★2007-2/16オペラサロン・トナカイ
2007-02-17
昨夜はテノールの村上 敏明さんが、イタリア留学より帰国初出演になるということで、トナカイの客席が70人ほど、ほぼ満員状態で、このくらい入ったのは記憶にないかんじでした。
共演者はソプラノの前川朋子さん、メゾソプラノの小林真美子さんと、村上敏明さんでした。
客席の熱気に後押しされ、三人ともすばらしく熱唱しました。
歌い手さんたちが三回のステージで原則二曲ずつ歌う時の合間に独奏をするのですが、今年はバッハの平均率ピアノ曲集を一曲ずつ弾こうと決めていたけど、今日は最初のステージからシャンソンやカンツォーネが並んでいたので遠慮しちゃいました。
何回か共演して気のあった人たちとやるのは安心して楽しいけれども、ここにくるのは未知の若い歌い手とお客さんに巡り会える喜びがあるからです。
昨夜もそういう発見がありました。
オペラサロン・トナカイとは。
共演者はソプラノの前川朋子さん、メゾソプラノの小林真美子さんと、村上敏明さんでした。
客席の熱気に後押しされ、三人ともすばらしく熱唱しました。
歌い手さんたちが三回のステージで原則二曲ずつ歌う時の合間に独奏をするのですが、今年はバッハの平均率ピアノ曲集を一曲ずつ弾こうと決めていたけど、今日は最初のステージからシャンソンやカンツォーネが並んでいたので遠慮しちゃいました。
何回か共演して気のあった人たちとやるのは安心して楽しいけれども、ここにくるのは未知の若い歌い手とお客さんに巡り会える喜びがあるからです。
昨夜もそういう発見がありました。
オペラサロン・トナカイとは。
2006/9/6人見 共ソプラノリサイタル
2006-09-06
なんと20年ぶりの共演です。
しかし20年前の鮮烈な印象は全く褪せることなく、ずっと再共演を心待ちにはしていたのです。
今回は、シューベルトの歌曲、木下牧子さんの歌曲、イタリア古典歌曲、そしてアンドレ・キャプレの歌曲、つまりドイツ語、日本語、イタリア語、フランス語を歌い分けます。
しかもイタリア古典歌曲は佐藤紀雄さんのギターで歌われます。
それぞれの選曲も緻密に考えられ、とても完成度が高いものになっていてなにをさておき、演奏もチラシもプログラムもお洒落です。
今年一番と言って良いほど充実した気分で本番を迎えました。
東京のオペラシティの小ホールで今日は(今日も、か)ベーゼンドルファーを使います。
だいぶ前に満席になってしまい、聴きたくても入れない人が出たのは残念でした。
アンコールコンサートが実地できたらと彼女と話しています。
しかし20年前の鮮烈な印象は全く褪せることなく、ずっと再共演を心待ちにはしていたのです。
今回は、シューベルトの歌曲、木下牧子さんの歌曲、イタリア古典歌曲、そしてアンドレ・キャプレの歌曲、つまりドイツ語、日本語、イタリア語、フランス語を歌い分けます。
しかもイタリア古典歌曲は佐藤紀雄さんのギターで歌われます。
それぞれの選曲も緻密に考えられ、とても完成度が高いものになっていてなにをさておき、演奏もチラシもプログラムもお洒落です。
今年一番と言って良いほど充実した気分で本番を迎えました。
東京のオペラシティの小ホールで今日は(今日も、か)ベーゼンドルファーを使います。
だいぶ前に満席になってしまい、聴きたくても入れない人が出たのは残念でした。
アンコールコンサートが実地できたらと彼女と話しています。
★2006/8/20独奏Share the Music Dream@松尾ホール
2006-08-20
大学時代の知人、ニックネーム、アンジェリカさんが僕のために企画開催際してくれた独奏会でした。
実は初めて行ったホールでしたが、スタインウェイの販売元松尾楽器の松尾ホール(有楽町のお堀のそば)という一見天井も低いしつりあいがとれないように見えるフルサイズのコンサートグランドが置いてあるところだったのだけど、実に意外にすばらしい響きがし、もちろんのことだろうけど、とても良い楽器が置いてあったので感動しました。
プーランクやモンポウ、ヒナステラにその他ラテン系の音楽を演奏し、仲間によって素敵な催しをしてもらえた幸せを頂きました。
女性が企画しただけあって、これもご縁でお花のデコレーションが舞台を彩り、いつも自分が自分で開催する演奏会とは違い僕そのものは物体として鑑賞に堪えうる素材ではないのは明白だがお花のおかげで「いつもとはちがって華やかで美しい舞台だった」と終演後も花を争うように抱えて帰宅するお客さんを見送るとき「付加価値のある演奏会」は良いものだなと(爆)実感しました。
