シンフォニーの中でピアノ連弾というのもあるのだ - 2013.02.15 Fri,00:22
Plácido Domingo Concert in JAPAN 2011 - 2011.04.11 Mon,13:37


そこはちょうど代々木公園の近くで、代々木体育館の裏手になります。
外で飲んでも良いみたいなので、普段本番前には手の調子がおかしくなる確率が高いので、絶対に飲みませんがcoffeeを頼み(眠くてしょうがなかったからカンフル剤として)外に出てみたら、今見てもなかなか凄いデザインの体育館をみて気持ちよくなってました。
これはたしか1964年当時の建築だよね。

最初の写真以外はclickするとちょっとだけでかくなります。

これから本番なんて嫌だな、このまま夕方まで眠りたいと思いながら、渋谷のど真ん中でこんな事を出来る場所があるというのは(代々木公園まで行けばあるだろうが)知らなかったぞ、と思いました。

さて、本番。
ユージン・コーン(Eugene Kohn)さんの分かりやすい指揮でよかった。元々マリア・カラスなどの伴奏をしてきたPianistの方だそうです。
ドミンゴさんの歌は本当にすばらしい声で、その存在感と表情はすばらしかったし、もう一人、アルゼンチン生まれのヴァージニ・トーラ(Virginia Tola)さんというSopranoもすばらしかった。
曲によって本当に表情が違うし、高い音域のOperaのariaは勿論、二部はMusicalやPopular songが並んでいたけど、低い音域のMusicalの曲もすごく底鳴りをしていて面白かった。
で、アンコールになって僕が出て行くと、Rockのconcertのような指笛、叫び声、拍手の滝でした。。
ものすごい盛り上がりの中終わりました。また13日にSuntory Hallでもあるのだけど、楽しみだ。
5年目だからTrioの名前つけても良いなあ(爆) - 2009.04.29 Wed,22:37

今日は、前半に指揮者の真後ろで二曲(ニュー・シネマ・パラダイス、ある愛の詩)、後半は、下手の奥で一曲以外全曲、ピアノとチェレスタとキーボード(チェンバロのサウンド)の三台を時に一曲の中で連続して乗り換えながら)弾きました。
京響のみなさんとも、いつもよりもコミュニケーションが多くなった気がして楽しくやらせてもらいました。
2005年の初共演以来5年間毎年この日にお会いするリズムセクションで、それこそ5年ぶりに三人で記念撮影してみました(爆)
左からドラムスの江森文男さん、右がベースの大塚功さん。
やっぱり年取ったな(爆)
タイトルにあるように、なんか名前つけてもいいよなあ
今回は配置の関係でこの時みたいに近くで弾けなかったのであまり「共演」している気がしませんでしたが楽しい曲が多かったのでご機嫌でした。
自分が弾かなかった曲ですが、シェルブールの雨傘でヴァイオリンのソロを弾かれていた、この四月からコンサート・マスターに就任された泉原隆志(いずはらたかし)さんのすばらしい演奏に感銘しました。
きっとこの春から京響の女性ファンはもとより、どんどんお客さんが増える予感がしました。
ハンサムで、背が高くてヴァイオリンが上手くて、優しそう(実際お話ししたら実に好青年でした)で、「王子」の風格がありました。
あと、なによりも、今回すべての曲のすばらしい編曲されて、かつ指揮をされていた藤野浩一さんのトークがおもしろすぎてトークの次の曲が始まってもまだ客席の笑い声が停まらなかったのが印象的でした。
これで、24日から始まった関西ツアーは一応終了です。
しかし今日ソロっぽい曲の姿は普段僕を聴いて貰っている東京圏の聴衆からすると実にたぶん「見たことない感じ」だったとは思うので知り合いに聴いて貰えなかったのはちょっとばかり残念でした。
懐かしの映画音楽2008@京都新聞トマト倶楽部コンサート - 2008.04.29 Tue,14:59

