サルビアの替え歌 - 2006.04.07 Fri,19:26
「サルビアは赤い花だわ、その花は血の色だわ」と始まる、堀内幸枝さんという人の詩に基づくもので、なんか女の人の情念をぶちまけたようなすごい(これは聴いたことのあるひとは分かるだろう)曲です。
明日自分の主宰する大人達の発表会でそれを演奏する人(ピアノの人だけど伴奏がけっこう最初から緊張するパッセージがある)がいて、どうも緊張して練習すればいいのに、今日春物のコートを気分転換に洗ってしわくちゃになったらしいので、慰める意味で、替え歌をつくって差し上げました。(爆)
所々オリジナルも入っているところが良いのだ(爆)
ヘミオラについて - 2006.04.04 Tue,12:43
ヘミオラとは拍子が一瞬トリッキーに変化したように感ずる書かれ方の事です。
これを説明するには、六拍子と三拍子の違いを理解してもらう事が必要です。
6と言う数字には公約数は2と3がありますね。
ですから、音符が6つ連なったら、下のように音符を3つを2つのグループに分けたり、2つを3つのグループに分けることができます。
前者が六拍子、後者が三拍子です。
例1
1小節あたりの音符の総数は同じなのに、アクセントの位置が変わると聞こえ方が全然違います。
同じ間隔の六つの音符を手拍子を打って頂いたら一目瞭然(一聴瞭然か)ですが、字義通り音符二つごとにアクセントをつけたら三拍子(例1の譜面の後ろの例)ですが、三つごとにアクセントをつけたら二拍子(例1の譜面の前の例)と感じるはずです。
三拍子と六拍子の違い、と問われたら、六拍子は三拍子の二倍というのではなく、一つの小節の中の分割のしかたの違いに着目しなければいけません。
だから曲の中で六拍子と三拍子が連続して混在するととても変化に富んだ感じになります。
そういうのが曲の「顔」になっているのが、バーンスタインの作曲したWestside Storyのなかのアメリカという曲です。
聴いてみて下さい。
ヘミオラが大好きだった作曲家の1人にバッハと同時代に活躍したヘンデルという人がいます。
彼の書いた古典的な名曲、オンブラマイフという歌の曲の一部を例に挙げましょう。
(記譜をわかりやすくする都合上ハ長調に移調してあります。)
問題のヘミオラは曲の途中(ヘンデルの場合、だいたいフレーズの最後で終始する直前に表れることが多い)を引用しましたが、その例の4小節目と5小節目に現れています。
記譜上はすべて四分の三拍子で書かれていますが、実際にリズムの特徴として耳に聞こえるのは、下の例3の様になります。
つまりヘミオラという言葉は、ギリシャ語の1.5と言うことらしいのですが、その意味が良く分かるでしょう。
二小節で大きい三拍子になるわけです。
(でもこの曲の実状は歌詞の関係(?)と歌い手の慣習でだいたい例2の様譜面通り、つまり5小節目の頭にアクセントがあるように聞こえちゃうことがほとんどなんだけど、僕は後奏の時にこのリズムを強調して弾いちゃったりする(爆))
例2
例3
譜面が読めない人はここまでの説明でも分からないかもしれません。
実際にあったヘミオラ三昧(爆)の例です。
僕の大学時代の、伝統芸能がご専門の恩師が参加した日韓合同のある研究会で起きたことです。
懇親会になり、盛り上がってきたころ、おのおののお国の歌を披露することになりました。
日本の先生たちはソーラン節を歌い、みんなで手拍子になりました。
この場合、二拍子ごとに手を打てばいいし、それが日本音楽の特質だから問題はありませんでした。
しかし韓国の先生たちはアリランを歌いました。
ちなみにこれは三拍子です。
日本は基本的には三拍子の音楽を持っていない文化なので、酔っている日本の先生たち(音楽の専門家じゃないですから)は、まさか三拍子をは思わず、「予想外の拍子の音楽が目の前で歌われていること」を知らず、いつもの調子(音楽はすべて二拍子なのだ(爆))で手拍子をしています。
三拍子の音楽に二拍子で手を打つというのは、どういうことかというと、例3の矢印状態ですね。
だから三拍子の一小節目の一拍目、三拍目、そして二小節目の二拍目となかなか技術的に高度な(爆)な拍子の取り方をしてしまっているわけです。
手拍子を打ちながら「何かおかしいぞ」と思っていても三小節目にはまた拍の頭で打つことになり、「あ、やっぱり合っていたんだ」となることの繰り返しでいつのまにか曲が終わったそうです。(爆)
まあ酔っているしねえ(^_^;)
最初から最後まで歌自体は三拍子、手拍子はその間を縫って二拍子、しかし、実際に聞こえたのは二小節ごとの三拍子の手拍子、ああ、言葉で書くとどんどんわからなくなりましたかね、、、(爆)
しかし歌っていらっしゃった韓国の先生達は実にやりにくかったとおもいます(爆)
ヘンデルでもなく、アリランでもなく、昨今女性のなかでブームになっているフラメンコなんかのリズムは完全にそういうヘミオラ(とはあのジャンルでは呼ばないだろうが)満載の12拍子がかなり基本的なものになっていますね。