アンジェリカさん、そして、お花を提供してくださったとんとんさんに感謝。
そして客席や受付をサポートしてくれた知人達にも感謝。
****
当日の写真はこの記事の続きのなかにリンクしてある美鳥さんのサイトにあります。
実は初めて行ったホールでしたが、スタインウェイの販売元松尾楽器の松尾ホール(有楽町のお堀のそば)という一見天井も低いしつりあいがとれないように見えるフルサイズのコンサートグランドが置いてあるところだったのだけど、実に意外にすばらしい響きがし、もちろんのことだろうけど、とても良い楽器が置いてあったので感動しました。
プーランクやモンポウ、ヒナステラにその他ラテン系の音楽を演奏し、仲間によって素敵な催しをしてもらえた幸せを頂きました。
女性が企画しただけあって、これもご縁でお花のデコレーションが舞台を彩り、いつも自分が自分で開催する演奏会とは違い僕そのものは物体として鑑賞に堪えうる素材ではないのは明白だがお花のおかげで「いつもとはちがって華やかで美しい舞台だった」と終演後も花を争うように抱えて帰宅するお客さんを見送るとき「付加価値のある演奏会」は良いものだなと(爆)実感しました。
アンジェリカさん、そして、お花を提供してくださったとんとんさんに感謝。
そして客席や受付をサポートしてくれた知人達にも感謝。
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当日の写真はこの記事の続きのなかにリンクしてある美鳥さんのサイトにあります。
譜面をのぞき込んで貰って弾いてみた。
2006-03-22
馬車道ピアノサロンでのシリーズは4回目だったかな。今回の隠しテーマは、「譜面の上に作曲家が残した言葉の数々の妙味」ということでした。
風変わりな言葉が譜面上のあちこちに蒔かれているエリック・サティの「<星たちの息子>への前奏曲」から、
「第一幕への前奏曲[天職] 装飾的な主題:バビロンのカルディアの夜」
「第二幕への前奏曲[秘法伝授] 装飾的な主題:大寺院の地下大広間」
題名もなんだかすごく難解なのだけど、「星たちの息子」というのは、サティーが属していた「薔薇十字教団」という秘密結社の教祖、サール・ペラダンの戯曲につけた音楽らしいです。
ワーグナーに心酔していたペラダンにちなんで、「サール・ペラダンのワーグナー風占星術」という枕詞もついている。
余談だけど、この教団のためにしばらく「公式作曲家」をやっていたサティが教祖の横暴に嫌気がさし(だいたいそういうもんだろう)、公開絶縁状まで出してその後決別したときに、名前の綴りをEricからErikにしたそうだ。
前々からフランス人なのになぜErikなのか訝っていたのだけど今回調べてみて解ったので嬉しい。
(コンサートのトークはいつものとおり洪水状態で喋ったがこのことを言うのを忘れた(爆))
「白く、そして動かないで」とか「「頭の中で」とか、通常の譜面に書かれている表情記号とはかけはなれているのは、続いて弾いたグノシェンヌにもたくさんある。
「たいへんつややかに」は表情記号としてありえるだろうけど、「問いかけて」とか「思考の突端から」とか、「舌の上に乗せて」とか「外出せずに」とか「うぬぼれることなく」とか「注意深くあなた自身に助言して」とか「凹みを生じるようなやり方で」とか「それをもっと遠くにまで運ぶ」とか「頭を開いて」とか「その音を埋めて」と音符の上に書かれていてもそれをどう受け取るべきかは本当に解りません(爆)
それを「詩」だと書いてある本を良く見かけますが、歌曲やそうでなくても詩にインスパイアを受けた作品のなかの「詩と音楽との関係」とは全然ちがうように思います。
まあダダやシュールレアリスム全盛の時代だから、なんでもありなんだろうけど、これほどこういう奇行がすばらしい存在感をもって未だに愛されているということがやっぱりサティのすごいところだと思う。
これらの曲に流れるちょっと中世的な雰囲気、或いは中東のようなヨーロッパからすると異国趣味(当時芸術家のなかに日本ブームがあったけど、彼はあまり中国や日本ぽい音階は使ってない)的な音階、そして今風に言うと環境音楽的で、主題を展開してドラマを起こすというものとはまったく違う異界の音楽みたいで、しかしその禁欲的な感じは、人間的な感情を機械的という意味ではなく、超越しているようなところを僕は感じていて、たまに弾くと音が体を通り抜けてなんかその音自体もとても透き通って浮遊している感じに思うのです。
これに続いて弾いたモンポウの「町はずれ」と「内なる印象」は、たまにCDの帯にみかけるのだけど、とうてい僕にとっては共感し得ない「スペインのサティ」という比喩が如何に見当はずれか実証したかったからということと、モンポウ独自の表情記号のことをみんなに見せたかったので弾いたのです。
