行ってみたら話が違った(爆) - 2013.01.19 Sat,22:13
高山市民吹奏楽団のサイトはこちら。
まだ今年の定期演奏会のお知らせはこの時点では出ていませんが。
実は、数日前、実際にその日に演奏する曲目を決めたいことと、指揮者の先生に紹介したいからもし、可能なら来て下さいと、僕の長年の知り合いであるO氏から突然メールが来て、こういう運びになったのです。
しかし実際に行ってみて予想していた「新年会」とは違い、中には正装というかきちんと背広で身を包んでいらっしゃる方も多く、部屋に入るときでさえ、「ちょと待って」と言われ、司会者の人が長々僕の紹介をしたあと、「では、どうぞ!」見たいな登場の仕方をする羽目になりました(爆)
で、僕の格好と来たら、メールに「高山はとても寒いので防寒を忘れずに」と書いてあったので、下半身は裏に起毛のあるユニクロの所謂「暖パン」で、上はちょっと破れたセーター(爆)、腰にはウェストポーチ、髪はけっこういつものようにぼさぼさ。
流石に、飲み会だからカメラを持っていってもしょうが無いなと思ってホテルに置いてきて持参しませんでした。
誰が見ても、ピアノ弾きには見えない、あまりにカジュアルな格好で、座敷だから五本指靴下も丸見え(爆)
こんな集まりだと知っていたらもうちょっとマシな格好で現れたのに、初めての人も多いから「ありゃ、なんだ」と思われたに違いありません(爆)
で、この下の写真にあるとおり、撮っている僕の座っている位置がどういう所か一目瞭然ですね。
焦りました。

しかも、結婚式の様に、床にはここまで「具体的」な状態。
冷や汗がでてくるよ(爆)
僕はてっきり普通の居酒屋で盛り上がっている中に、「いやいや、まあまあまあ、初めまして」(爆)的な登場の仕方の感じを予想していました。

そういえば、高山って、凄く仕来り(をを、しきたりってこう書くのか)がしっかりしている場所であることを思い出しました。
このblogをはじめる(2005年)前になりますが、確か前回高山で、この街出身で、今は芸大の先生、元NHK交響楽団のトランペットの栃本浩規氏と弾いたのが、2004年。
その時の打ち上げもこの場所で、飛騨牛の最高のお肉を食いまくった記憶があり、当時はblogではなく、みなさんとの交流のためにやっていたネットの掲示板でも写真入りで紹介した記憶がありますが、こういう集まりの時には、「めでた」と称される、そうだな、正確な書き方じゃないかもしれないけど、「木遣り」や「甚句」みたいな唄をみなさんで唱和するのが習いなのです。
今回も前回と同じく、一人の独唱者(この方は面識がある楽器屋さんの社長さん)がリードして、全員がすばらしいユニゾンで、小節(もちろん「しょうせつ」じゃなくて、「こぶし」)をを効かせたものを聴かせて貰いました。
隣の副団長の方に、「高山での酒席の仕来り」について教えて貰ったところに依ると、始まってしばらくは隣同士で歓談し酒を飲みますが、遠いところに座っている人の所に酒を継ぎには行かないのです。
そしてエンジンが掛かりはじめた頃、「めでた」という祝い唄をみんなで斉唱すると、その直後からみんなが動き出し様々なところで会話が弾むようになります。
で昨日も実際皆さんが動き出したのもこの唱和の後でした。
付け加えると、高山の結婚式は、東京辺りの、大体三時間くらいで済むものとは違い、だいたい6時間、長いときには一晩中酒席が続くそうです。
凄すぎますね。
街並みも国際的に有名な(今日雪の中歩き回りましたが、カメラを抱えた外国人の観光客も多かった)古き日本の風情でしたが、外側だけではなく、飲み方もルールが厳格に守られている事に再び感銘しました。
で、僕の得意の泥酔状態を初対面の人の前で見せる前に、自己紹介をしたかったので、(最初させてくれなかった)強引にしらふの間に自己紹介とこの演奏に対する抱負を述べさせて頂きました。
何度も高山には来ているので僕の演奏を良くご存じの方もいらっしゃいますが、半分以上初めての方もいらっしゃるので、旧交を温めるのと同時に新たな人達との会話を楽しみました。
そして一昨年と同様、concertoを二曲弾くことになりました上に、第二部ではほとんどジャズのスタイルのステージでそれも手伝うことになり、とってもタフな演奏会になることが決まり、身が引き締まる思いでした。
また思い出に残る演奏会になればいいなと思った次第です。
Rolandの創業者、梯さん、グラミー賞受賞おめでとうございます! - 2012.12.15 Sat,12:43
梯(かけはし)郁太郎さんが受賞された事を知った。
