味のある方はどうぞ、ここ経由(爆)で買ってください。
プーランク先生へ - 2006.12.01 Fri,13:18
プーランク先生。譜面を見ていても思いましたが、先生は実際にとても手の大きい方だったのですね。

陽気な歌の「運命の女神への祈り」(譜例1)の最初の教会の鐘の音のような和音も先生は軽々と届いてしまう訳ですが、東洋人の僕の手ではなかなかつらいし、だからといってアルペッジョだと感じが変わってしまいますね。もちろんそこだけでなく、結構あちこちに跳躍する先生の書かれたパッセージは耳で聴くと心地良いけれどもなかなかつかむのには苦労させられます。
そして先生の譜面には、他にもピアニストを一瞬困惑に誘う罠(笑)がときどきしかけてありますね。その罠とは、独特のペダリングの指示です。
ピアノが持つ表現手段の重要な兵器であるダンパーペダルは、その重要性にもかかわらず、作曲家によるその操作指示が、音符などの情報に比べて「譜面に具体的には書かれていない」ことが多いのは周知の事実であります。ペダルの趣味は特殊奏法を除き、女性の化粧のごとく演奏家の「センス」に任せられていることが常識としてあるからです。
その「常識」を覆すような指示を先生はするときがありますね。

(譜例2@冷気と火の4曲目)これは一例ですが、明らかにこのペダルの指示は僕を驚愕させました。なぜならばペダルは通常、コードが変わったら踏み変えるのが常識であり、とくにこのような左手の音域でかつ細かく動いているのに先生は「あえて濁らせること」を要求しているからです。
しかしこういう「濁り」に聞こえそうなものが、「先生の色彩」と感じられる(しぶしぶ納得できる?)ようになったのは、先生自身の演奏を聴いてみてからです。
ピアニスト・プーランク先生の、僕にとって特徴的に聞こえる部分は、やはり譜面と同様、ペダルの使い方です。
譜面にも言葉で「ペダルで十分につつんで」ということを良くご指示されていますしそれが「プーランク節」醸し出す重要な要素でもあると思いますが、実際の演奏において譜面に指示している場所以外にもペダルは多めに使っているなあ、と思うことはありますね。
それが、おもしろいことに、わざわざ「ペダルなしで」とご自分で書いてあるのに、踏んじゃっていることがありますものね。(笑)譜例3(陽気な歌の第一曲の冒頭)

揚げ足をとるつもりではありませんが、こういうのを聴くと、『言行不一致』で当惑しないわけではありませんが、作曲家の書いた譜面の意味するものが、「強制」ではないことの素朴な例になるとおもい、なにか、陥りがちな原理主義の呪縛から解かれるようなほほえましい気分になります。
かなり、不遜ですが自分自身の直感的な趣味から言うと、どうもこの曲の先生のペダリングは感心しませんが、こういうところの先生の癖が音楽の全体像に反映していて、先生の音楽全体の「響き」の原点でもあるような実感をもちました。
これは、ショパンやモーツァルトの即興的なパッセージを彼らが、ひょっとしてそのたびに違えたのではないか、実際の演奏を聴いてみたいとおもっても出来ないことに比べれば、とてもありがたいサンプルです。
そして先生の音楽にはときどき、脱兎にターボをつけたような早い曲がありますね。これはひょっとして速度記号が二倍間違えているのではないかとおもっていたこともありましたが、先生は、「本気」で、スピード狂だったことはわかりました。でも、お弾きになれるテンポで演奏されればよいのに、ああ、どうしちゃったの?ていうくらい猛烈にはじけていらっしゃいますね。でもこういうのとても好きです。気持ちはとてもつたわりますから、、、
今回編集部からお借りした資料で、ご自分以外の作曲家の作品の演奏も今回初めて聴いてみましたが、フォーレの歌曲やグノーの歌曲なんかも圧巻ですね。
無駄なことはしていないのだけど、すごく「内容」を語っていてとても気持ちいいです。もっと先生の演奏を聴いてみたい気持ちが膨らんだのと、またいろいろな作品を弾いてみたくなりました。
ハイドンとモーツァルトのアイデアの類似性・違い - 2006.11.24 Fri,08:27

かつてモーツァルトとクレメンティのテーマの類似性についてちょっととりあげたことがあります。
今回の投稿は「パチものとか、あまりに似てるよ」といって笑い飛ばすものとは次元が全然違うのだけど、昨日トランペットの人とハイドンを合わせていて二小節目の二番目の音は「拍の裏側にある音」だから無神経にアクセントをつけないようにしましょう、とアドヴァイスをしたあとで、今度は別の人の連弾のレッスンになり、モーツァルトの初期のソナタを弾き出した途端、「同じ“箇所”で同じ指摘をしないといけない」と思った途端、「あ、この二つのテーマは最初の二小節はまったく同じリズムじゃん」と気付きました。
しかもモティーフ両方とも装飾的な音をそぎ落として見れば結果的には単純な音階を登っていくというアイデアです。
それは譜例の下に掲示した「骨格」というのを見れば一目瞭然です。
モーツァルトはさらに、冒頭でオクターブ落下しますが、いうならば「階段を一気に四段や五段飛ばし」で下りています。
力学的に考えれば下降というのは引力に従っているので時間がかからないが、登りはいろは坂のように螺旋を描きながら一段一段時間をかけて登るざるを得ない」みたいな様相を呈しているのが、このアルペジオと音階で一オクターブの範囲にある音をただなぞっているように見えてアイデアが面白いと思うのです。
ハイドンも、なんだかお城か塔の階段を登り始めて三段あがったところで双眼鏡を忘れたことに気付き、一旦戻って(でもやっぱり下がるときはモーツァルトと同じで引力が働いているがごとく一気に六段飛ばしで降りた(爆))また登り始めるけど一番上まで行ったら背が低すぎて景色が見えないからちょっとジャンプしてみたけどあと二段足りない(爆)から着地したのはシのフラットって感じかな。
偶然の類似性をちょっと楽しんだ午後でした。