見せたかったというのは、今回は集客がとても少なかったので、こういうときにしかできないこころみとして、希望者は部面をのぞき込めるような位置で聴いても良い、つまり本当に文字通り自分の家に来た客のようにふるまってもらったので、眼の良い人は、楽譜に書いてあるさまざまな情報を見られたと思います。
譜めくりの人は日常的にそうなるわけだけど、今回のぞき込む人は、ある意味音楽に没頭出来なかったかも知れないけど(爆)
「スペインのサティ」と比喩されることにおいていくつかは似ているところは認めよう。
その一つが、すべての曲の譜面がそうなっているわけではないが、「小節線を書かないスタイル」であることがそれだ。
拍子のありかがどこにあるのかは読めば解ることだし、そうなると譜面を俯瞰したときデザインが綺麗だ。
音には直接反映されない小節線はこういう譜面をみると、実にうざいとも言える(爆)
しかしながら、それは表面的な譜面を書いた方法論の類似性だけであって、モンポウの音楽とサティの音楽の本質は「対極的」と言って良いほど違う。
乱暴に言えば、サティは質量を感じない「透き通って人間離れしている白くてクールな音楽」、モンポウは、音は少ないかも知れないけど、質量というより密度のとても濃く「魂が充満した音」だと思う。
譜面上の言葉の妙として、モンポウの「町はずれ」の中に、他の作品でもたまに見かける彼独自の音符の上に書かれた表現方法がある。
あるフレーズが和声的に安定した解決をしないで停まるときに「?」と書いてあるのだ。
それは「この音で良いのか?」という意味ではもちろんなく、言葉で説明されてないが、明らかにそのフレーズは「疑問文」の風情であることを示している。
ゆえに、それに続くフレーズはそれにたいする答えや模索なのだ。
あと、テヌート記号が普通なら音符の真上に書かれるものだけど、たまに音と音の間の隙間に書かれていることがあって、それは微妙な間合いというかルバートを表現しているものと思われる。
昨日弾いた二曲のモンポウ作品は十代後半と二十代半ばの若い頃の作品だけど、もうすでにしっかいしたモンポウの様式が確立されているね。これは驚異的なことだ。
そして最後に弾いたのは、自分が宮沢賢治に基づく語りとピアノの作品を作曲する動機になった曲のうちの一つ、プーランクの「子象ババールの物語」を独りで語りながら弾いた。この作品は最近、役者を伴って弾くことをせず自分で全部やるのが好きだ。
なぜならば、役者が語り出すと「上演」みたいになるからだ。
たぶんプーランクがこれを初めて弾いたときは即興だったかもしれないし、別荘にいた甥っ子姪っ子の名前がたくさん最初のページにかいてあるくらいだからきっとフランシスおじさんによる弾き語りだったに違いない。
明確な「物語る」指向性ではなく、ひょっとすると小さい子は彼の膝の上で両側から生えている大きな手をみながら聴いていたのかも知れない.ので、そういうのをイメージしてやってみた。
サティとモンポウの曲とは違い、この作品の「言葉」は明らかに物語りなのだが、練習していて思った。
自分1人で弾くぶんには朗読なんか必要ない、この物語のテキストこそこの音楽の最高の表情記号だと言うことを。
弾き終えてしばらくしたあと、拍手はまったくなくなっていたが、その日は会場(ピアノを売るサロンだ)に、そこで売っていたピアノを先般、お買い求めになった方がいらしたので、アンコールとして記念に弾いてさしあげた。
娘さんの為に購入されたらしいが、その日にいらしたのはパパだけだったので、娘さんのために僕の演奏を録画してお帰りになった。
初対面だし、まだ合ったことのない娘さんにビデオ越しにメッセージを送ってみた。
こういうことはホールじゃ起こりえない素朴なハプニングだった。
楽しかった。
このプログラムは塾講の末に並べたものではなかったが、後で意味づけしてみると面白いかもしれないと思った(爆)
そうそう、今回使用した楽器は、Steinwayの1972年製のO型(180センチのモデル)でブリリアントに良く鳴ってくれました。
調律は毎度おなじみ新井吉一氏。
写真は一枚目がハンドルネーム“ララッチ”さん撮影のもの。
二枚目が“おばちゃん”によるものです。
★2006/3/21(火・祝)白石准のピアノの部屋@馬車道ピアノサロン
★2006/2/11白石准がMFYサロンのベーゼンドルファーピアノを弾く会4
2006-02-11
【白石准のピアノの部屋】シリーズは京都特別編に続いて今年2度目で通算111,112回目である。