http://mainichi.jp/select/news/20121215k0000m020143000c.html
シンセサイザーや電子ピアノ、電子オルガン、そして、今回の受賞された部門、電子楽器やそれとComputerを繋ぐ企画のMIDI(Musical Instrument Digital Interfaceの略)に関して制定、そして各社のばらばらだった企画を統一して互換性を高める事を提唱し、実現した、GM(General MIDI)の規格。
もう相当なお歳であるのに、衰えることの無い、もの凄い創造欲に溢れた偉人の一人だと思います。
やっぱり何か他の人のやらないことをやり始めた人というのは凄いオーラがあります。
このblogを見に来ている人も、僕のほとんどの共演者も、習っている人も、僕の事を、Pianoなどの「生の楽器」を演奏し、そういうclassic系の作曲をする人だと認識しているでしょうが、どっこい、1/4以上は電子楽器とは密接な生活をしているのは、Rolandとのご縁がきっかけと言って良いのです。
僕とのファーストコンタクトが、電子キーボードだった場合、僕は「Keyboardを弾く人」と認識され、かつて、黛敏郎さんご存命中の「題名のない音楽会」の収録の時、Synthesizer奏者として参加していて、たまたまPianoが空いていたので休憩中弾いていると、スタッフから「え?白石さんって、Pianoも弾けるんですね」と云われた事だってあるわけですよ(爆)
初めてRolandという会社の人達とご縁が出来たのは、昭和天皇が逝去される直前、様々なコンサートが自粛ムードで中止されていた時期ですから、平成になる直前の事です。
その後、1992年頃だったか、日中友好20周年記念のイヴェントで、テレビ朝日のクルーとRolandのクルーと一緒に北京まで行って、シンセを演奏してテレビに出て「八木節を歌ってきた」という白石准の隠された人生のエポック(爆)、がありましたが、それをきっかけにとてもRolandと近くなりました。
現地のプログラムには、「白 石准」と、名字が「白」と綴られていたし(爆)、そのコンサートの折り、舞台袖で僕をみて居た、向こうのオーケストラの人たちが居たが、彼らにとって、僕がMozartを弾くなんて信じられないだろうなと思いながら弾いていたぞ(爆)
当時は、クラシック音楽系の音楽家でMIDIに傾倒している人はあまり多くなかったので、Rolandのセミナーやシンポジウムに頻繁に呼ばれて仕事を頂いていた折に、梯さんとは良くお会いして、僕の事も面白がって下さっていたし、まずその尽きぬ情熱に圧倒されたものでした。
(もし僕が演奏家を廃業して会社員になるとしたら、絶対にこの会社に入りたいとまで思った時期もあります。)
だから、そのご縁で、もう今は現行機種では無いけど、かつての家庭用の電子ピアノのデモ演奏には僕が弾いたグリークの小品が入って居たりします(爆)
(その録音は浜松のファクトリーでやりましたが、ほとんど明け方近くまで掛かって、朝9時に東京の玉川大学に戻って授業があったので、寝ないでRolandの社員と始発まで飲んでから行ったら、学生に「お酒臭い」と言われたことを思い出した(爆))
Wikipediaにもその一端が紹介されていますが、それだけ摘まんで読んでも、「ただ者では無い」感じがするでしょう。
彼の自叙伝もかつて読みましたが、その生涯は波瀾万丈、読み物としても面白いのでご紹介します。
![]() | ライフワークは音楽 電子楽器の開発にかけた夢 (2001/04/11) 梯 郁太郎 商品詳細を見る |
どこか、誰も考えなかったことを着想するという点では、Appleのスティーヴ・ジョブスに似ている所を感じます。
(Mac遣いの僕にとっては残念ながらRoland製品は、AppleよりWindows寄りなところが多くあったけどな(爆))
今は日本の企業がとても元気をなくしているけど、この分野じゃ、世界のブランドとして誇りを持って「日本の造ったtechnology」の会社と言えるものでしょう。
僕の人生に於いて、RolandとAppleのMacintoshという二つの夢溢れる20世紀の新しい会社の製品との出会いがあったからこそ、譜面は鉛筆を使わず、1991年くらいからMacのFinaleで書くようになったし、Musicalの中でSynthesizerのマニュピレートを覚えたし、電子楽器を弾くことが「片手間」ではなく本気の仕事になったし、MIDIを使って作品も残したし、20世紀に産まれたのだから電子楽器抜きの音楽生活は考えられないし、それを「きわもの」として考えているclassic系の人が居るとするならばそれは完全な間違いだと思います。
