クッキーモンスターその2
2008-02-05
以前、クッキーモンスターというタイトルで記事を出したけど、こっちがホントのそれだ。なにを驚いているかというと、もう数日経ったが、梅田で通り魔の事件があって、刺された方がお亡くなりになった事件が報道されたが、その現場となったトイレやその人が飲んでいた場所は自分も良く行くところだったのでびっくりした。
今回はその店のあるビルの中のホテルではないので、近くにはいないが、こういう事件が自分の知っている場所で起きたというのはショックではある。
パラドックス
2007-08-31
来月の北日本方面のツアーでお世話になるシエナ・ウィンドオーケストラのサイトのメンバー紹介のページで、「一日30時間あったら何をしますか」という項目があった。つまりあと一日が6時間多かったら何ができるか、ということかと、もし自分ならどういう回答をしようかな、と考えていたら、その場合、一生の寿命は変わらないのか、それともその分年数は減るのかと考えだし、後者の場合、結局だれた生活を送っている自分は一日6時間増えたところで何も変わらないのだろうと、夢のない結論に至った(爆)
しかしながらちょうどいま作曲している“ジョディと子鹿のフラッグと”の原題が、The Yearingであり、この作品の突きつける「現実」というのは色々あるなかで、その中に少年の一年と子鹿の一年が同じではないこと、ということの命題にある意味、「一日あたりの時間」とはなんだろうということを考えていたことは繋がるなとさっき(といってもこんな非常識な時刻だったが)風呂に浸かっていたら思い始めた。
つまり、自分の家で飼っている猫の一生は俺より短いが、生まれてから「一人前」になる速度は人間の比ではないくらい早いわけで、俺たち人間は、こいつらよりは一日あたりの時間はある意味長いといえるのか、同じ地球の上で体内時計を共有して暮らしているから同じなのか、じゃあ、自転の時間が短い星や長い星で、もし人間が暮らすようになった場合、歳をとるという概念はどうなるのかとか、考え始めたら眠れなくなって、仕事もほっぱらかし、寝ようと思って風呂から上がったのに、このページを書くために「火」を落としたMacintoshを再起動し、ネットに再びつなぎ、気分はこの写真のようになった(爆)
それじゃ、あまりに落ちがないから優等生っぽく文章を閉めようと思うが、つまり、一日あたり6時間多いつもりで生きていけばおもしろくなるということだな、人生は。
普通じゃないすばらしいことをしている人たちは、俺のような凡人より密度の濃い時間で何かをしているわけで、つまり天才とか努力家というのは、客観的には同じ24時間という枠の中で俺より6時間多く働いていると言うことだ。
だからといってその6時間のハンディを取り返すために凡人が徹夜をして作曲してもだめなものはだめだから寝ることにする(爆)
結局うまく落ちをつけられなかったし、貴重な睡眠時間を無駄にしてしまった(爆)
でももう若くないのだから気持ちが沸き上がったときに、音にせよ言葉にせよなにか記録しないといつでもできるわけじゃないし。
と、パラドックスはどんどん追いかけてくるぞ(爆)
せ、線路の右側を列車が走ってるぞ
2007-06-29
昨日からチェリストの大島純君の故郷、岡山県の津山市にいるのだが、今朝、作陽保育園で“セロ弾きのゴーシュ”を演奏する(Vc.大島純,Nar.高山正樹,Pno.白石准)直前、その保育園の目の前の線路をなにげにながめていたら、電車が、否、ディーゼルカーが、二経路ある線路の右側を走って来たので(つまり目の前に左側から列車が走って来たのに手前の線路を右側に走って行った)肝を冷やした。訊いたところ(だれもそれを疑問に思ってなかったが)、複線にみえたその線路は別々の路線(手前が津山線、奥が姫新線)で、おのおのが単線だったわけだ。
びっくりした。
今日は午後に別の保育園(国分寺保育園)でもう一回、そして夜は、地元のピアノの調律師さん(明日の一般公開のくらやアートホールでの会場のピアノを調整していただく)のアトリエで、「公開リハーサル」、ゆえに、“セロ弾きのゴーシュ”を一日三回やることになるがこれは初めての経験だし、昨日相談の末、語りの部分を大幅に変えた。
今月の中旬にも変更を試みたが、今回の変更で、より演劇的になったかと思う。
「説明する」のか「演じる」のかの違いは、単純に説明文を削除するという表面的な整理とは違ってドラスティックに世界が変わるものです。
ゆえに、今月の数回の演奏で、“セロ弾きのゴーシュ”のヴァージョンは2.0になったという実感です。
ますます、この作品は三人の出演者ではなく、かつて一度試した四人ヴァージョンでやった方が僕の考えた世界を表現しやすいと実感しました。










★10月に幕を開ける