共演者は、ヴァイオリンが大和田茂氏、クラリネットが守田英太郎氏。
二人とも自分の主宰する“みんなの音楽会”で何度も共演してきた名手です。
曲目はミヨーの組曲とストラヴィンスキー自身の編曲による「兵士の物語」の抜粋による組曲。
この二つがトリオで、あとは、ガーシュウィンの「ポーギー・とベス」組曲(ハイフェッツ編)の五曲(ヴァイオリン)とクラリネットは、バーンスタインのソナタと、ジャン・フランセの変奏曲です。
あとは数曲ピアノの独奏でモンポウの前奏曲を弾きます。
今日は二回公演になり、どちらもほぼ満席なのでこれはとても嬉しいことです。
また終了後加筆があると思います。
そうそう、ベーゼンドルファーの事をヴェーゼンドルファーと記す方もいらっしゃいます(アクセス解析でサーチワードで結構見受けられる)が、Bで始まっているのでドイツ語圏の発音をカタカナで書いた場合は前者が正しいです。
共演者は、ヴァイオリンが大和田茂氏、クラリネットが守田英太郎氏。
二人とも自分の主宰する“みんなの音楽会”で何度も共演してきた名手です。
曲目はミヨーの組曲とストラヴィンスキー自身の編曲による「兵士の物語」の抜粋による組曲。
この二つがトリオで、あとは、ガーシュウィンの「ポーギー・とベス」組曲(ハイフェッツ編)の五曲(ヴァイオリン)とクラリネットは、バーンスタインのソナタと、ジャン・フランセの変奏曲です。
あとは数曲ピアノの独奏でモンポウの前奏曲を弾きます。
今日は二回公演になり、どちらもほぼ満席なのでこれはとても嬉しいことです。
また終了後加筆があると思います。
そうそう、ベーゼンドルファーの事をヴェーゼンドルファーと記す方もいらっしゃいます(アクセス解析でサーチワードで結構見受けられる)が、Bで始まっているのでドイツ語圏の発音をカタカナで書いた場合は前者が正しいです。
★2006/1/8連弾のコンサートwith小坂圭太その2
2006-01-08
昨日の記事に、ストラヴィンスキーのペトルーシュカの話題ばかり長々書いたので、来る人もなんの期待もしてないかもしれないが、ドビュッシーの「6つの古代のエピグラフ(碑文だぞ、エビピラフではない。)」は、聴く音楽(あたりまえだけど)だけではなく、「観たり、香りを嗅ぐ音楽」だと思う。
この曲は音楽を愛する人のみならず、詩歌や絵画を愛する人、あとアロマテラビーや香水が好きな人にとてもアピールしそうな音楽だ。
音楽で魂を浮遊させるというか、これぞドビュッシーの真骨頂だなと思う。
決して唸らせるような運動能力の高い、自己顕示欲を刺激するものはそこにはなく、音の質感のコントラストによる投影、あるいは、音に温度や前述のような香りを感じてしまう不思議な世界だ。
これは、たしかに客観的な風景を表した音楽と言うのは危険だけど、恋人を求めたり抱き合ってドラマティックに気持ちを吐露する種のものではなく、とっても不思議な場所に行って、建物でもいいし、少々日常から脱したその空間に自分が入っていったときに感動を覚えたときのものに近い様な気がする。
ストラヴィンスキーの並はずれた才能と比較のしようがない、これもまたドビュッシーしかなしえないような、天賦の才能にのみ聞こえた音楽なんだろう。
最近、こういう幾層にも重なっている深さのある音楽がなんかびりびり琴線に触れてしまう。
初めて聴いたとき(というか初めての体験は、誰かの演奏を聴いたのではなく、自分で弾いた時なのだが)から惹き付けられてはいたけど、やっぱり数十年経った今の方がそのそこはかとない面白さが体を突き抜けていく。
これはやはりピアノというペダルを持った楽器でなしうる独特の音風景だろう。
ピアノが楽器として育っていく過程に於いて、実はモーツァルトやハイドンも時にペダルに言及し、その創生期の特性を面白く活かした曲もあるけど、やっぱりショパンがある意味、初めてペダルによる独特の表現をピアノに与え、ドビュッシーが別の意味で、革命的に「ピアノじゃないとできない表現」をペダルとピアノに与えた様な気がする。
たしかに、ラヴェルも音の魔術師だと思うし、ペダルは不可欠な世界だし、ピアノの世界は他の追従を許さない部分があるが、ラヴェルの音世界は、そのまま管弦楽に置き換えられる「実体」を持ったもので有るような気がするし、実際作曲者自身がかなりのピアノ曲をオーケストラに編曲してるね。
しかしドビュッシーのピアノ曲はラヴェルの様には編曲されている率が小さいように思うし、なんというか、他の楽器でやるんでは、無理なんじゃないかなと思う響きがある。