もう過去の思い出のみが残ってしまった門前仲町と、ハート型の口の「顔」 - 2012.12.09 Sun,08:16

悲しいことに、この建物の八階、そう、天井のある所の空間だったから、その名も
門仲天井ホールのあった場所は、テナントとして、借り手を募集していました。
このblogの開設当初の最初の頃の記事に、このホールで演奏した、初めての「語り手二人ヴァージョン」の“セロ弾きのゴーシュ”と“どんぐりと山猫”の話題の記事を載せています。
最近では、昨年3.11の地震の後に行って一曲弾いた記憶はあるけど、2007年くらいにCDを録音した時の記事がまともに演奏した最後の写真になってしまったかな。
かつてはここを本拠地として、独奏や、仲の良い共演者たちと、何十回もConcertをやった歴史、それは、白石准が自主企画の演奏会ををした歴史そのもの、そして今は八王子の両輪山龍谷寺にその活動の中心が移りましたが、習いに来ている人たちの発表会そのものの歴史がここにありましたが、閉鎖の危機になった時(経営破綻ではなく、様々な事情でこうなってしまった事については、昨年だったか、ある新聞にも大きく取り上げられていた)に、何もできなかった。
(でも、ここでやったConcertの事、ほとんど記事にしてないんだよな(爆)何故なのか考えたら、Websiteを造ったのが、1997年、このblogを開設したのが2005年で、2005年以前はWebsiteにあった掲示板で盛り上がり、しかもWebsiteを開設する1997年以前にも頻繁にやっていたからだと思う。あの“セロ弾きのゴーシュ”の公演自体あそこで弾く久しぶりの物だった記憶があります。)
元はと言えば、開館したばかりの頃(たしか1989年にホールが出来たという記事がここにあるから1990年台初頭だったかなあ)、まだコンテンツがないので困っているという(閉館間際の大盛況が信じられない時期があったのだ)事で友人に紹介されて弾きに行ったが、あまりにPianoがどこかからのお下がりで酷い楽器だった。
そうだ、当時嵌まり始めたモンポウを弾いたから、僕がカザルスホール(当時)でモンポウフェスティヴァルでリサイタルをした1992年より前だったに違いない。
たしかまだ一年目くらいからそこで始めたような漠然とした記憶がある。
これじゃ、この先Concertをするには辛いが、この空間は素晴らしいので惜しいと言ったら無い、とここの管理人の黒崎八重子女史に訴えた。
そして、その後門仲天井ホールの輝かしい歴史を彩る重要な要素になったSTEINWAY Pianoは、ホールが予算で買った楽器では無く、僕が中心になって黒崎女史と手を携えて、聴衆に「Pianoを買って下さい」というキャンペーンを張って寄付を募り、そして新品の小さなPianoを買うことが出来たという、門仲天井ホールは、日本でも希有な「聴衆が買ったPianoを持つホール」だったのです。
だから、単に「昔良く弾いた空間がなくなっちゃった」という郷愁以上の忸怩たる思いがあるのです。
8階にホールはありました。
様々なジャンルのConcertやLive、落語やお芝居、ダンス、そして無声映画の生演奏付き上演、etc,etc,,,,実にクリエイティブな事が行われていた空間だったのです。
それがこんな「8Fテナント募集」の広告が貼られているのを見ると胸が痛みます。
あの高い位置にある窓から見えた景色、Concertの弾いている時も、東京の夜景を見ながら弾いた思い出があるし、休憩時間にお客さんに「窓の向こうに見える月を見ながら演奏を聴くのは贅沢だ」と教えて貰った思い出もあったし、たしか、ニキティンちゃんとのConcertの時は台風上陸の日で、窓に打ち付ける雨と風に負けないブラームスの思い出がありました。
それと、客席は固定されてなく、パイプ椅子をどうにでもならべられる空間でした。
後ろの人が演奏者を見えなくなると困るから、山台みたいなのを後ろの列にはならべて設営するのですが、終演後、常連のお客さん達は、何も言わずに撤収を手伝って下さる伝統がいつの間にか出来て、他のピアニストと合同で演奏会をするときに至っては、撤収の時、「白石さんのお客さん達に任せれば、山台を片づける手順も知ってるわよね」と黒崎女史に言われるようになったくらいでした(爆)
本当に感謝でした。

こんな気分で演奏会後の思い出をブルーにして帰るには辛かったので、そばにある深川不動と富岡八幡宮にとぼとぼ歩いて行きましたら、富岡八幡の社が僕に微笑んでくれました。
しかも、口がハート型でした(爆)

そうだな、門仲天井ホールに縁が出来たお陰で、東京生まれの僕も、この界隈の空気に触れることになったわけだ。