これはいま休憩中のリアルタイム投稿です。
さっき食事をしていて、もうこのトリオは四年目に(一年に一度だけど)なりました。
酒とバラの日々に僕のソロがあったのですが、実に気持ちよくお二人にフォローしていただきました。

これを手入れしている森田歩さんの技術力で、実にすてきな音がしていました。
さあ、後半には、ゴッドファーザー(part 2)や007のロシアより愛を込めて、そして最後に十戒なんかあったりします。
そうそう、昨年は、ベーゼンドルファーのピアノで弾いたけど今回はスタインウェイにしました。
客席は昨年同様満席です。
京都はちょっと暑いくらい良い天気。
ツアーが始まった - 2007.09.17 Mon,23:28
今日は定期演奏会として東京池袋の芸術劇場で初日を迎えた。
今回はライブ録画、録音されていたのでできあがりが楽しみです。
京都市交響楽団との同じようなコンセプトによるコンサートシリーズをかつてやったけれども、来年はバーンスタイン・イヤー(生誕90周年)だそうで、愛弟子の佐渡裕ちゃんの活動もよりこの作曲家のものが相次ぐのでしょう。
佐渡ちゃんはもとより則竹さんや越智さんとこれからしばらくご一緒なのも楽しい。
Westside Storyについては、かつて来日公演で二ヶ月弾いたり、去年も数回来日公演で弾いていたし、シンフォニックダンス自体、通常のオーケストラ版を何回も弾いているから、この曲は数えてないけど少なくとも50~60回以上は弾いていると思うのだけど、全く弾いていて色褪せないから幸せだけど、今日も佐渡ちゃんがトークで言っていた様に、彼が書いた他のすばらしい曲で僕ももっと取り上げられるべきだと思うものがたくさんあるので、そういう体験をしたいと思います。
Candideも自分が二度の舞台公演で稽古ピアノをやったせいもあるから、思い入れがとても強いのだけど、こればかりはこの編成では鍵盤がないのでしょうがない(爆)
On The Townは本当にいい曲があって楽しいし、今回は取り上げられなかったけど、ファンシー・フリーという作品もその中の一曲をかつて弾いたことがあって、それもとても楽しいし、波止場という映画音楽も良い。
もちろん、彼も「一押し」と言っていた、交響曲の「不安の時代」は僕としても最高に好きな一曲だね。
明日は青森か、久しぶりの青森の夜はどんな酒に溺れられるか楽しみです。
翌日に続く
モダンタイムス@ライブシネマby京都市交響楽団 - 2007.05.30 Wed,23:21

6/3に京都会館で行われる「ライブシネマ」(たぶんこのリンクは期間限定です)という、チャップリンの映画を彼の書いた音楽をオーケストラで生演奏するというものである。
かつて、東京で新日本フィルハーモニーもやったのだけど、企画としての意欲はこの催しを先駆的に始めただけあって、すごい意気込みです。
「街の灯」も僕は東京で弾いたけど、ゴングの音とかピストルの音とかサイレントかホイッスルのような、効果音はフィルムのなかにある音を活かして、音楽の部分だけを演奏していたけど、京都市交響楽団を指揮する齊藤一郎氏(この企画はこのオーケストラでは彼がすべて監修している)はすべての音をオーケストラにさせるので、打楽器奏者たちは大変である。
だから、ほとんどの奏者たちはすべてピットにいるけど入りきらない打楽器が舞台上手の花道に、そして舞台下手にピアノとチェレスタとおもちゃのピアノ(自分の所有物)、そして効果音専門の打楽器セクションが配置されている。

プレトークをやったおりに、僕が半分ジョークでこれを会場に持ち込み、「犬の生活」のなかにでてくるラグタイムをチェレスタと一緒に弾いて、齊藤氏がおもしろがって、モダンタイムスのある場面で使うよう要求したのです。
ピアノとチェレスタを乗り換えるのもかなりスリリングだけど、このトイピアノを弾く時は、チェレスタと同時に弾くので、両手を開ききって、しかも左手がメロディ、右手がそれよりも低い音域で伴奏型のフレーズを弾くから手がおかしくなりそうだ(爆)