一口に「印象派の音楽」とかいって、ドビュッシーとラヴェルをごっちゃにするくくりが有るけど、あれって、良くわからん。
分類しないと気がすまない輩が言っているだけで、まったく二人の音楽は「本質」が違うと思うし、音楽に於ける印象派って分かるようでなんだかわからない。教えて欲しいな、誰か。
逆に脱線しまくるけど、ドビュッシーの音楽は、ちょっと前の時代のドイツのシューマンの方がラヴェルより本質が近いように思うことがある。
ラヴェルはショパンや、はたまたバロックの音楽に似ていると思う。(爆)
もう寝ないといけないのに何を本番前に書いているのだろう。
脱線ついでに、、
ストラヴィンスキーもペトルーシュカをはじめ、大きな管弦楽曲は誰でも評価するだろし、それに異論はないのだが、あまり演奏されないすごく短い曲なんか、今回はアンコールで数曲弾こうとおもっているんだけど、これが、たまらなく愛すべき「狂気と明るさ」みたいなものがあって、練習していて思ったが、白石准が書いた“どんぐりと山猫”の中には明らかにそれの影響を感じる。
兵士の物語が幼少の頃環境音楽のようにながれていたから、音楽の原風景がそれなんだろうな。
プーランクのソナタは僕が良く弾くプーランクの作品にくらべ、どちらかというとストラヴィンスキーの影響もかなり投影されている時期、つまり少々エキセントリックなスタイルも前面に押し出ているような初期の作品で、あっという間に終わるが一応循環形式で、終楽章には、その前の一楽章と二楽章が再び顔をだす。
この曲も笑って聴く方が楽しい。なんかストラヴィンスキーにも感じるけど、西洋のちんどんやさんが来たぞ、踊るしかないだろうって感じがいいね。(爆)
タンスマンは今回取り上げられる作曲家の中ではもっとも知られていない作曲家だけど、結構教育には有効なしゃれた曲が多いことを自分は知っていて昔ピアノのレッスンで良く使った。
そのシリーズの一つが今回の4つのフーガだ。
四冊からなる連弾のシリーズなのだが、巻を追うごとに難易度は高くなる。
しかし、3巻までの曲は平易な中にとっても様々な景色の浮かぶ曲が多い。
それもそのうちとりあげてみたいが、そのなかで、一番「真面目」な曲がこのフーガだ。
バッハへのオマージュも感じるし、コンサートを始めるにはもってこいだろうな。
この曲は音楽を愛する人のみならず、詩歌や絵画を愛する人、あとアロマテラビーや香水が好きな人にとてもアピールしそうな音楽だ。
音楽で魂を浮遊させるというか、これぞドビュッシーの真骨頂だなと思う。
決して唸らせるような運動能力の高い、自己顕示欲を刺激するものはそこにはなく、音の質感のコントラストによる投影、あるいは、音に温度や前述のような香りを感じてしまう不思議な世界だ。
これは、たしかに客観的な風景を表した音楽と言うのは危険だけど、恋人を求めたり抱き合ってドラマティックに気持ちを吐露する種のものではなく、とっても不思議な場所に行って、建物でもいいし、少々日常から脱したその空間に自分が入っていったときに感動を覚えたときのものに近い様な気がする。
ストラヴィンスキーの並はずれた才能と比較のしようがない、これもまたドビュッシーしかなしえないような、天賦の才能にのみ聞こえた音楽なんだろう。
最近、こういう幾層にも重なっている深さのある音楽がなんかびりびり琴線に触れてしまう。
初めて聴いたとき(というか初めての体験は、誰かの演奏を聴いたのではなく、自分で弾いた時なのだが)から惹き付けられてはいたけど、やっぱり数十年経った今の方がそのそこはかとない面白さが体を突き抜けていく。
これはやはりピアノというペダルを持った楽器でなしうる独特の音風景だろう。
ピアノが楽器として育っていく過程に於いて、実はモーツァルトやハイドンも時にペダルに言及し、その創生期の特性を面白く活かした曲もあるけど、やっぱりショパンがある意味、初めてペダルによる独特の表現をピアノに与え、ドビュッシーが別の意味で、革命的に「ピアノじゃないとできない表現」をペダルとピアノに与えた様な気がする。
たしかに、ラヴェルも音の魔術師だと思うし、ペダルは不可欠な世界だし、ピアノの世界は他の追従を許さない部分があるが、ラヴェルの音世界は、そのまま管弦楽に置き換えられる「実体」を持ったもので有るような気がするし、実際作曲者自身がかなりのピアノ曲をオーケストラに編曲してるね。
しかしドビュッシーのピアノ曲はラヴェルの様には編曲されている率が小さいように思うし、なんというか、他の楽器でやるんでは、無理なんじゃないかなと思う響きがある。
一口に「印象派の音楽」とかいって、ドビュッシーとラヴェルをごっちゃにするくくりが有るけど、あれって、良くわからん。