世田谷で生まれ、杉並で育った僕は「もんじゃ焼き」を食べたのも、30歳前後にここでConcertをした後で初めて食ったというくらいだから、「江戸の香り」が残る下町の空気に触れさせてくれたのも門仲天井ホールのお陰でした。
でも、徘徊していて、かつて飲んだ店とかを探したら、いくつかは無くなっていた。
それも、時間の経過を感じる、どうも街は明るく営業しているようで、自分の中では、かつてのこの場所でConcert後、相当高揚してみんなと語り合った時の心に残っている映像さえ、鮮明だった物が川の水面に映った景色の様に何か流れに乱された物になってしまった感じがして、街自体に自分の居場所が無くなっている気さえしました。
高校の時に外のホールを借りて初めてConcertをしたときにも、「摩訶藝術集団」という名前を付けたから、そのせいだけじゃないけど、僕が自分の演奏団体の名前を思いつくとき、山猫合奏団とか、あまり横文字の名前ではないのを付けたがるのは、こういう江戸の雰囲気に触れたせいもあるかもしれない。
八王子車人形(加筆再投稿) - 2012.12.05 Wed,08:57
僕もこの人形達の為に作曲したこともありますし、1996年にはスコットランドのアバディーンにサイガバレエとFlutistの木ノ脇道元ちゃんと「親指姫」などを上演しに行きました。
昨年、スウェーデン大使館で、バレエと琵琶と笛のコラボレイションがあった際、「非公式勝手なカメラマン」(しかし僕を知らないスウェーデン大使館関係者は、僕を音楽家だとはつゆほども思わなかっただろう(爆))として(爆)参上したときに撮ったものです。
品のある顔ですが、下の写真とは向きが違うだけで表情が違って見えますね。
かつて稽古場に訪れたときには、彼自身が作っている「頭」(かしら、と読む)もたくさんありました。
人形を造る職人さんの手に寄るものももちろん昔からのものであるけど、自分でも造っちゃうんですね。
見ていると奥様の顔に似ていると思ったものもありました(爆)
さて、これはどっちだろう。
彼が、家元の西川古柳さんです。
文楽とは違い、一人ですべて動かしますが、人形が生きているように動きます。
この日のperformanceの写真はたくさん撮りました。
去年の6月中に出そうと思っていたのに、こんなに時間が経ってしまったけど、近々出します。
それと、この人形の着物は、人間用のものの端切れを使うわけじゃありません。
だって、そうなると、模様だけ巨大になる訳ですから。
この大きさの人形の為に特注だそうだから、凄く貴重でそして高価なものなんですよね。
かつ、人形は踊っている間に自分で着物が緩んでいて直せませんから、この人形に着付けをするときにも緩まないように相当きつく着せるのが時間が掛かるそうです。
そして、何よりも八王子車人形は、三人遣いの文楽と違って、一人で遣うその人形の遣い方にもの凄く特徴があります。
それについては、彼らのサイトでご参照ください。
http://kurumaningyo.comにあります。
EF-S55-250mm F4-5.6 IS
「久しぶり」に連絡が来た相手からの仕事三連発 - 2012.11.20 Tue,13:05
まず、この記事のタイトルと写真は全く関係ないことを書いておきます(爆)
これは、この直前の記事と同じく、福島県いわき市の小玉湖でのものです。
AF-S DX NIKKOR 35mm F1.8G(単焦点)
実は明日から二日間、白石准の人生としてはたぶん最初で最後になるだろう、大きな仕事が控えている。
今までも何回かCDの録音をしてきたし、一回は知り合いのアルバムに独奏を入れたりもしたが、今回はまだ仕事の細かい内容は明かせないが、なんと天下のSONYのスタジオで、SONYの仕事として、独奏ばかりを録音することになっている。
ひょんなことで知り合った相手からだいぶ久しぶりに来た仕事だ。
最高音質で録るのではあるが、残念ながらCDになる訳では無く、再生するデータはネットで聴く事になるからかなり圧縮が加えられるのだけど、自分のここまで経験してきたすべてを出せれば良いなと、わくわく感の方が不安より大きい。
最高音質で録ったものは自分の楽しみだけで聴く事になりそうだが(爆)、それでも最高のSTEINWAY Pianoで最高のエンジニア、ディレクターと共に仕事をすることが一生の思い出になりそうだ。
そのうち、ネットで公開されたら報告をします。
あと、数年前に一度弾いただけの千葉県の少年少女オーケストラの主宰者の佐治さん(この世界ではカリスマ的に有名な先生です。)から先月かな、いきなり電話が掛かってきた。