こいつより上手に弾けないかもしれない。
しかもこの作品はご存知のように非常に「悪魔的な機械の動き」があるので、とにかくめちゃくちゃテンポの速いところが多くてスリル満点だ。
しかも面白いことに、小節数は、通常曲がかわればリセットしてまた「第一小節」から始まるのに、最初から最後まで、通し番号がうってあるので、最後は「3700小節」を少し超えたところで終わる(爆)
いままで、リハーサル中四桁の小節数を指揮者が指示するというのは経験がないような気がするなあ。

今現在チャップリンの11の作品の譜面が再構成されているということですが、自分自身も四つ目の作品になります。
どうせなら、全部網羅したい。
齋藤氏のリハーサルでは、毎回演奏者全員で映画を鑑賞してから本番に臨むらしい。
新日本フィルハーモニーでやった時はそういう配慮がなかったから、自分が弾いているところがどういう場面なのかわからないで弾いていたことが多かったので、明日のリハーサルはまず午前中に鑑賞してから午後にまた音を出すらしいので、譜面を再び見る時に違って見えることでしょう。
その方が弾いている時に観たくなってしまう誘惑に勝てるしね(爆)
でもこんな角度じゃ観たくてもまともに見えない。
ただでさえ、指揮者がとても遠くて、しかも暗い。
この前まで弾いていたジキル&ハイドでは、目の前に指揮者がいたことを考えるとこんどは一番遠いところで弾くので、離れている楽器との時差が今日もあったので本番までには慣れないといけない。
蛇足だけど、チャップリンの作品の中には制作当時、演奏されていた音楽は「既成の曲」の寄せ集めだったものもあり、公開されてから20年後に新たに作曲されたものとかもあるらしい。
ということは日本の活動写真館、つまり、僕にはとても縁のある“セロ弾きのゴーシュ”の登場人物たちは、常に同じ曲を違う映画でも使い回していたこともあるわけだ。
逃走場面ではオッフェンバックの「天国と地獄」とかね、。
だから、映画館によっては同じ映画なのに違う音楽で上映されていたということもあり得る訳で、どこでも観ても映画は舞台劇とは違って同じ、というわけではなかったらしい。
それが無声映画の魅力でもあったのだろう。
活動弁士はたぶん日本だけの風習でこれも義太夫やそれに連なる日本の芸能の遺伝子の末に存在した(今もいらっしゃるから、現在進行形ではある)独自のものなのだ。
★2006/11/15新日本フィルハーモニー定期演奏会 - 2006.11.15 Wed,08:58
作品番号が12ということで、結構初期の作品らしい。
らしいというのは、この練習が始まるまでこの曲は知らなかったからだ。
ついこの間弾いた「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」とか、「舞踏組曲」とか三度ほどひいた「中国の不思議な役人」とかにくらべると、いわゆるバルトーク節満載という感じではない。
どこか過去(同時代も)の偉大な作曲家へのオマージュというかそういう部分を感じます。
ドビュッシーやラヴェル、ベートーヴェンやマーラーっぽいところがあります。
もちろんそれらのイデオムを再現しつつも自分の言葉で語ってはいるのですが、これは僕だけでなく今回一緒に弾いている人たちも「初めて弾くよ」とか「この曲知らなかった」という人がほとんどなので安心しました(爆)
バルトークの子供のための作品で育った自分としては、こういう作品に出会えてまた一つ幸せが増えた。
でも内輪話だけど、譜面の練習番号の振り方があまり音楽的でないので弾いていないときに数えるのがこまる。音楽の「出来方」のセンテンスに沿っていないのだ。
たまにきりの良い10小節ずつ(音楽はそういう数の単位で文章ができているわけではない)にふってあったりして腹が立つときもあるけど、これはそうではないのだけど、8小節が二つ連なって16小節の文章になっているところに、なぜか9小節と7小節みたいに分けて番号が振ってあって、その意図がわからん。