分類しないと気がすまない輩が言っているだけで、まったく二人の音楽は「本質」が違うと思うし、音楽に於ける印象派って分かるようでなんだかわからない。教えて欲しいな、誰か。
逆に脱線しまくるけど、ドビュッシーの音楽は、ちょっと前の時代のドイツのシューマンの方がラヴェルより本質が近いように思うことがある。
ラヴェルはショパンや、はたまたバロックの音楽に似ていると思う。(爆)
もう寝ないといけないのに何を本番前に書いているのだろう。
脱線ついでに、、
ストラヴィンスキーもペトルーシュカをはじめ、大きな管弦楽曲は誰でも評価するだろし、それに異論はないのだが、あまり演奏されないすごく短い曲なんか、今回はアンコールで数曲弾こうとおもっているんだけど、これが、たまらなく愛すべき「狂気と明るさ」みたいなものがあって、練習していて思ったが、白石准が書いた“どんぐりと山猫”の中には明らかにそれの影響を感じる。
兵士の物語が幼少の頃環境音楽のようにながれていたから、音楽の原風景がそれなんだろうな。
プーランクのソナタは僕が良く弾くプーランクの作品にくらべ、どちらかというとストラヴィンスキーの影響もかなり投影されている時期、つまり少々エキセントリックなスタイルも前面に押し出ているような初期の作品で、あっという間に終わるが一応循環形式で、終楽章には、その前の一楽章と二楽章が再び顔をだす。
この曲も笑って聴く方が楽しい。なんかストラヴィンスキーにも感じるけど、西洋のちんどんやさんが来たぞ、踊るしかないだろうって感じがいいね。(爆)
タンスマンは今回取り上げられる作曲家の中ではもっとも知られていない作曲家だけど、結構教育には有効なしゃれた曲が多いことを自分は知っていて昔ピアノのレッスンで良く使った。
そのシリーズの一つが今回の4つのフーガだ。
四冊からなる連弾のシリーズなのだが、巻を追うごとに難易度は高くなる。
しかし、3巻までの曲は平易な中にとっても様々な景色の浮かぶ曲が多い。
それもそのうちとりあげてみたいが、そのなかで、一番「真面目」な曲がこのフーガだ。
バッハへのオマージュも感じるし、コンサートを始めるにはもってこいだろうな。
★2006/1/8連弾のコンサートwith小坂圭太その1
2006-01-07
この日は、友人のピアニスト、小坂圭太氏と、神奈川県の湘南海岸のそば、二宮というところにある、サラ・フローラという個人宅のサロンのベーゼンドルファーピアノで、タンスマン(4つのフーガ)、プーランク(ソナタ)、ドビュッシー(6つの古代のエピグラフ)、そしてストラヴィンスキー(ペトルーシュカ)というすべて元々連弾か、連弾に編曲されたものを弾くことになっています。ストラヴィンスキー以外の作品もとても個性的な作品で、色々記述したいのだけど、今回のこの記事の趣旨は、一つに絞ろう。
それは、ペトルーシュカの連弾は、はっきりいって、聴いている人に深刻に聴いてもらうよりげらげら笑ってもらいたいなあということです。
昨年の横浜の山手の洋館で、スクリアビンのソナタを弾き終わったとき、熱心な拍手の中、ピアノのすぐそばにいらした紳士が大笑いして喜んで頂きました。
そういう反応が実に嬉しいし、今日の練習で、当事者達が弾きながら笑い転げていました。
なんというかな、ストラヴィンスキーのこの曲は、二人がかりで四本の手でも足りないくらい様々なパートが錯綜しているわけです。
スコアにはオプションのパートが書いてあるところがあるんだけど手が足りなくて弾けないよ、しかもそれは、ピアノ協奏曲風であるこの作品の、よりによってピアノのパートだったりする(爆)
良く名人が独りで抜粋の編曲(作曲者自身がやったもの)をやるときは、ある意味、「すごいことを独りで弾いている」という感じに真面目にならざるをえないというか聴いていてもすごいなあと思います。決して笑い転げる雰囲気じゃない。
しかしちょっといかれたような男が二人、一台のピアノで格闘(相手とじゃなくて曲に)していると、「俺たちの頭にはオーケストラが鳴ってるんだよ、でも鍵盤が狭くて弾けねえよ、あるいは太鼓の音をピアノでどうしろっていうんだよ」みたいな、、、でも恐ろしく忙しい事を弾いている滑稽さを感じます。
実際連弾の面白さでもあり、二台ピアノより難しい手の交差故の制限はここにもあって、同じパートを二台のピアノに分けて弾いたら、楽になるところもあるだろうけど、僕は二台ピアノより連弾の方が、ある意味制限が多い。
しかしドラマ的には面白いと思う(二台ピアノは、時に暴力的にしか聞こえない)ので、手がぶつかって楽に弾けない面白さ(なんじゃそれ)を感じて頂ければ(違)良いと思います。