その時に弾いたデ・ファリャの「三角帽子」の鍵盤パートをまたお願いしたいということだった。
白石准に限らず、この手の「その場限り」の仕事というのは鍵盤奏者には無数にあるが、まさか自分の印象がその人の印象に残っていたとはびっくりだった。
だって、指導している先生は、子供たちの事ばかり気になっているはずだと思っていたし、僕のパートは確かに目立つところはあっても、所詮管弦楽曲の中の鍵盤パートだと思っていたから。
是非とも、と請われたら、こんな名誉な事はないです。
少年少女と書いてあるから、単に「子供たちが頑張っているオーケストラ」と思うかも知れないが、この団体の演奏水準はその辺にある学生や市民オーケストラのレヴェルではない。
眼を瞑って聴くとプロの音だと勘違いするほどの素晴らしいものです。
しかも今回も前回も指揮者が井上道義氏であり、そういう人が指導するのだから推して知るべしということだ。
これは、もう宣伝しています。
http://www.cbs.or.jp/zaidan/perfomance_info/events/130324.html
チラシは、こっちにあります。
来年の2013/3/24(日)です。
いつも満員になるので、来ようと思われる方は(たぶん期待以上の演奏が聴けます)お早めに申し込んでください。
もう一つ。
飛騨高山は、元NHK交響楽団のトランペット奏者、栃本浩規君の出身地で、何度も彼とアンサンブルや独奏の演奏会で赴いた大好きな土地です。
その訪問の度に、地元の彼の友人とは懇意になり、何度深酒に及んだか判らない事になっていますが(爆)、その友人達のブラスバンドからも来年の秋の独奏者としての話が来ました。
まだ色々計画途上なので、詳細は来年になってから公開しますが、何年も連絡を取らない相手からこの時期に三連発のお話を頂いて、「ああ、僕の事、忘れられては居なかったのか、とか、最後に会ったのはいつだか判らないほど昔のことなのに、覚えていてくれたのか」という感慨に包まれます。
継続は力、という当たり前の結論に落ちたくは無いが、歳をとってくると、「続けていて良かった」という事を若い頃に仕事を貰う時の喜びとは違う嬉しさがあるものですね。
Pax CrossOverというバンドの、pianoの代役で沖縄に行って来ます。 - 2012.11.07 Wed,03:03
沖縄出身のリーダーの比嘉一博氏@Tromboneが率いるこのユニットのWebsiteは、ここにあります。
勿論僕が弾いているわけでは無いですが、今回も弾くレパートリーのいくつかがそのSiteの表紙にlinkしてあるYouTubeの動画で視聴する事ができます。
比嘉一博氏とは、かつて、1999年頃だったか、東宝ミュージカル“ローマの休日”という大地真央さん山口祐一郎さん主演の作品以来の知り合いでした。
他のメンバーは、ドラムスの丹 寧臣ちゃんとはもっと昔の宮本亜門演出の“Sound Of Music”からの知り合いでしたが、ドラムスも今回は代役の小野君です。彼とも2003年頃だったか、“ミス・サイゴン”で弾いた時知り合いました。
その他の方々は初めて今回出会いました。
本来のメンバーのピアノの川畑淳氏も最近知り合った仲ですが、彼はJazz系、僕はclassic系だから彼と同じ事は出来ないけど僕なりのcolorをだして、なんとか代役を勤め上げたいと思います。
Websiteの説明などにもあるけど、基本的にクラシック音楽系のレパートリーを比嘉一博氏がアレンジしています。
そういう点では、kaoちゃんにたまに誘われるMingleと指向性は似ています。
でも編成が実に変わっていますね(爆)
Violin二人と、Trombone(TenorとBassだけど)二人、そしてリズム隊。
なんとなく、音域の真ん中を担当しそうなSaxophoneもClarinetも居ません。
そういう意味じゃPianoの果たす役割はリズム隊の一員というだけでなく、TromboneとViolinの間の隙間を埋めるという役割もありますから、バッキングするときに、左手がBassと同じ音域にならないように色々考えながら弾いています。
今回の選曲のなかには、きっと比嘉氏が気を遣ってくれたのだと思いますが、チャイコフスキーの有名な協奏曲のアレンジも入って居ます。
途中でJazzっぽくなって僕が主役の(爆)アドリブになりますが、実に楽しいです。
rehearsalを重ねるごとに、照れが取れて、慣れてきました。
こういう事をするときに照れたらアウトだというのは、芝居と似てるかな。