★2006/10/25指揮者コンクール - 2006.10.25 Wed,08:09
コンクールの演奏なのだけど、ピアノやヴァイオリンの協奏曲ではない。
指揮者のコンクールの二次予選だ。
何が変わっているかというと「本番の演奏」ではないらしい。
審査は「練習すること」らしい。
バルトークの舞踏組曲の一部と一柳彗さんの交響曲の一部をやる。
たぶん6人くらいらしいけど、弾く方は難しいよな。
なぜって、もし指揮がわかりにくいアクションをしたときに、本来なら「察して」自力走行というか破綻しないように指揮者を無視して弾くようなこともあるわけだし、なんかおかしくなったら演奏している方が下手とか悪いとか思われるのはプロとして避けたいという「さが」があるからなあ(爆)
しかも今日のためのリハーサルは一度もないから(なんか直前に30分だけ準備の時間があるけど何をするのか知らない)、そりゃ同じ曲を六回も弾いていたらこっちだって上手くなるだろうし(爆)、わざわざいじわるして変な振り方をしたときに指揮の通りにずらして弾くというのも大人げないし、、。
まあ演奏の結果だけではなく、指導力というか演出というかそういう指示の出し方を審査員はごらんになるのでしょうが、、。
でもこういうとき直接演奏する僕らの感想は一切反映されないわけでもあり(爆)、指揮者が指揮者を判定するというのもなあ、と思ったりする。
“セロ弾きのゴーシュ”の冒頭、指揮者がゴーシュやオーケストラを怒鳴り散らす場面があるけど、子供やアマチュア相手の指導者ならああいう輩もいるだろうが、プロ相手の指揮者でそういう人はもう今の時代ありえないし、そんな態度を指揮者がしたら「わかったよ、お前の『振ったとおり』に弾いてやるよ、どうなるか耳かっぽじって聴いてみやがれ」と言われてしまうだろうし、自分で主宰したオーケストラでないかぎり、呼ばれなくなったら指揮者は演奏家よりつぶしがきかないよね、1人じゃ何も出来ないのだから。(爆)
指揮者とオーケストラの関係は、尊敬と共感で無限のエネルギーがそこで創造される場合と、お互い全く通じ合う物が無くそれどころか、指揮者がいなければもっとまともな音楽になると心の中で毒づきながら演奏していることもあるし。
でもリハーサルと本番って器楽や声楽の演奏家だって豹変することはあるんだけど、練習の時にオーケストラの方を向いていたのが、客が入った途端に「背中の後ろにいる客」に向かってオーヴァーなアクションで「自己表現」に走ることが最優先する指揮者は本当に困ったちゃんなのだ。
それまでの練習で緻密にやってきたことがまったく分からなくなることがよくある。
指揮者はそれまでの数日間で自分の伝えたことは相手に理解してもらえたと思いこんでいるのかも知れないが、アマチュアじゃあるまいし、数日まえから練習したこととまったく関係ないことを、もう経験値のたっぷりある曲ならいざ知らず、特にほとんど演奏経験のない曲目(特に現代音楽)で本番だけ奇想天外なアクションで指揮台の上で暴れられると、登山の途中で地図や命綱を無くした人みたいに立ち往生どころか滑落しそうになることがあるんですよ。
今日はどういう若い力の棒にスピリットを訴えられるか楽しみに出かけましょう。
五反田のゆうぽうとは、昨年の一月、ダンスの公演“危険な関係”以来だな。
★2006/10/23武満徹作曲“グリーン” - 2006.10.21 Sat,23:31
数日前からリハーサルが行われているんだけど、今年は武満徹さんの管弦楽曲に触れる機会がいつもよりは多いような気がする。
それは没後10年だからかなあ。
10年前、今年と同じくアメリカからWestside Storyのカンパニーが来日していて、その公演期間中に訃報が入り告別式に行った想い出がある。
