大は小を兼ねない
2006-11-14
死期が迫った状態の治療
2006-03-28
末期患者の人工呼吸器を医師がはずしたという事件のニュースが今世の中を巡っている。
尊厳死だったのか、あるいは、医師の横暴なのか、立場によって議論が進むのをみてどういう判決が生成されるのか興味がある。
今日は直接その事件についてというより、「これ以上治療してもいかがなものか」という局面に遭遇した自分の経験から思い出したことを書いてみたくなった。
かつて、自分の叔母も末期癌で最後は目を背けたくなる苦しみ(病棟のそのフロア全体にこだまするぐらいの声をあげて苦しんでいたらしい)に、叔父は「楽にしてやって下さい」とお医者さんに懇願したそうだ。
こういった場合、そういう近親者の言葉にすぐに同意し、延命治療をやめたとたん「殺人」に手を貸したと断定されてしまうリスクがあるから、医師はどういう対処をするか一筋縄ではいかないのだろう。
その後すぐに亡くなったのだけど、その最後の選択肢が延命治療の甲斐なかったのか、自然の成り行きにまかせてその日がきたのかは、甥の僕には知らされなかったけど、安楽死、尊厳死、この言葉の意味には微妙なニュアンスの違いがあるのだろうが、やはり、「生きている以上医療は患者を限界まで生かせ」という原則論だけで、「治療することだけが正義」になるかというとそうも言えないのだろうなあ。
父が、くも膜下出血で倒れたあと、しばらくたって、これからの治療方針について主治医と僕が相談したとき、僕は「年齢を考えて一命を取り留めてもそうとう重い障害が残る」ということを聴かされて、そうやって寝たきりの余生を父が望んでいるとはおもわなかったし、幸運なことに、両親は、あらかじめこういう「非常事態」が起きたときには、「不必要な延命治療は行わないこと」という家族としてのガイドラインを相談をしてくれていたので、その意志を伝えると、いくつかの治療の方法を説明して下さったあとに、「何もしない」ことも選択肢の一つです」と言ってくれたのが心強かったです。
大学病院だったせいもあり、担当していた別の若い医師からは、やはり使命感と、たぶん試みたいこともあったのでしょう、僕に「可能性は0ではないのだからあきらめないで、僕の薦める方法を試して下さい」とのありがたいアドヴァイスもいただきました。
先ほど書いた、面談してくださったベテランの医師は、ご自分の体験も交えて親身に聴いて下さって、「僕が何もしなかったこと、を選択することで、周りの人々にどう思われるのか」ということは、決して「逃避」ではなく「勇気ある選択」でもあるというふうに、ある意味客観的に「様々な選択肢それぞれに正当性はある」ということを教えてくれたのが未だに忘れられない分岐点でした。
その後しばらくして、父は亡くなりましたがある意味、尊厳死という意味からこの場合ははずれているかもしれないが、目の前で自分を産んだ人が亡くなるという、親が子供に伝える最後で最高の「真実むきだし」のドラマを見せられて、自分が生まれたことで親は生命の連鎖をかつて学んだのだろうし、親が死ぬ(死んでみせいる、とその時は思ったくらいだ)ことで子供は同じことを逆から学ぶのだと思いました。
だから自分にとっては、父の死からは「尊厳」を感じることができたのです。
苦悶の表情から安らぎの表情に変わっていったのをみながら、「おやじ、ずるいな。こんなこと俺がおやじにむかって見せることは不可能というより正当に受け入れられないことだものな、かなわないよ、親しかできないすごいもの見せてくれてありがとう」と、客観的にみたら実に妙に平安な感想が最初に脳裏を駆けめぐったのを覚えています。
問題が、いまや遺族だけど、治療している当事者の方達と担当した医者の意思の疎通がうまくいってなかったことにあったとすれば、この事件の意味はもしかしたら単純な気がするけど、医師にも感情があるわけで、どういう選択肢が正しかったのかということにおいて、どうしても、「亡くなっちゃった事実」から、マスコミは「医療側」を悪者にしたてあげる風潮があるように思うけど、そんなに単純な事件ではないような気がします。
末期医療というのは、部外者の僕が想像しても、医療に従事する側にとって毎日のど元にナイフをつきつけられてどちらを選んでも100%正当化されるものはない実に過酷な世界なのだろうと察します。
尊厳死だったのか、あるいは、医師の横暴なのか、立場によって議論が進むのをみてどういう判決が生成されるのか興味がある。
今日は直接その事件についてというより、「これ以上治療してもいかがなものか」という局面に遭遇した自分の経験から思い出したことを書いてみたくなった。
かつて、自分の叔母も末期癌で最後は目を背けたくなる苦しみ(病棟のそのフロア全体にこだまするぐらいの声をあげて苦しんでいたらしい)に、叔父は「楽にしてやって下さい」とお医者さんに懇願したそうだ。
こういった場合、そういう近親者の言葉にすぐに同意し、延命治療をやめたとたん「殺人」に手を貸したと断定されてしまうリスクがあるから、医師はどういう対処をするか一筋縄ではいかないのだろう。