アレンジの譜面に、せっかくclassic系の僕が弾くのだから、originalにあるパッセージをかなり詰め込んでこの曲だけは、僕ヴァージョンにさせて貰いました。
まず、楽器の守備位置が判るように、僕以外、rehearsalのままの位置で撮りました。

今度は並んで貰いました。
前列左から、Violinの石井有子(ありこ)さん(blog)そして、所属バンド、
同じく高瀬真由子さん(website)、
そしてリーダーでアレンジとBass Tromboneの比嘉一博(ひがかずひろ)さん、
後列左から、Bassの小野田 篤(あつし)さん、
Drumsの小野祐市さん(ここにprofileがあったよ)、
Tromboneの小林 稔さん(所属アンサンブルを見つけた)、彼も今回の代役の様です、
そして僕です。
だから、全部で、7人の内、3人が代役です。
それぞれ、皆さん独自のやり方で自分の演奏スタイルを様々なジャンルにまたがってやっている人達ばかりでそれは僕にとっても実に刺激的。

とても皆さん穏やかで良い人ばかりで、演奏の水準ももの凄く高いので、居心地が実に良いです。
初めての僕を含めて代役も多いので、八月からrehearsalを何回も重ねて来ました。
その間には僕一人で練習場所の近くの銭湯に入ったこともありますが(爆)、残念ながらまだ皆さんで一緒に飯を食ったことはありません。これは、オーケストラは別としてこの位の規模の集まりからすると珍しい事だな、僕にとっては。
今日は移動日なので、夜宴会になりますから、なおさら楽しみです。
その代わり、明日の朝は朝6時にホテルを出るらしいから、、、(汗)
明日は演奏する沖縄の南部から一気に北までドライブして、美ら海水族館にも行くそうです(爆)
かつて、そこに山猫合奏団で行った時に夥しく撮りましたが、あの時よりは写真のキャリアも積んできたので今回はもうちょっと面白い写真が撮れれば良いのだけどって、やっぱりCameraの事かい(爆)
桑名正博さんの思い出 - 2012.10.29 Mon,15:32
まったく違うジャンルに居るこんな立ち位置の僕が、なぜ彼の事にコメントするかというと、1992年頃だったか、僕は、Musicalの(同名で流行った映画とは全く違う)City of Angelsという作品でご一緒したことがあるからなのです。
City of Angels(Musical),Wikipedia
ワイドショウなどで、彼の「優しさ」についてコメントが各方面からありますが、あれは、お世辞でもなんでもなくて、本当に優しい人でした。
公演中のエピソード(もう時効だろうから書いても良いだろう)として、彼が優しすぎたあまり起きたハプニングの思い出などを書いてみます。
清水の舞台から飛び降りる、ってほどでは無いが(爆) - 2012.08.17 Fri,23:38
明日には仙台に行く。(写真は京都だけど、)
2012/8/19に山猫合奏団としては、始めての東北への演奏旅行で、“セロ弾きのゴーシュ”を弾きに行くためだ。
しかし、今回は、もう一つ感慨深いことがある。
今回の企画を持ちかけてくれたのは、大学時代の親友、千葉民和氏である。
今でこそ、白石准というと、津堅直弘氏との関わりから、Trumpetに縁の深いpiano弾きだと思われているが、白石准にとって初めてTrumpetの伴奏をしたのが、前述の千葉氏なのだ。
自分は、演劇を玉川大学で専攻したが、フランス語の授業で知り合った同級生の音楽科の学生に頼まれて、作曲の作品とか、管楽器の試験の伴奏を頼まれるようになっていって、演劇専攻生なのに音楽専攻生の演奏会とかに顔を出すようになっていたのです。
そういう僕の演奏を聴いて、Trumpet科の千葉君(呼称は学生時代に戻らせて貰う。)が僕に伴奏を頼んできた。
結構沢山引き受けてきたが、中には言っちゃ悪いがあまり上手とは言えない人も居て、もうちょっとウンザリだった部分もあって、僕はこういう今考えるといくら上級生(実は歳は彼が上だと言う事を後で知った(爆))とはいえ、相当に意地悪な質問をしたのだ。
「あなたはプロになるつもりで楽器を吹いていますか?」
(そのつもりでやっている人くらいじゃないとこっちも刺激がないと思ったからだ。でも後にも先にもこんな質問をしたのはどういうわけか彼だけだった(爆) で、今でこそ演奏家として活躍している卒業生は増えてきたが、当時は演奏家を育てると言うよりは、音楽教師を育てるコースとしての存在理由がその学科だったから、なおさら意地悪な質問であったと思う。)
そして、少しばかり考えてから彼がこう言った。
「3年頑張ってみて芽が出なければ、田舎に帰ります。田舎には田んぼや畑がありますから。」と。
