普通は音がでかすぎると言われるんだけど(爆)
2007-09-16
明日から始まる佐渡裕+シエナ・ウィンドオーケストラの演奏会で僕が参加するうちの一曲、バーンスタインのリフスなんだけど、前回やったときは、配置の関係で会場によって違ったかもしれないけどピアノの蓋を取り除いて弾いたせいもあるし、最後の一ページくらいになるともう、回りのブラスの音の迫力に完全に沈没していてほとんど聞こえない状態だったので、なんとかならないかなと思っていたら、譜面には実は「マイクをつけろ」と書いてある(クリックすると拡大します)ことに今頃気づきました(爆)どうもクラシック系の演奏をしているとマイクを通して舞台で弾くことにアレルギーがあるものだから、そういう指示を読み飛ばしちゃうんだよな。
でも僕は幸運なことにMusicalの仕事を若い頃からやってきたから免疫がついているから、この指示を「敗北感」をもって受け入れることはしないで済む(でも自分を始め誰もきづいてなかったじゃん(爆))し、やっぱりでかい音がこの曲では要求されるのですよ。
しかしかつて「生の音で大丈夫」と過信してやっぱり沈没したことがあります。
打楽器奏者の山本晶子ちゃんのリサイタルで、ササスという人の書いた、「マトルズダンス」という太鼓とピアノのすごいバトルみたいな曲もこちとらベーゼンドルファーのでかいモデルだから大丈夫だとおもったら全然だめでした。
やっぱり作曲家(これはササスの作品)がこういうこと(↓)を書いているのはちゃんと言うことを聴くべきだと痛感したことを思い出しました。

話を元に戻します。
今回の演奏会は三カ所の位置で弾くことになりそうで、三カ所とも使う訳じゃないけど、向きや蓋のことやなんかもあって前よりはリフスの最後でピアノが埋もれないように(始まってしばらくするソロだって同じことだし、逆に聞こえてないはずの音まで聞こえる可能性があるから(爆)過酷かもしれない。)しないとね。
今回僕と一緒にゲストとして参加する越智順子さん(ヴォーカル)、則竹裕之さん(ドラム)は数年前に京都市交響楽団と関西でVivaバーンスタインというコンサート(もう情報はないと思ったら今日時点ではここにあった)でご一緒して以来で、越智さんのヴォーカルは最高にご機嫌だし則竹さんとはこのリフスを前回シエナでツアーをし、(パソコンや携帯の場合PCサイトビューワーで見たときに見ることのできるこのページの左側にの看板にもある)CD(ブラスの祭典2)を入れたときからのおつきあいで興奮してます。
そして佐渡裕ちゃんとシエナのみなさんとまた楽しい思い出を作ることを楽しみに今日もリハーサルに出かけます。
明日はDVD録画がライブで入ります。
前回の同じ曲での共演のCDはこれでした。
![]() | ブラスの祭典(2) (2002/06/26) 佐渡裕&シエナ・ウインド・オーケストラ 商品詳細を見る |
興味のある方はどうぞ、ここ経由(爆)で買ってください。
プーランク先生へ
2006-12-01
これはかつて音楽之友社のレコード芸術という雑誌の1999/4月号(たぶんプーランク生誕100周年の記念記事)の原稿として書いた物である。
プーランク先生。譜面を見ていても思いましたが、先生は実際にとても手の大きい方だったのですね。

陽気な歌の「運命の女神への祈り」(譜例1)の最初の教会の鐘の音のような和音も先生は軽々と届いてしまう訳ですが、東洋人の僕の手ではなかなかつらいし、だからといってアルペッジョだと感じが変わってしまいますね。もちろんそこだけでなく、結構あちこちに跳躍する先生の書かれたパッセージは耳で聴くと心地良いけれどもなかなかつかむのには苦労させられます。
そして先生の譜面には、他にもピアニストを一瞬困惑に誘う罠(笑)がときどきしかけてありますね。その罠とは、独特のペダリングの指示です。
ピアノが持つ表現手段の重要な兵器であるダンパーペダルは、その重要性にもかかわらず、作曲家によるその操作指示が、音符などの情報に比べて「譜面に具体的には書かれていない」ことが多いのは周知の事実であります。ペダルの趣味は特殊奏法を除き、女性の化粧のごとく演奏家の「センス」に任せられていることが常識としてあるからです。
その「常識」を覆すような指示を先生はするときがありますね。