5月の終わりにバンベルク交響楽団のエキストラ奏者として笙の独奏と管弦楽の作品“セレモニアル”のチェレスタを弾いたし、9月にはやはり新日本フィルハーモニーの仕事でサントリーホールの開館20周年記念のコンサートシリーズのオープニングに、自分のパートはなかったけど久々に“ノヴェンバー・ステップス”を聴いた。
今回の作品も実にデリケートな音が現れては消えていく。
仕事として面白いと思うのは、一応メインはチェレスタなのだけど一瞬ピアノに乗り換えて弾く場面があるのだけど、それはわずか2小節くらいしかない(爆)
どのくらい聴いている人に印象に残るのかわからないくらいだ。
周りが黙っていてピアノだけという感じでもないし。
というかその数秒のためにピアノを借りてもらうのは悪いくらいですな(爆)
でも弾いていると、きっとどうしてもここはピアノの音が欲しかったのだろうなと本当に思うし、違和感があるわけでもなくその音はチェレスタじゃない根っこを感じます。
でもチェレスタはハープと連動していたりフルートと連動していたりあまり「裸」で鳴っているわけではなく、まるで絵の具を混ぜ合わせて独自の色になるように、なんらかの楽器と一緒に「色」の部品としてところどころでそこはかとなく鳴っています。
指揮者が西洋の人だからだとは思いたくないけど、どうしても譜面に書いてある複雑な拍子の処理への指示がオーケストラに来るのだけど、どうなんだろうなあ、もっと時間を超越した「間」の間隔、そして強弱の差とこのデリケートな音色の現れては消えていく、これこそ「わびさびの世界」(って自分だって日本文化を良く分かっている訳ではないけど)って感じに「演出」して欲しいなとは思っちゃった。
油絵ではキャンバスがむき出しになることは基本的には無いでしょう。
つまり対象物の背景には絵の具が満たされて「ないはずのものが『存在する物』、この場合は絵の具、で埋められている」世界です。
でもこれは墨絵に近い世界観があって、音が無いときは本当に何もないのであって、マーラーの交響曲にある「休符というポジでできたゲネラル・パウゼ」とは異質の物なんだよなと思った。
その何もないところからかすかな音から時に強烈なダイナミックスまで成長したかと思うと前触れもなく消えていくそのプロセスは、「フレージング」とか「論理的な主題の展開」というものとは違って確かに西洋音楽のスタイルだから拍子記号は書いてあるんだけど、縦の線がぴたっとあったって、それよりもっと「感じなければいけないもの」があるような気がしました。
バンベルク交響楽団の時も思ったけど、音が出ている瞬間はとても綺麗なのです。
でも武満徹さんの音楽はその音が産まれてくる直前や直後に現れる静かなる沈黙がすこぶる綺麗に実感を伴って聞こえてくるような世界であることを、つまりもっと「休符の間も進んでいく音楽ではなくてそういうときは時間が停まっている音楽」のキャラクターもあるように楽国の人の棒をみながら思いました。
今思い出したけど、かつてミシェル・ベロフというすばらしいフランスのピアニストが武満作品の独奏を弾くのを聴いたとき、「油絵だ、これは」と思ったことがありました。
それは否定的な感想ではなく、僕が好きな高橋悠治さんのそれとは質感が根本的に違うなあとおもって実に興味深かった。
同じ事は僕ら日本人が西洋の音楽を弾いてネイティブの人が良くも悪くも違和感を感じるのと同じなんだろうと思います。
★2006/10/13,14新日本フィルハーモニー定期演奏会 - 2006.10.12 Thu,06:31
シチェドリン作曲管弦楽のための協奏曲第1番『お茶目なチャストゥーシュカ』(1963)
伊福部 昭作曲オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ(1976)
バルトーク作曲弦楽器・打楽器とチェレスタのための音楽
のうち、シチェドリンとバルトークの作品を弾く。
つい先日第18回高松宮世界文化賞を受賞して話題となった現役最高齢のバレリーナ、マイヤ・プリンセツカヤさんの夫でもあるロディオン・シチェドリンという作曲家には少なからず縁があります。