その一言(もちろん30年以上前の事なので、レトリックは全然正確じゃ無いと思うが。)で、僕の気持ちはなぜか、凄く動いてしまい、一発で引き受けてしまったのだ(爆)
なんか彼の体の後ろに「のどかで緑と土のある、ものすごく広い空間の中で育ってきたオーラ」を感じたのだ。
(東京生まれだからという理由では無いと思うがこの言葉を聞いて「田舎」って良いなあと思った部分は無いとは言えない。)
実際、初共演は、Hindemith(ヒンデミット)というドイツの近代の作曲家の難しいsonataだったのだが、今思っても、その音色には、なんか技術を越えた「雄大さ」を感じた思い出があります。
彼との思い出はそれから、それこそものすごく面白いエピソードに事欠かなかったのですが、それを書きたくてこの記事を始めたのでは無いので、またconcertの話に戻ります。
しかし、僕の友人で、これほど笑いのネタに事欠かない人は居ないので、そのエピソードはいずれ彼の許可を得て記事にしようと思っています(爆)
そういう付き合いで仲良くなり、そして卒業後、彼は会社員になり(でも未だに楽器は吹いてるらしいよ、すばらしい。)、同級生の元Organ科の女性と結婚した。
もちろん、彼女に対しても僕は面識があったし、僕はOrganはもとよりpianoも上手な知的な彼女がなぜ、彼と結婚することになったのか(つまりつきあっていたとは全く知らなかったから)良くわからなかったが(爆)、結婚式にも参列してpianoを弾いた。
その結婚式も通常の結婚式を逸脱した凄い盛り上がりだったのだが、それから、数年後、二人の間には女の子が生まれた。
なんと、僕の誕生日と同じ日だった。
つまり、春生まれだった。
名前はその季節だからか、「さくら」ちゃんと名付けられた。
そして、風の便りで、Violinを勉強するようになったと聞いた。
二度ほど彼の宮城の実家に泊まりに行ったこともあって(それ以外の地方出身者の友人の家にはほとんど行ったことは無いから僕としてはとても例外的な事なのです。)、演奏旅行に仙台に行ったときには千葉君とは仙台で飲んだ事はあっても、結婚式以来、奥さんとも、そして小さな音楽家の娘さんには、実際に会った事はなかった。
そしてまた時は流れ、なんと趣味では無く、東京藝術大学に入ったという事を彼から聞いた。
Violinは子供の頃から親の協力なしには絶対に育たない種類のものだから、きっとあの知的な細君が凄く努力をしたのだろうと、思っていた。
そして、また時は流れ、「ドイツに留学している」という話になった。
そして、明後日、僕は、立派にあちこちの国際コンクールでも評価され、将来が期待される一人前の音楽家になったさくらちゃんと、“セロ弾きのゴーシュ”の前に共演することになった。
明日は早く仙台に入って、練習をするのだが、まだ見ぬさくらちゃんの事を考えると、なんか通常、どんな有名な演奏家と初共演するときでもこういう、心臓のドキドキ観というのは感じたことがない。
両親とも知り合いで、しかもアマチュアでは無くprofessionalな演奏家になったその娘と共演するなんて生まれて初めてのことだからだ。
小さい頃を知らないので、感極まって泣いてしまうなんてことにはならないとは思うのだけど、「普通の初対面」とは決定的に何かが違うはずだ。
(しかも同じ誕生日だし(爆))
とっても楽しみであると同時に、妙な恐怖感というか、なんか借りてきた猫のようになってしまうかも知れない、、とも違うな、なんかとても変な気持ちで最初、挨拶するのだろう。
音楽が始まっちゃえば関係ないとは思うのだが、それでも、その音を後ろで聴いていたら、やっぱりなんか違う事になりそうで、そのためにも明日はちゃんと練習したいとおもうのだ。
いきなり本番だったら僕が破綻してしまうかも知れないとまで思う(爆)
故に、写真と本文には全く関連性はない(写真を撮ったのは、先日Musicalの公演で滞在していた大阪に行く移動日に京都に行って撮ったもの。)のだが、titleにある文章の如く、経験したことのない覚悟がないと弾けないだろう。
そして僕との共演を聞く、両親の事を考えてもなんか、彼らも感慨深いのだろうなと思う。
今までも沢山の共演者と日本で弾くときは聴いていたはずだけど、僕と一緒に弾いていると言うことにはまた別の感想があるだろうし。
故に、さっきからずっと彼女が弾く曲を練習していて、仙台から帰ってからこの事を記事にしようと思っていたが、なんかもう既に頭の中にいろんな事が巡るので落ち着けなくなったので書いちゃった。
でも、きっとさくらちゃん、じゃないな、さくら嬢と書くべきだな、彼女だけは恐ろしく普通に冷静で、何時も初めて会う伴奏者とやるように、普通にやるつもりだろうし、僕や両親がなんか挙動不審になったら、実に訝しがるのだろう(爆)