そのためには、この作品のオリジナルの楽器での響きを「あらかじめ知って」おいたほうが、絶対にこの無理矢理感に笑えと思います。
手が足りない、あるいは手が重なっている故に抜けている音が頭のなかで聞こえた方が面白いはずです(爆)。
ピアノは一台で色々な管弦楽曲をシミュレートすることができる希有な楽器と言えます。
しかし、音階を弾かない打楽器(ドンとかチンとか太鼓、金属グループ)の再現をピアノの鍵盤上でするのは不可能でしょう。
否応なしにドとかソとか聞こえちゃうから。
前回、もう十年近くまえかなあ、に門仲天井ホールで彼と同じ曲をやったとき、トライアングルのソロの場面、なんの打ち合わせもなく、本能的に二人は、ピアノの鍵盤の裏側の棚板を(なんで二人とも同時にやってたんだ)叩いていましたが、あれはオリジナルを知らない人は、発狂したとしか思えないでしょうし、僕らの頭の中はトライアングルのつもりだったとは分かるわけない。(爆)
今回は、思いつきで、なんと本物のトライアングルをそこだけ使いますが(誰が叩くのか当日まで秘密)、それ以外にも、場面の転換とか、太鼓の連打があちこちに重要な役回りで出てきますが、それを小坂氏がとりあえず、鍵盤でやっています。
その行為を「これは、あの場面の太鼓なんだな」と分かるのと、「あの人乱暴に暴れてるけどなにやってんの?!」と思うのじゃ雲泥の差です。
フルートのソロやトランペットのソロ、クラリネットのソロや、チューバやハープを無理矢理ピアノでやるわけですから、それは僕風には、「笑っちゃう」ことで面白がって欲しいです。
このピアノの連弾によって、ペトルーシュカという曲を生まれて初めて聴く人は気の毒です。(爆)
華麗な「ピアノ独奏版」では、全体から「どう考えてもピアノでは妙になる」ところを省いていますし、ある意味でピアノの曲だと思って聴いてもおかしくないようになっています。
オリジナルの長さで全部独りで弾いたのも聴いたことはあるけど通常は、三章という名前が付いているやつでやります。それも大変に難しいけれども、、。
今回は、バレエの稽古ピアノ(きっとそういう為に出版されているのだろうね)よろしく、全部やりますから、無理も多いけど、こんな寒い日なのに、弾き出したら汗だくになりました。(爆)
同じパッセージでもある楽器が楽に吹けるものも、ピアノではとても弾きにくくなったり、逆もありますし、そういう「無理矢理」というのが彼と連弾するときに、必ず「オリジナルがピアノではないもの」を選曲する楽しみなのです。
もちろん、もともとピアノの為に書かれた他のプログラムも、とても面白いです。
お陰様で満員札止めになっているけど、一回で終わっちゃうのはなかなか残念な相手と曲です。
★2005/12/07新日本フィル室内楽シリーズ
2005-12-07
自分にとって一番たくさん呼んでもらっているオーケストラの団員による室内楽シリーズに光栄にも初めて出演させてもらった。会場はいつもこのオーケストラが定期演奏会をやる東京のすみだトリフォニーホールではあるが、このシリーズは大ホールではなく小ホールで行われていて自分としては初めて弾くホールでもあった。
室内楽といういわばクラシック音楽のジャンルの中でももっとも地味に思われている分野ではあるけどこのシリーズはいつも売り切れているらしくそれはすばらしいことだと思いました。
しかも曲自体聞いたこともない作曲家(クルークハルト)の「葦の歌」というもので、編成も実に珍しいオーボエ(古部賢一氏)とビオラ(岩井香保里氏)とピアノだった。
もっと珍しいことは全ての楽章に詩が書いてあるのだ。
歌われることや朗読されることを想定されているわけでなくあくまで演奏者だけがイメージするためのものだ。
古部氏は僕にとっていつかオーケストラだけでなく室内楽で共演したいと何年も思っていたので彼から夏にこの話をもらったときは興奮した。
チャーミングな岩井さんとも知り合えてよかった。(^^)
演奏はなかなか楽しかったがそれとともに会場のスタインウェイピアノがまたとてつもなく良い楽器だった。
ホールの人に楽器を絶賛したら案の定かのアルヘリッチもお気に入りだそうだ。
共演者にも曲にも楽器にも魂を揺さぶられた一日でした。
★2005/7/24(日)白石准がMFYサロンにあるベーゼンドルファーを弾く会3
2005-07-25

今回は、ほぼ20年ぶりに再会したオーボエの福田雅夫氏とのDuoである。
彼は、現在ドイツのリューベックに在住し、オーケストラの仕事をしているが、夏休みで帰省したチャンスに、このサロンを管理している青少年音楽協会の主催で(タイトルは自主公演のままだけど)フランスの三人の作曲家、サン・サーンス、プーランク、デュティユのオーボエのソナタを演奏した。