「たーんたたん、たーんたたん、たんたた、たんたた、たんたた」というやつがまさにそうです。(爆)
あと、バッハのインヴェンションの4番にもヘミオラは絶妙に使われています。
ほかにも様々な時代の音楽にこれは重要なスパイスとして使われていることが多いです。
2000/1/23と25に白石 准がコンサートで取り上げたカール・フィリップ・エマニュエル・バッハのソナタの一楽章のある部分では、めずらしいヘミオラの例があります。
前に引用した例から、ヘミオラというのは三拍子系の音楽にのみでてくると思ってはいけません。
次の例では、6という数字の公約数ではなく、12という数字から二拍子(四拍子と考えても良いと思いますが)と三拍子を混在させた、これも一種のヘミオラと言ってもいいのかなと思います。
実際の曲の音を書くと、楽譜に慣れていない方には理解するのがややこしいことになるので、そのメカニズムを簡単にするためにアクセントの在処を二種類の音の高さだけで記譜してみました。
例4では、普通に八分音符が四小節続いているあとに、いきなり音符のくくりが三つづつになっている小節が三小節続きます。
この例ではわかりにくいけど、耳には例5の様に聞こえてしまいます。
つまり二拍子では三小節の出来事だけど、実質的には三拍子が四小節続いたように聞こえると言うことです。
このおかげでこの部分はとても意外で新鮮な表情を醸し出しています。
例4
例5
ということで、今日はヘミオラという音楽用語について触れてみました。
ロズモンド - 2006.03.29 Wed,01:44
アポリネールの詩に、いまでいうストーカーと間違われてしまいそうな主人公が登場するものがあります。
アポリネールの詩を沢山歌曲にしたプーランクがやっぱりこれに素敵な音楽を着けています。
Rosemondeという歌曲で、主人公がアムステルダムの運河のところで見つけた美人のあとをずっとついていって、そのうち、彼女を「ロズモンド」と名付けて、彼女が視界から消えたとき投げキスをしてしまうほどです。(爆)
「世界の薔薇」たあ素敵だけど、その行為を見ていた人がいたら今じゃその恋心の詩情を賞賛するのではなく、完全に犯罪一歩手前といわれかねないね。
でもこのしゃれた詩と素敵な音楽はもちろん決して成敗したくなる主人公には描かいてないどころか、映画のワンシーンのようにこの二分にも満たない曲を忘れ難きものにしている。
もともと、恋愛は、追いかけて逃げらるというのがその重要な要素ではあるけど、最近はそれが妙に不健康でときに事件になるから、ちょっと深追いすると事件と断定してしまわれそうで恋愛する人も気の毒だ(爆)
でも綺麗な女性は、風景の一部であるからにして、せっかくおしゃれをしているんだからみてあげた方が良いと思います。
相当綺麗な女の人とすれ違ったらやっぱり振り向くし、電車の中で見かけたらやっぱりちらちら(客観的にはじろじろかもしれんが)みてしまうし、今桜や梅をみつめる気持ちと共通するところは絶対にあるよ。
また弾きたいんだけど、プーランクを歌ってくれる人、特に男性が少ないからなあ。
この歌は女の人に歌って欲しくないし。
何度弾いても飽きません。
モーツァルト作曲:Kv.231(382c) - 2006.03.25 Sat,08:28
タイトルは作品番号(K.とか、Kv.というのは作品番号をつけなかったモーツァルトに代わってそれをつけたケッヘルの名前の略)とモーツァルトで検索し、音源を手に入れれば演奏を耳にすることはできるだろう。
まあこの言葉そのものがちょっと品の良い人には受け入れがたいとおもわれるけど、喧嘩で相手を罵倒する汚い表現でこれに似たやつが英語にもあるわけで、たとえば、モーツァルト作曲:カノン「てめえ、この野郎」と書く方が、よく目にするのだけど、不必要に強調されるようなモーツァルトのスカトロ趣味の表れと言われる直訳より、ジョークを素直に受け止められるし、逆に笑えませんかねえ(爆)
本当に言葉の意味そのものなのかなあ。
写真はこの作品の題名の直訳の意味を忠実に再現しようと撮影者に強力を求めている猫のパフォーマンスである。
大作曲家の発想を疑うことの重要さ - 2006.03.14 Tue,11:34
普段ほとんど音楽雑誌を買わないのだが、先般オーケストラのリハーサルの時に、自分の出番までちょっと待たされていたので練習所に置いてあった雑誌をめくっていたら彼が書いた曲の分析の記事を目にすることとなった。
トークも面白い彼の文章だから面白くない訳はないのだが、その分析方法、それ自体は音楽を少し専門的に知っている人からすると難しく書いてないのだけど、とっても共感したアプローチがあった。
シューベルトのイ長調のソナタの一楽章についてだったのだけど、彼は、シューベルトの発想したメロディーが如何にユニークなものか、「普通ならこういっちゃうだろう」という仮説に基づいて「常識的な」メロディー(池辺氏の本気の創造物ではないよ、もちろん)を作ってみて「比較」をして説明されている。
それを比べたら明らかにシューベルトの「意外性」がすばらしいことが分かるのだ。