(譜例2@冷気と火の4曲目)これは一例ですが、明らかにこのペダルの指示は僕を驚愕させました。なぜならばペダルは通常、コードが変わったら踏み変えるのが常識であり、とくにこのような左手の音域でかつ細かく動いているのに先生は「あえて濁らせること」を要求しているからです。
しかしこういう「濁り」に聞こえそうなものが、「先生の色彩」と感じられる(しぶしぶ納得できる?)ようになったのは、先生自身の演奏を聴いてみてからです。
ピアニスト・プーランク先生の、僕にとって特徴的に聞こえる部分は、やはり譜面と同様、ペダルの使い方です。
譜面にも言葉で「ペダルで十分につつんで」ということを良くご指示されていますしそれが「プーランク節」醸し出す重要な要素でもあると思いますが、実際の演奏において譜面に指示している場所以外にもペダルは多めに使っているなあ、と思うことはありますね。
それが、おもしろいことに、わざわざ「ペダルなしで」とご自分で書いてあるのに、踏んじゃっていることがありますものね。(笑)譜例3(陽気な歌の第一曲の冒頭)

揚げ足をとるつもりではありませんが、こういうのを聴くと、『言行不一致』で当惑しないわけではありませんが、作曲家の書いた譜面の意味するものが、「強制」ではないことの素朴な例になるとおもい、なにか、陥りがちな原理主義の呪縛から解かれるようなほほえましい気分になります。
かなり、不遜ですが自分自身の直感的な趣味から言うと、どうもこの曲の先生のペダリングは感心しませんが、こういうところの先生の癖が音楽の全体像に反映していて、先生の音楽全体の「響き」の原点でもあるような実感をもちました。
これは、ショパンやモーツァルトの即興的なパッセージを彼らが、ひょっとしてそのたびに違えたのではないか、実際の演奏を聴いてみたいとおもっても出来ないことに比べれば、とてもありがたいサンプルです。
そして先生の音楽にはときどき、脱兎にターボをつけたような早い曲がありますね。これはひょっとして速度記号が二倍間違えているのではないかとおもっていたこともありましたが、先生は、「本気」で、スピード狂だったことはわかりました。でも、お弾きになれるテンポで演奏されればよいのに、ああ、どうしちゃったの?ていうくらい猛烈にはじけていらっしゃいますね。でもこういうのとても好きです。気持ちはとてもつたわりますから、、、
今回編集部からお借りした資料で、ご自分以外の作曲家の作品の演奏も今回初めて聴いてみましたが、フォーレの歌曲やグノーの歌曲なんかも圧巻ですね。
無駄なことはしていないのだけど、すごく「内容」を語っていてとても気持ちいいです。もっと先生の演奏を聴いてみたい気持ちが膨らんだのと、またいろいろな作品を弾いてみたくなりました。
プーランク先生。譜面を見ていても思いましたが、先生は実際にとても手の大きい方だったのですね。

陽気な歌の「運命の女神への祈り」(譜例1)の最初の教会の鐘の音のような和音も先生は軽々と届いてしまう訳ですが、東洋人の僕の手ではなかなかつらいし、だからといってアルペッジョだと感じが変わってしまいますね。もちろんそこだけでなく、結構あちこちに跳躍する先生の書かれたパッセージは耳で聴くと心地良いけれどもなかなかつかむのには苦労させられます。
そして先生の譜面には、他にもピアニストを一瞬困惑に誘う罠(笑)がときどきしかけてありますね。その罠とは、独特のペダリングの指示です。
ピアノが持つ表現手段の重要な兵器であるダンパーペダルは、その重要性にもかかわらず、作曲家によるその操作指示が、音符などの情報に比べて「譜面に具体的には書かれていない」ことが多いのは周知の事実であります。ペダルの趣味は特殊奏法を除き、女性の化粧のごとく演奏家の「センス」に任せられていることが常識としてあるからです。
その「常識」を覆すような指示を先生はするときがありますね。