その後すぐに亡くなったのだけど、その最後の選択肢が延命治療の甲斐なかったのか、自然の成り行きにまかせてその日がきたのかは、甥の僕には知らされなかったけど、安楽死、尊厳死、この言葉の意味には微妙なニュアンスの違いがあるのだろうが、やはり、「生きている以上医療は患者を限界まで生かせ」という原則論だけで、「治療することだけが正義」になるかというとそうも言えないのだろうなあ。
父が、くも膜下出血で倒れたあと、しばらくたって、これからの治療方針について主治医と僕が相談したとき、僕は「年齢を考えて一命を取り留めてもそうとう重い障害が残る」ということを聴かされて、そうやって寝たきりの余生を父が望んでいるとはおもわなかったし、幸運なことに、両親は、あらかじめこういう「非常事態」が起きたときには、「不必要な延命治療は行わないこと」という家族としてのガイドラインを相談をしてくれていたので、その意志を伝えると、いくつかの治療の方法を説明して下さったあとに、「何もしない」ことも選択肢の一つです」と言ってくれたのが心強かったです。
大学病院だったせいもあり、担当していた別の若い医師からは、やはり使命感と、たぶん試みたいこともあったのでしょう、僕に「可能性は0ではないのだからあきらめないで、僕の薦める方法を試して下さい」とのありがたいアドヴァイスもいただきました。
先ほど書いた、面談してくださったベテランの医師は、ご自分の体験も交えて親身に聴いて下さって、「僕が何もしなかったこと、を選択することで、周りの人々にどう思われるのか」ということは、決して「逃避」ではなく「勇気ある選択」でもあるというふうに、ある意味客観的に「様々な選択肢それぞれに正当性はある」ということを教えてくれたのが未だに忘れられない分岐点でした。
その後しばらくして、父は亡くなりましたがある意味、尊厳死という意味からこの場合ははずれているかもしれないが、目の前で自分を産んだ人が亡くなるという、親が子供に伝える最後で最高の「真実むきだし」のドラマを見せられて、自分が生まれたことで親は生命の連鎖をかつて学んだのだろうし、親が死ぬ(死んでみせいる、とその時は思ったくらいだ)ことで子供は同じことを逆から学ぶのだと思いました。
だから自分にとっては、父の死からは「尊厳」を感じることができたのです。
苦悶の表情から安らぎの表情に変わっていったのをみながら、「おやじ、ずるいな。こんなこと俺がおやじにむかって見せることは不可能というより正当に受け入れられないことだものな、かなわないよ、親しかできないすごいもの見せてくれてありがとう」と、客観的にみたら実に妙に平安な感想が最初に脳裏を駆けめぐったのを覚えています。
問題が、いまや遺族だけど、治療している当事者の方達と担当した医者の意思の疎通がうまくいってなかったことにあったとすれば、この事件の意味はもしかしたら単純な気がするけど、医師にも感情があるわけで、どういう選択肢が正しかったのかということにおいて、どうしても、「亡くなっちゃった事実」から、マスコミは「医療側」を悪者にしたてあげる風潮があるように思うけど、そんなに単純な事件ではないような気がします。
末期医療というのは、部外者の僕が想像しても、医療に従事する側にとって毎日のど元にナイフをつきつけられてどちらを選んでも100%正当化されるものはない実に過酷な世界なのだろうと察します。
男と女の世界観の差
2006-02-07
一時期より最近は自転車に乗っている時間が多く、少し痩せてズボンが緩い。
でも自転車に乗ってダイエットを過度に期待しているつもりはない。
だって朝走っていると近所の高校生か中学生の女の子が坂のある道を走っているが、すごく太っている子もいるから、毎日自転車で坂を登ったくらいじゃ痩せないというのは明白だ(爆)
単に体力をつけられれば良いし、継続した結果、痩せればいい。
それよりも自分の住んでいる地域はちょっと走るとすごく素敵な自然の風景が拡がる訳で、それを「体感」するのが良い。
自分が弾いた演奏会の終わった後に、暴飲暴食をするのが生き甲斐なのだが、それじゃ走った意味がないと馬鹿にされたりするが、何もしないで飲むよりはその前に運動すればましだろう。
痩せると言うことについて、これは自分の言葉じゃないが、誰かに聞いて気に入っている言葉がある。
「男は死にたくないから痩せようとする」
「女は死んでも痩せようとする」
いつも無駄に長い文章を書く悪い癖があるからこれ以上は今日は書かないことにする(爆)
でも自転車に乗ってダイエットを過度に期待しているつもりはない。
だって朝走っていると近所の高校生か中学生の女の子が坂のある道を走っているが、すごく太っている子もいるから、毎日自転車で坂を登ったくらいじゃ痩せないというのは明白だ(爆)
単に体力をつけられれば良いし、継続した結果、痩せればいい。
それよりも自分の住んでいる地域はちょっと走るとすごく素敵な自然の風景が拡がる訳で、それを「体感」するのが良い。
自分が弾いた演奏会の終わった後に、暴飲暴食をするのが生き甲斐なのだが、それじゃ走った意味がないと馬鹿にされたりするが、何もしないで飲むよりはその前に運動すればましだろう。
痩せると言うことについて、これは自分の言葉じゃないが、誰かに聞いて気に入っている言葉がある。
「男は死にたくないから痩せようとする」
「女は死んでも痩せようとする」
いつも無駄に長い文章を書く悪い癖があるからこれ以上は今日は書かないことにする(爆)


★10月に幕を開ける