メロディーを見て単純に素敵だなと思うことは大事だけど、もしかしたら「他の可能性があったか」と考えながら音楽をする(おもに練習中だけど)ということも大事だと思います。
すごく幼稚な書き方をすれば最初は台詞に「好き」と書いたかも知れないけど、「嫌い」と書き直したことによって変わる状況、それは文法的に反対の意味になったのではなく言葉として伝わる意味が、より強調されたり、演出面で言えばそれを面と向かって言わせるのと後ろを向いて言わせる違い、それを大声で言うのかそうでないのかで状況はいろいろ変わってくるでしょう。
なぞることしかできない人、こう書くと才能の問題に言及しているようで本意ではなく、なぞることしか考えようとしないひと、と書こうかな、そういう人は、それが如何にすばらしい発想であることより、「そう書いてあるからそう弾いただけ」で終わるのだ。
前述のように芝居で言う棒読みというやつだ。
常日頃、レッスンをしていて、作曲家がしくんだ「罠」について、ほとんどの人が「驚くことさえしてない」状態をみうけ、どうしてこんなに面白く書いてあるのにこの人達は「驚きを伴ってここを弾く」ことをしないのだろうとおもっていた。
そして良く言ってみるのだけど、「一度簡単な曲を作曲してみれば?」と薦めるけど、実践してくれる人は皆無(爆)
なぜそういう事が必要だと思うかという、もっとも良いたとえが、女性が美容院に行ったのに、その変化に誰も気づかないと腹をたてることと同じだからだ。
曲のある箇所のすばらしさ、特に「普通なら単純に解決するだろう」というところを「裏切って」脇道にそれるような転調があったとする。
もしかしたら最初の発想は違ったかも知れないが、この「転調」、あるいはこの「進行」が如何にかっちょいいか、理解するのは自分で書いてみた方が、「気づいてもらったとき」の嬉しい気持ちを持つことができると思うのになあ。
料理の隠し味みたいなものだ。
このメロディーが面白いのはこう出来ているからだという「物の見方」を持ち合わせるには、美容院に行くこと、つまりシステムそのものを疑うこと、つまり、音符をなぞるのではなく、それを自分で並べてみる発想、あるいは前後関係からその表情が求めている物を推理するというものが大事なんだろうなと思うのです。
といいながら、女性の髪の毛は美容院に行ったあとも前もわからないんだけど(爆)、なるべく譜面の機微を読み取るようには鋭意努力して観察しているのです。(汗)
あ、女性についてわからないのは、譜面ほどじっと見つめてないからだ。
だってじろじろみたら怒られそうで怖いし。
まあ髪の毛なんかより綺麗な脚を観る方が人生楽しいから(爆)
ラストテーマ - 2006.02.23 Thu,09:43
こういう場面で流れている音楽をラストテーマというかどうか知らないのだけど、自分がある芝居の音楽を書いたとき、劇中で流れている音楽に比べ、客席の灯りが点いて客が外に出て行く時間を想定しているから「最後の音楽」は実に時間を長く書かなければなりませんでした。
でもそこで腕の見せ所というか、各場面で流れた音楽をミックスしたり、音楽的に「自己紹介」しかできなかったような劇中の音楽は時間があれば「展開」していくことが可能だったりします。
つまりある意味一番「力を入れて書いた音楽」が芝居が終わったあとの音楽だったりするのです。
自分も書いた当初はその規模に手応えを感じ、「一番聴いて欲しい音楽」として本番、客席の上の調整室から「どういう反応だろう」と客席を見ていたら、作曲者の期待とは裏腹に、あっという間に人がいなくなりました。(爆)
そうだよな、映画と違ってテロップも流れないし、映画ならそれを見せるためにまだ音楽がなっている間は暗いのに比べて、芝居だとあっという間に明るくなるし、もともと「客出しの音楽」というつもりで書いているんだし、やっぱり芝居は「終わった」のだからもう客席には誰も用がないわけですな。
これがミュージカルのようにオーケストラ・ピットで生演奏していたら、中には覗き込んで拍手をしてくれる人がいたりするけど、録音って振り向いてもらう力がこういう場合実に弱いのです。
中には映画館のように数人耳を傾けてくれる人もいるかも知れないという期待は打ち砕かれ、無人の客席に最高潮に盛り上がった場面が虚しく鳴り響いているのを確認し、自分のかけた苦労と実際の受け取られ方の違いにすごくショックを感じ、それ以来映画を観るときは最後まで聴くことにしています。(爆)
そうするとやはり音楽的な盛り上がり方が本編のなかではなかったテンションだったりするし、本編では聴けない展開もあります。
でもなかには、最初の録音で予想された長さからテロップの数が伸びてしまい。一旦終わってからまたちがうメロディーでたぶん後から録音したのかなという風にも思える「続編」が続いたりして、内情を想像したりもします。
でも実際は作曲家に悪いけどおしっこしたくて終わるやいなやトイレに駆け込み、そしてすっきりしてまた客席に戻ったりもしていますが。(爆)