(譜例2@冷気と火の4曲目)これは一例ですが、明らかにこのペダルの指示は僕を驚愕させました。なぜならばペダルは通常、コードが変わったら踏み変えるのが常識であり、とくにこのような左手の音域でかつ細かく動いているのに先生は「あえて濁らせること」を要求しているからです。
しかしこういう「濁り」に聞こえそうなものが、「先生の色彩」と感じられる(しぶしぶ納得できる?)ようになったのは、先生自身の演奏を聴いてみてからです。
ピアニスト・プーランク先生の、僕にとって特徴的に聞こえる部分は、やはり譜面と同様、ペダルの使い方です。
譜面にも言葉で「ペダルで十分につつんで」ということを良くご指示されていますしそれが「プーランク節」醸し出す重要な要素でもあると思いますが、実際の演奏において譜面に指示している場所以外にもペダルは多めに使っているなあ、と思うことはありますね。
それが、おもしろいことに、わざわざ「ペダルなしで」とご自分で書いてあるのに、踏んじゃっていることがありますものね。(笑)譜例3(陽気な歌の第一曲の冒頭)

揚げ足をとるつもりではありませんが、こういうのを聴くと、『言行不一致』で当惑しないわけではありませんが、作曲家の書いた譜面の意味するものが、「強制」ではないことの素朴な例になるとおもい、なにか、陥りがちな原理主義の呪縛から解かれるようなほほえましい気分になります。
かなり、不遜ですが自分自身の直感的な趣味から言うと、どうもこの曲の先生のペダリングは感心しませんが、こういうところの先生の癖が音楽の全体像に反映していて、先生の音楽全体の「響き」の原点でもあるような実感をもちました。
これは、ショパンやモーツァルトの即興的なパッセージを彼らが、ひょっとしてそのたびに違えたのではないか、実際の演奏を聴いてみたいとおもっても出来ないことに比べれば、とてもありがたいサンプルです。
そして先生の音楽にはときどき、脱兎にターボをつけたような早い曲がありますね。これはひょっとして速度記号が二倍間違えているのではないかとおもっていたこともありましたが、先生は、「本気」で、スピード狂だったことはわかりました。でも、お弾きになれるテンポで演奏されればよいのに、ああ、どうしちゃったの?ていうくらい猛烈にはじけていらっしゃいますね。でもこういうのとても好きです。気持ちはとてもつたわりますから、、、
今回編集部からお借りした資料で、ご自分以外の作曲家の作品の演奏も今回初めて聴いてみましたが、フォーレの歌曲やグノーの歌曲なんかも圧巻ですね。
無駄なことはしていないのだけど、すごく「内容」を語っていてとても気持ちいいです。もっと先生の演奏を聴いてみたい気持ちが膨らんだのと、またいろいろな作品を弾いてみたくなりました。
ハイドンとモーツァルトのアイデアの類似性・違い
2006-11-24

かつてモーツァルトとクレメンティのテーマの類似性についてちょっととりあげたことがあります。
今回の投稿は「パチものとか、あまりに似てるよ」といって笑い飛ばすものとは次元が全然違うのだけど、昨日トランペットの人とハイドンを合わせていて二小節目の二番目の音は「拍の裏側にある音」だから無神経にアクセントをつけないようにしましょう、とアドヴァイスをしたあとで、今度は別の人の連弾のレッスンになり、モーツァルトの初期のソナタを弾き出した途端、「同じ“箇所”で同じ指摘をしないといけない」と思った途端、「あ、この二つのテーマは最初の二小節はまったく同じリズムじゃん」と気付きました。
しかもモティーフ両方とも装飾的な音をそぎ落として見れば結果的には単純な音階を登っていくというアイデアです。
それは譜例の下に掲示した「骨格」というのを見れば一目瞭然です。
モーツァルトはさらに、冒頭でオクターブ落下しますが、いうならば「階段を一気に四段や五段飛ばし」で下りています。
力学的に考えれば下降というのは引力に従っているので時間がかからないが、登りはいろは坂のように螺旋を描きながら一段一段時間をかけて登るざるを得ない」みたいな様相を呈しているのが、このアルペジオと音階で一オクターブの範囲にある音をただなぞっているように見えてアイデアが面白いと思うのです。
ハイドンも、なんだかお城か塔の階段を登り始めて三段あがったところで双眼鏡を忘れたことに気付き、一旦戻って(でもやっぱり下がるときはモーツァルトと同じで引力が働いているがごとく一気に六段飛ばしで降りた(爆))また登り始めるけど一番上まで行ったら背が低すぎて景色が見えないからちょっとジャンプしてみたけどあと二段足りない(爆)から着地したのはシのフラットって感じかな。
偶然の類似性をちょっと楽しんだ午後でした。
サルビアの替え歌
2006-04-07
中田喜直さんが書いた有名な歌曲にサルビアというのがある。
「サルビアは赤い花だわ、その花は血の色だわ」と始まる、堀内幸枝さんという人の詩に基づくもので、なんか女の人の情念をぶちまけたようなすごい(これは聴いたことのあるひとは分かるだろう)曲です。
明日自分の主宰する大人達の発表会でそれを演奏する人(ピアノの人だけど伴奏がけっこう最初から緊張するパッセージがある)がいて、どうも緊張して練習すればいいのに、今日春物のコートを気分転換に洗ってしわくちゃになったらしいので、慰める意味で、替え歌をつくって差し上げました。(爆)
所々オリジナルも入っているところが良いのだ(爆)
「サルビアは赤い花だわ、その花は血の色だわ」と始まる、堀内幸枝さんという人の詩に基づくもので、なんか女の人の情念をぶちまけたようなすごい(これは聴いたことのあるひとは分かるだろう)曲です。
明日自分の主宰する大人達の発表会でそれを演奏する人(ピアノの人だけど伴奏がけっこう最初から緊張するパッセージがある)がいて、どうも緊張して練習すればいいのに、今日春物のコートを気分転換に洗ってしわくちゃになったらしいので、慰める意味で、替え歌をつくって差し上げました。(爆)
所々オリジナルも入っているところが良いのだ(爆)
ヘミオラについて
2006-04-04
たまたま2000年に行ったコンサートのトークのなかでこの用語がでてきたので、当時websiteの別のページに投稿した文章を少々加筆訂正し、ここに移植します。
ヘミオラとは拍子が一瞬トリッキーに変化したように感ずる書かれ方の事です。
これを説明するには、六拍子と三拍子の違いを理解してもらう事が必要です。
6と言う数字には公約数は2と3がありますね。
ですから、音符が6つ連なったら、下のように音符を3つを2つのグループに分けたり、2つを3つのグループに分けることができます。
前者が六拍子、後者が三拍子です。
例1