もう再演はされないけれども僕が生まれて初めて仕事でミュージカルにかかわったのは80年代の終わりころだったとおもうけど、「森は生きている」という有名なロシアの民話を日本のプロデュースで彼が作曲したものを弾いたのが始まりでした。(このときの題名は「12ヶ月のニーナ」でした)
3時間を超す大作で、今思い出しても音楽的内容からすると不朽の名作と言って間違いないものでした。
その作品でミュージカルの仕事に触れたこと、そして当時一世を風靡したシンセサイザーの名器、ヤマハのDX7、つまりディジタル・シンセサイザーで仕事をしたのも初めてでした。
そう、シチェドリンにとっても電子楽器で音楽を書いた最初(もしかして最後?)の作品で、なにがすごかったって、ミュージカルの世界じゃ「経費節減のために色々な楽器をシンセサイザーで『代用』」することは日常茶飯事ではあるけど、この作品はオーケストラの中に二台の電子楽器があり、それは完全に「電子楽器」として独奏楽器の役割をしていたのです。
現代音楽の世界でもアメリカのジョン・アダムスという作曲家の作品では同様に独奏楽器として電子楽器が使われることが多くあります。
こういう時は本当に楽しい。
何かの楽器の代わりの音を出しているときは本当に「偽物」をやっているので本当の意味の創造性(たしかに単にその鍵盤をピアノの様に弾くのではなくその楽器に似せるには相当な職人技が必要なのではあるが)には欠けるのですが、単にその事実だけではなく、音楽のすべてに無駄な音が無く、毎日感動しながら弾いていたことは忘れられません。
当人もリハーサルの頃にいらして何回か話したけどすごく素敵な人でした。
まあその仕事は実は何人もキーボード奏者がくびになっていて、自分と自分を誘ってくれた友人はなんと初日の3日前に急遽呼ばれてくびにならずに千秋楽まで弾いたという自分にとって「あらかじめ用意された仕事にありつける立場になく誰かの突然のピンチヒッターで仕事の領域を増やしてきた歴史(爆)」のこれも一つでした。
まあ鍵盤の「つら」は同じでもいきなり「演奏したことの無い楽器で『仕事』をする」というのは様々に勝手が違って大変だった記憶があるけど、そういう事でもない限り楽器を覚えることはないので、それはプロの現場というのは失敗したら後がないけど、ピアノだけ弾いていたのでは見られなかった仕事をその後にも沢山体験出来たわけで、人生にはこういう寄り道は必要なのだと確信しました(爆)
その後、2002年くらいだったか、「ザ・カーマン」というカルメンを下敷きにした舞踊劇でも電子楽器を弾いていましたが、これはシチェドリンの代表作と言っても良いくらい有名な「カルメン組曲」を下地にしたものでした。
その名の通り組曲だからもともとのオリジナルの全曲版にするためにそのカンパニーの作曲家が同じ編成(管楽器はない弦楽器と打楽器、なんとオーケストラピットの半分が打楽器が占めていましたが、そしてその追加の編曲で電子楽器を追加した)でやられたものだけど、管楽器を使わない奇抜さという点に於いては、今回の演奏会でバルトークの作品に通じる物がありますな。
それで、今回のシチェドリンの作品は、オーケストラのすべての楽器がその個性を主張する場面があると言って良い,いわゆる、「管弦楽のための協奏曲」というスタイルの音楽で、とても早い4ビートのジャズっぽいテイストの入った無窮動の音楽です。
僕はピアノを弾くのだけど、初日の練習で、指揮者の井上道義氏に「バラライカの音色で弾いて欲しい(譜面にも書いてある)ので、弦の上に紙を挟もう」ということになりいろいろ試行錯誤しましたけっか少々重みがかからないと良い味がでないので特製の紙の錘(新日本フィルハーモニーのステージマネージャーの親方作)を弦の上に乗せておおよそピアノっぽくない音色で弾いています。
やる方はとてもスリルのある曲ですがきっと聴いている方はとても楽しい作品です。