合間にフォーレやラヴェルのピアノ独奏もした。
アンコールがあったので、妹君の、ウタコちゃんの踊り付きでマイケル・ヘッドのプレストという曲を演奏した。
彼とは大学の時に出会った。そしてそれがきっかけで、彼の家族(バレリーナや指揮者)とも全部仕事上おつきあいができ、特に、母君の雑賀淑子さんには、拙作の“どんぐりと山猫”を二度もバレエにしてもらったし、八王子車人形とのつきあいが僕にはあったので、紹介したら、バレエと車人形という異色の組み合わせで、おやゆび姫をスコットランドに公演しに行ったり、自分の作曲で、古事記を題材とした作品などを作曲することになったりした。
今回演奏したMFYサロンの元の持ち主、エロイーズ・カニングハム女史もこの出会いから交流ができたので、今回彼と共演したことは、ある意味当然の帰結なのだ。
彼はすぐにパリに留学してほとんど学生時代は付き合いはなかったのだが、しばらくして、
び〜た日記にフランスでの出来事のことをつづったおりに、この文章には彼は登場しないが、このコンクールのあと、一週間くらい彼のアパルトマンに滞在したことがある。
初めてのパリだったが、このとき受けた様々なカルチャーショックは忘れられない。
そういう意味でも今回実に久しぶりに共演できたことを嬉しく思います。
★白石准がさくらアートホールのベーゼンドルファーピアノを弾く会9 2005/7/10
2005-07-10
今日は18世紀の音楽だけ弾いた。
前半は、偶然にも1685年生まれの三人の作曲家。
ゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデル:ファンタジー ハ長調
ドメニコ・スカルラッティ:ソナタホ長調 K.46,ハ短調 K.115,ニ長調 K.96
ヨハン・セバスチャン・バッハ:パルティータ第一番変ロ長調
後半は、対極的な同時代人。
J.S.バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル(C.P.E)・バッハ:
ソナタ第一番Wq55-1(通と愛好家の為の曲集第一集より)
ソナタ第一番Wq56-1(通と愛好家の為の曲集第二集より)
アマデウス・モーツァルト:ピアノソナタヘ長調 Kv.332
曲の対照はすごいです。
C.P.Eバッハはチェンバロで演奏されることが多かったとはいえ、後半の曲目はもうピアノという楽器の黎明期のものですな。
----
これ以降は7/16に補足したものです。
スカルラッティはピアノを弾いたんだ
雑記帳のブログにも自分で自分へコメントしたんだけど、
渡邊順生氏のページにピアノの成立の事が記されているんだけど、どうやら、スカルラッティは僕が考えていたよりもピアノという楽器(もちろん発明されたばかりの)に触れていたらしい。
とても参考になるページです。
フォルテピアノのページを参照して下さい。
前半は、偶然にも1685年生まれの三人の作曲家。
ゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデル:ファンタジー ハ長調
ドメニコ・スカルラッティ:ソナタホ長調 K.46,ハ短調 K.115,ニ長調 K.96
ヨハン・セバスチャン・バッハ:パルティータ第一番変ロ長調
後半は、対極的な同時代人。
J.S.バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル(C.P.E)・バッハ:
ソナタ第一番Wq55-1(通と愛好家の為の曲集第一集より)
ソナタ第一番Wq56-1(通と愛好家の為の曲集第二集より)
アマデウス・モーツァルト:ピアノソナタヘ長調 Kv.332
曲の対照はすごいです。
C.P.Eバッハはチェンバロで演奏されることが多かったとはいえ、後半の曲目はもうピアノという楽器の黎明期のものですな。
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これ以降は7/16に補足したものです。
スカルラッティはピアノを弾いたんだ
雑記帳のブログにも自分で自分へコメントしたんだけど、
渡邊順生氏のページにピアノの成立の事が記されているんだけど、どうやら、スカルラッティは僕が考えていたよりもピアノという楽器(もちろん発明されたばかりの)に触れていたらしい。
とても参考になるページです。
フォルテピアノのページを参照して下さい。

★10月に幕を開ける