1小節あたりの音符の総数は同じなのに、アクセントの位置が変わると聞こえ方が全然違います。
同じ間隔の六つの音符を手拍子を打って頂いたら一目瞭然(一聴瞭然か)ですが、字義通り音符二つごとにアクセントをつけたら三拍子(例1の譜面の後ろの例)ですが、三つごとにアクセントをつけたら二拍子(例1の譜面の前の例)と感じるはずです。
三拍子と六拍子の違い、と問われたら、六拍子は三拍子の二倍というのではなく、一つの小節の中の分割のしかたの違いに着目しなければいけません。
だから曲の中で六拍子と三拍子が連続して混在するととても変化に富んだ感じになります。
そういうのが曲の「顔」になっているのが、バーンスタインの作曲したWestside Storyのなかのアメリカという曲です。
聴いてみて下さい。
ヘミオラが大好きだった作曲家の1人にバッハと同時代に活躍したヘンデルという人がいます。
彼の書いた古典的な名曲、オンブラマイフという歌の曲の一部を例に挙げましょう。
(記譜をわかりやすくする都合上ハ長調に移調してあります。)
問題のヘミオラは曲の途中(ヘンデルの場合、だいたいフレーズの最後で終始する直前に表れることが多い)を引用しましたが、その例の4小節目と5小節目に現れています。
記譜上はすべて四分の三拍子で書かれていますが、実際にリズムの特徴として耳に聞こえるのは、下の例3の様になります。
つまりヘミオラという言葉は、ギリシャ語の1.5と言うことらしいのですが、その意味が良く分かるでしょう。
二小節で大きい三拍子になるわけです。
例2