面白いのがふつうバイオリンの独奏がオーケストラの中で行われるときはコンサートマスターか複数だったら一番前の列に座っている人がするものですね。
しかし譜面には意外な位置に座っている人に独奏を要求しているのです。
これはCDを聴いたって分からない実際に生演奏を聴いた人だけが知り得る事実ですから楽しみにして下さい。

いままでCDなどでは何度も聴いていたけど実際に舞台に乗って聞こえてくる多層に立体的に聞こえる弦楽器の音は凄いです。
管楽器なしの弦楽器と打楽器と独奏ピアノ(木村かをり氏)とチェレスタ(ぼく)とハープという編成ですが、弦楽器が二つのグループに分かれているので、舞台のあちこちから掛け合いの音が飛んでくる真ん中で弾くのはエキサイトします。
しかもバルトークの管弦楽曲のなかにはよくあるパターンで、チェレスタ奏者が途中でピアノに乗り換えて連弾するという場面も今回ありまして、20年くらい前に僕を新日本フィルハーモニーに推薦して下さった恩人の木村かをり氏と緊張の共演もほんと一瞬ですが4楽章で二度ほどあります。
だから写真のようにすぐに乗り換えられるようにあらかじめピアノの方に僕用の椅子が並べてあります。
そうそう、今回はいつものミュステルではなくシードマイヤーのチェレスタで弾きます。
19世紀以前の音楽が一つもないのでどうなんだろう、客席は満員ではないのかもしれませんが、こんな面白いプログラムは滅多にないと思います。
この秋は立て続けにバルトークの管弦楽作品をトータル三曲弾くことに恵まれる第一弾としては申し分のない挑戦です。
★2006/10/2,3クロネコヤマト音楽宅急便コンサート - 2006.10.03 Tue,13:30
昨日は日帰りで宇都宮で本番がありました。
今日は川崎ミューザでのコンサートです。(実はこのホール今日が初めて)
両方とも地元の高校の吹奏楽の倶楽部の子供達との共演コーナーがあります。
ローマの松のバンダ(客席にいる金管楽器の別働隊)にも高校生が混じっていましたがきっとかれらにとってはとても想い出に残る体験だと思います。
指揮は金聖響氏。
★2006/9/15サントリーホール開館20周年のコンサート - 2006.09.15 Fri,06:31
ボレロのチェレスタ(は、先だっての“ダフニスとクロエ”につづきMustel社製)を弾くが、これは16小節(つまり一つのフレーズ)しかないことは前にも書いた。
でも打楽器のうち、最初から最後まで同じリズムを叩き続けるスネアドラムを別とすると、大きなドラやシンバルと大太鼓は最後の数小節で5発や6発だけだ。
それでもそれらがないとこの曲はまったく締まらないので文字通り不可欠な「色」なのです。
自分は弾かないけどもう一つは武満徹さんの傑作“ノヴェンバー・ステップス”だ。
★2006/9/17,18新日本フィルハーモニー定期演奏会 - 2006.09.14 Thu,03:25
合唱付きの管弦楽曲で、近代の作品としても異彩を放っていると思う。
歌詞もラテン語だったりドイツ語だったり、哲学的なものから酒や恋のものまで、多彩である。
この作品について知らない人は、
wikipediaの該当記事を参照してください。
他にもネットで探すと内容がわかります。
管弦楽の中にピアノが二台というのはそうたくさんあるものではありません。
そのうち第二ピアノを弾きます。
僕にとってたぶん88年くらいに初めて新日本フィルハーモニーに参加した記念の作品です。
その演奏会は小澤征爾さんの指揮で実相寺監督が演出し、語りが平幹二朗さん、舞踊が田中泯さん、合唱も衣装をつけ三階建ての装置の上に並んだものすごく規模の大きいものだったので忘れられない。
なにをかくそう、白石准はこの時が、オーケストラで演奏する生涯初めての体験だった(爆)
つまり学生のオーケストラやアマチュアのオーケストラを経ることなく、いきなりこのような光栄な状況に放り込まれたのでした。