例3

譜面が読めない人はここまでの説明でも分からないかもしれません。
実際にあったヘミオラ三昧(爆)の例です。
僕の大学時代の、伝統芸能がご専門の恩師が参加した日韓合同のある研究会で起きたことです。
懇親会になり、盛り上がってきたころ、おのおののお国の歌を披露することになりました。
日本の先生たちはソーラン節を歌い、みんなで手拍子になりました。
この場合、二拍子ごとに手を打てばいいし、それが日本音楽の特質だから問題はありませんでした。
しかし韓国の先生たちはアリランを歌いました。
ちなみにこれは三拍子です。
日本は基本的には三拍子の音楽を持っていない文化なので、酔っている日本の先生たち(音楽の専門家じゃないですから)は、まさか三拍子をは思わず、「予想外の拍子の音楽が目の前で歌われていること」を知らず、いつもの調子(音楽はすべて二拍子なのだ(爆))で手拍子をしています。
三拍子の音楽に二拍子で手を打つというのは、どういうことかというと、例3の矢印状態ですね。
だから三拍子の一小節目の一拍目、三拍目、そして二小節目の二拍目となかなか技術的に高度な(爆)な拍子の取り方をしてしまっているわけです。
手拍子を打ちながら「何かおかしいぞ」と思っていても三小節目にはまた拍の頭で打つことになり、「あ、やっぱり合っていたんだ」となることの繰り返しでいつのまにか曲が終わったそうです。(爆)
まあ酔っているしねえ(^_^;)
最初から最後まで歌自体は三拍子、手拍子はその間を縫って二拍子、しかし、実際に聞こえたのは二小節ごとの三拍子の手拍子、ああ、言葉で書くとどんどんわからなくなりましたかね、、、(爆)
しかし歌っていらっしゃった韓国の先生達は実にやりにくかったとおもいます(爆)
ヘンデルでもなく、アリランでもなく、昨今女性のなかでブームになっているフラメンコなんかのリズムは完全にそういうヘミオラ(とはあのジャンルでは呼ばないだろうが)満載の12拍子がかなり基本的なものになっていますね。
「たーんたたん、たーんたたん、たんたた、たんたた、たんたた」というやつがまさにそうです。(爆)
あと、バッハのインヴェンションの4番にもヘミオラは絶妙に使われています。
ほかにも様々な時代の音楽にこれは重要なスパイスとして使われていることが多いです。
2000/1/23と25に白石 准がコンサートで取り上げたカール・フィリップ・エマニュエル・バッハのソナタの一楽章のある部分では、めずらしいヘミオラの例があります。
前に引用した例から、ヘミオラというのは三拍子系の音楽にのみでてくると思ってはいけません。
次の例では、6という数字の公約数ではなく、12という数字から二拍子(四拍子と考えても良いと思いますが)と三拍子を混在させた、これも一種のヘミオラと言ってもいいのかなと思います。
実際の曲の音を書くと、楽譜に慣れていない方には理解するのがややこしいことになるので、そのメカニズムを簡単にするためにアクセントの在処を二種類の音の高さだけで記譜してみました。
例4では、普通に八分音符が四小節続いているあとに、いきなり音符のくくりが三つづつになっている小節が三小節続きます。
この例ではわかりにくいけど、耳には例5の様に聞こえてしまいます。
つまり二拍子では三小節の出来事だけど、実質的には三拍子が四小節続いたように聞こえると言うことです。
このおかげでこの部分はとても意外で新鮮な表情を醸し出しています。
例4

例5

ということで、今日はヘミオラという音楽用語について触れてみました。
ヘミオラとは拍子が一瞬トリッキーに変化したように感ずる書かれ方の事です。
これを説明するには、六拍子と三拍子の違いを理解してもらう事が必要です。
6と言う数字には公約数は2と3がありますね。
ですから、音符が6つ連なったら、下のように音符を3つを2つのグループに分けたり、2つを3つのグループに分けることができます。
前者が六拍子、後者が三拍子です。
例1

1小節あたりの音符の総数は同じなのに、アクセントの位置が変わると聞こえ方が全然違います。
同じ間隔の六つの音符を手拍子を打って頂いたら一目瞭然(一聴瞭然か)ですが、字義通り音符二つごとにアクセントをつけたら三拍子(例1の譜面の後ろの例)ですが、三つごとにアクセントをつけたら二拍子(例1の譜面の前の例)と感じるはずです。
三拍子と六拍子の違い、と問われたら、六拍子は三拍子の二倍というのではなく、一つの小節の中の分割のしかたの違いに着目しなければいけません。
だから曲の中で六拍子と三拍子が連続して混在するととても変化に富んだ感じになります。
そういうのが曲の「顔」になっているのが、バーンスタインの作曲したWestside Storyのなかのアメリカという曲です。
聴いてみて下さい。
ヘミオラが大好きだった作曲家の1人にバッハと同時代に活躍したヘンデルという人がいます。
彼の書いた古典的な名曲、オンブラマイフという歌の曲の一部を例に挙げましょう。
(記譜をわかりやすくする都合上ハ長調に移調してあります。)
問題のヘミオラは曲の途中(ヘンデルの場合、だいたいフレーズの最後で終始する直前に表れることが多い)を引用しましたが、その例の4小節目と5小節目に現れています。
記譜上はすべて四分の三拍子で書かれていますが、実際にリズムの特徴として耳に聞こえるのは、下の例3の様になります。
つまりヘミオラという言葉は、ギリシャ語の1.5と言うことらしいのですが、その意味が良く分かるでしょう。
二小節で大きい三拍子になるわけです。
(でもこの曲の実状は歌詞の関係(?)と歌い手の慣習でだいたい例2の様譜面通り、つまり5小節目の頭にアクセントがあるように聞こえちゃうことがほとんどなんだけど、僕は後奏の時にこのリズムを強調して弾いちゃったりする(爆))
例2

例3

譜面が読めない人はここまでの説明でも分からないかもしれません。
実際にあったヘミオラ三昧(爆)の例です。
僕の大学時代の、伝統芸能がご専門の恩師が参加した日韓合同のある研究会で起きたことです。
懇親会になり、盛り上がってきたころ、おのおののお国の歌を披露することになりました。
日本の先生たちはソーラン節を歌い、みんなで手拍子になりました。
この場合、二拍子ごとに手を打てばいいし、それが日本音楽の特質だから問題はありませんでした。
しかし韓国の先生たちはアリランを歌いました。
ちなみにこれは三拍子です。
日本は基本的には三拍子の音楽を持っていない文化なので、酔っている日本の先生たち(音楽の専門家じゃないですから)は、まさか三拍子をは思わず、「予想外の拍子の音楽が目の前で歌われていること」を知らず、いつもの調子(音楽はすべて二拍子なのだ(爆))で手拍子をしています。
三拍子の音楽に二拍子で手を打つというのは、どういうことかというと、例3の矢印状態ですね。
だから三拍子の一小節目の一拍目、三拍目、そして二小節目の二拍目となかなか技術的に高度な(爆)な拍子の取り方をしてしまっているわけです。
手拍子を打ちながら「何かおかしいぞ」と思っていても三小節目にはまた拍の頭で打つことになり、「あ、やっぱり合っていたんだ」となることの繰り返しでいつのまにか曲が終わったそうです。(爆)
まあ酔っているしねえ(^_^;)
最初から最後まで歌自体は三拍子、手拍子はその間を縫って二拍子、しかし、実際に聞こえたのは二小節ごとの三拍子の手拍子、ああ、言葉で書くとどんどんわからなくなりましたかね、、、(爆)
しかし歌っていらっしゃった韓国の先生達は実にやりにくかったとおもいます(爆)
ヘンデルでもなく、アリランでもなく、昨今女性のなかでブームになっているフラメンコなんかのリズムは完全にそういうヘミオラ(とはあのジャンルでは呼ばないだろうが)満載の12拍子がかなり基本的なものになっていますね。
「たーんたたん、たーんたたん、たんたた、たんたた、たんたた」というやつがまさにそうです。(爆)
あと、バッハのインヴェンションの4番にもヘミオラは絶妙に使われています。
ほかにも様々な時代の音楽にこれは重要なスパイスとして使われていることが多いです。
2000/1/23と25に白石 准がコンサートで取り上げたカール・フィリップ・エマニュエル・バッハのソナタの一楽章のある部分では、めずらしいヘミオラの例があります。
前に引用した例から、ヘミオラというのは三拍子系の音楽にのみでてくると思ってはいけません。
次の例では、6という数字の公約数ではなく、12という数字から二拍子(四拍子と考えても良いと思いますが)と三拍子を混在させた、これも一種のヘミオラと言ってもいいのかなと思います。
実際の曲の音を書くと、楽譜に慣れていない方には理解するのがややこしいことになるので、そのメカニズムを簡単にするためにアクセントの在処を二種類の音の高さだけで記譜してみました。
例4では、普通に八分音符が四小節続いているあとに、いきなり音符のくくりが三つづつになっている小節が三小節続きます。
この例ではわかりにくいけど、耳には例5の様に聞こえてしまいます。
つまり二拍子では三小節の出来事だけど、実質的には三拍子が四小節続いたように聞こえると言うことです。
このおかげでこの部分はとても意外で新鮮な表情を醸し出しています。
例4