そして、当時まだ無名に近かった、佐渡裕氏が小澤さんのアシスタントをしていてそこでお話しして仲良しになった思い出もある。
今回は指揮者(クリスチャン・アルミンク)も歌い手も合唱もすべて違うが、思い起こすと、これでこの作品は4回目なんだけど、やっぱりすごい曲だと思う。
まだ切符余っているらしいから興味ある人はどうぞ。
トリフォニーホールです。
今日(ちうか昨日か)は二日目のリハーサルで初めて歌い手さんと合唱の方達と相見えましたが、独唱者のバリトンの人がたいへんすばらしいと思いました。
★2005/9/5新日本フィルハーモニーサントリー定期第404回 - 2006.09.03 Sun,06:28

やっぱりなんやかんや言ってこの曲は本当に美しい。
鍵盤楽器は、チェレスタとジュ・ドゥ・タンブル。
写真の右側が前者、左側の小さい方が後者。
自分は今まで数回弾いたのは後者の方だけど今回はチェレスタ。
弾くところは本当に少ないから半分はお客の気分。
気持ちよくて毎日練習でこの音の渦のなかにいることが幸せだ。
ジュ・ドゥ・タンブルはたぶんチェレスタより前から存在する楽器かも
しれない。
モーツァルトの魔笛にでてくるパッセージはこれで弾いてたのだと思う。
グロッケンシュピール(鉄琴)を鍵盤で弾くと思えばよろしい。だから
キラキラした音がでる。
チェレスタは同じ鉄琴を打つ材料がピアノのハンマーの様に柔らかいか
ら音色が全然ちがう。(チャイコフスキーの胡桃割り人形の金平糖の踊りまで待たないとこの楽器はでてこない)
しかもこの曲のなかでだいたいは同時に演奏してないのだが一カ所だけ
盛り上がるところで同時になるから二人奏者が必要なのだ。
前にも書いたけどラヴェルはたぶんこんなに暇に書いたのはこれらの楽
器は打楽器奏者が演奏するように考えていたのだろう。
オーケストラの音楽にあまり普段触れることのない人はこれから入門す
るのが最適だと思う。
しかもCDではなく生演奏で聴くのが一番だ。
バレエのための音楽なので、楽器の出す音で様々な具体的な自然の中の
音を味わうことや理屈抜きに音の渦のなかに溺れて快感を得ることがこ
んなにも楽にできる音楽も珍しいと思う。
今回指揮者のアルミンク氏は、さかんに「ドイツ風な音を出さないでフ
ランス風の色彩感のある音をだしてくれ」と要求する。
それは主に音の立ち上がり方への注文だ。
もっとふわっと立ち上がって欲しいということみたいだ。
そういえば、ストラヴィンスキーやドビュッシーの管弦楽曲(協奏曲で
はなく)には素材としてピアノが入ることがたびたびあるが、ラヴェル
のそれは絶対にピアノはないね。
鍵盤を使うときはチェレスタだね。
そこに彼の色彩感が現れてるね。
ピアノ曲をたくさんかいているけどそういうときはピアノの裏に管弦楽の色彩があって管弦楽のときはピアノを使わないのだ。
★2006/8/27芥川作曲賞選考会 - 2006.08.27 Sun,05:25
新日本フィルハーモニーが担当していてここ数年僕は連続して編成の中にあるピアノやチェレスタのパートを弾いています。
単なる新作の競演ではなく、この一年間世界中で初演された日本人の管弦楽作品を紹介することにも貢献していてすべてが「再演」であることは意義のあることです。
ただし、演奏者の側からするとすべてが楽しくてしょうがないわけではないけど(爆)
いつもはノミネートは3作品から4作品。
そして前回の受賞者の委嘱作品が演奏されます。
今回は全体で四曲のうち僕の弾くのは二曲だから少ない方です。
昨年のようにピアノの内部奏法のある作品はないけど、なかなか難曲があります。
この賞の審査は審査員控え室で行われず、演奏会終了後舞台で公開討論で決められるのも特徴的です。
公開とはいえ、そこに演奏した人間の意思は反映されませんが(爆)
結構オーケストラのメンバーの予想は外れたりするのが面白い。
今年は、自分の弾いていないピアノ協奏曲が自分としてはとても印象が良いです。
さてどうなるか。