例5

ということで、今日はヘミオラという音楽用語について触れてみました。
ロズモンド
2006-03-29
某友人の日記のページのレスポンスで書いた文章だけど、自分の仕事に直接関係する曲のことなので、ちょっと加筆してこっちにも書いちゃいます。
アポリネールの詩に、いまでいうストーカーと間違われてしまいそうな主人公が登場するものがあります。
アポリネールの詩を沢山歌曲にしたプーランクがやっぱりこれに素敵な音楽を着けています。
Rosemondeという歌曲で、主人公がアムステルダムの運河のところで見つけた美人のあとをずっとついていって、そのうち、彼女を「ロズモンド」と名付けて、彼女が視界から消えたとき投げキスをしてしまうほどです。(爆)
「世界の薔薇」たあ素敵だけど、その行為を見ていた人がいたら今じゃその恋心の詩情を賞賛するのではなく、完全に犯罪一歩手前といわれかねないね。
でもこのしゃれた詩と素敵な音楽はもちろん決して成敗したくなる主人公には描かいてないどころか、映画のワンシーンのようにこの二分にも満たない曲を忘れ難きものにしている。
もともと、恋愛は、追いかけて逃げらるというのがその重要な要素ではあるけど、最近はそれが妙に不健康でときに事件になるから、ちょっと深追いすると事件と断定してしまわれそうで恋愛する人も気の毒だ(爆)
でも綺麗な女性は、風景の一部であるからにして、せっかくおしゃれをしているんだからみてあげた方が良いと思います。
相当綺麗な女の人とすれ違ったらやっぱり振り向くし、電車の中で見かけたらやっぱりちらちら(客観的にはじろじろかもしれんが)みてしまうし、今桜や梅をみつめる気持ちと共通するところは絶対にあるよ。
また弾きたいんだけど、プーランクを歌ってくれる人、特に男性が少ないからなあ。
この歌は女の人に歌って欲しくないし。
何度弾いても飽きません。
アポリネールの詩に、いまでいうストーカーと間違われてしまいそうな主人公が登場するものがあります。
アポリネールの詩を沢山歌曲にしたプーランクがやっぱりこれに素敵な音楽を着けています。
Rosemondeという歌曲で、主人公がアムステルダムの運河のところで見つけた美人のあとをずっとついていって、そのうち、彼女を「ロズモンド」と名付けて、彼女が視界から消えたとき投げキスをしてしまうほどです。(爆)
「世界の薔薇」たあ素敵だけど、その行為を見ていた人がいたら今じゃその恋心の詩情を賞賛するのではなく、完全に犯罪一歩手前といわれかねないね。
でもこのしゃれた詩と素敵な音楽はもちろん決して成敗したくなる主人公には描かいてないどころか、映画のワンシーンのようにこの二分にも満たない曲を忘れ難きものにしている。
もともと、恋愛は、追いかけて逃げらるというのがその重要な要素ではあるけど、最近はそれが妙に不健康でときに事件になるから、ちょっと深追いすると事件と断定してしまわれそうで恋愛する人も気の毒だ(爆)
でも綺麗な女性は、風景の一部であるからにして、せっかくおしゃれをしているんだからみてあげた方が良いと思います。
相当綺麗な女の人とすれ違ったらやっぱり振り向くし、電車の中で見かけたらやっぱりちらちら(客観的にはじろじろかもしれんが)みてしまうし、今桜や梅をみつめる気持ちと共通するところは絶対にあるよ。
また弾きたいんだけど、プーランクを歌ってくれる人、特に男性が少ないからなあ。
この歌は女の人に歌って欲しくないし。
何度弾いても飽きません。
モーツァルト作曲:Kv.231(382c)
2006-03-25
モーツァルトが書いた曲のタイトルで、「俺のケツを舐めろ」というのがある。タイトルは作品番号(K.とか、Kv.というのは作品番号をつけなかったモーツァルトに代わってそれをつけたケッヘルの名前の略)とモーツァルトで検索し、音源を手に入れれば演奏を耳にすることはできるだろう。
まあこの言葉そのものがちょっと品の良い人には受け入れがたいとおもわれるけど、喧嘩で相手を罵倒する汚い表現でこれに似たやつが英語にもあるわけで、たとえば、モーツァルト作曲:カノン「てめえ、この野郎」と書く方が、よく目にするのだけど、不必要に強調されるようなモーツァルトのスカトロ趣味の表れと言われる直訳より、ジョークを素直に受け止められるし、逆に笑えませんかねえ(爆)
本当に言葉の意味そのものなのかなあ。
写真はこの作品の題名の直訳の意味を忠実に再現しようと撮影者に強力を求めている猫のパフォーマンスである。


★10月に幕を開ける