もしかしたら彼女の鮮やかな速い演奏に着いていけず、置いてけぼりになって途方に暮れるというか、惚けて(ぼけて、ではなく、ほうけて、というつもりだが、あまり意味に違いは無いか、、、)いる自分がいるかもしれない、、、。
二度目は冷静になれるとは思うが、今日は果たして安らかに眠れるのだろうか(爆)、飲むしか無いのか。
そうだ、思い出した。
千葉君の卒業演奏は、今奥さんになった彼女の伴奏で、アルチュニアンの協奏曲だった。
そして、僕が譜めくりしたんだ(爆)
そして、その卒業演奏会(数日続く)の最終日に、当時専攻科という所に学部卒業後一年余計に大学に滞在していた僕は、修了演奏会として、数ヶ月かけて作曲した、“どんぐりと山猫”を、楠定憲と初演したんだ。
たぶん1981年の2月の終わりか3月の頭だ。
故に、今では山猫合奏団の演奏を継続的に聴いて下さるお客さんも増えてきたが、千葉夫妻は、“どんぐりと山猫”の初演を聴いている希有な人たちでもあるのだ。
そこからが始まりで、相当時間は空いたけど、2005年に“セロ弾きのゴーシュ”を書いたわけで、明後日はそっちの作品だけど、もし“どんぐりと山猫”だったら、「さくら嬢が生まれる前の作品だ」と説明できたのにな(爆)
で、“どんぐりと山猫”以降の作品を聴いて貰えると言うことも僕には光栄なことなのです。
そうそう、千葉君とは、2010年のマルチリード版の“どんぐりと山猫”にひょっこり現れて久しぶりに再会したんだ。
彼も初演以来の“どんぐりと山猫”だったと言っていた。
写真はいつものように、clickして飛んだページの写真をもう一度clickすると綺麗に見えます。
明日は牧野Violin教室の発表会 - 2012.07.14 Sat,21:54
この記事にもありますが、ことしで23年目の20回目になりました。
ということは、ほとんどの子供の生まれる前からその曲を弾いているということになります(爆)
専門を目指す子供たちの中には本当にプロっぽいすばらしい演奏をする子もいます。
世界的に見たら、10代である程度完成された演奏をしないと専門家にはなれません。
しかし、この教室は基本的に大人になってもアマチュアである人の割合がほとんどです。
(数割は、専門のコースに進み、外国や日本で活躍する演奏家になった人もいますが。)
僕としては、一年間の中で、ある意味、もっとも純粋な気持ちで楽器に向かう日でもあります。
音楽的にはものすごく説得力のある表現の強い演奏があちこちにみられます。
この仕事は、僕の「演奏家としてのキャリア」としてプロフィールに記述しても、僕を初めて知る人にとっては、なんの誇りにもならないでしょう。
普通、どれだけ、「名誉ある第一線で演奏しているか」ということを聴衆は僕の値踏みをするときには問題にするものですから。
しかし、この仕事は自分で作曲し演奏すること、と同じくらい、熱い思いがたぎる一日です。
でも自分自身のテンションの高さと、カタルシスの深さからすると、やっぱりこれに勝るコンサートは他には無い。
かつて、この教室と初めて遭遇した本番の翌日、それも初めてでしたが、新日本フィルハーモニーのリハーサルに参加していました。
しかも、その時生まれて初めて指揮者の前で弾いたのですが(爆)、なんと小澤征爾さんだったのです。
オルフのカルミナ・ブラーナのピアノパートを弾いていて、その緊迫感の中で、「この世界の一流の指揮者と彼の率いる新日フィルのこのテンション」は昨日の子供たちと味わったものと水準は違っても「在処は同じ」と思ったものです。
(蛇足ですが、その時小澤さんのアシスタントを務めていたのが、若き佐渡裕ちゃんでした。その時に知り合ったのです。)
まあ、特に子供たちとの時間を考えると、明日より、ここまで延べ4日間のリハーサル(一人当たり2回)が、最も濃い時間であることは事実です。
プロの仕事は、リハーサルよりは本番で何をするかということが問われます。
何度も同じ曲を弾いて来ました。
しかし、今年も、今まで思ったことの無い発見が随所にありました。
それは僕も成長している証拠だと思いたいが、人が変われば僕に対する印象もちがうからだと思います。
明日横浜近辺に来ることが出来る人は、入場無料なので、ものすごくパワフルな子供たちの演奏を、(そして彼らに乗せられてアドレナリンでまくりの私を)ご期待下さい。
きっと最後まで聴くと、なんとも言えないカタルシスがあると確信します。
神奈川県立音楽堂の地図は、ここです。
写真と本文には全く関連性はありません。
一期一会 - 2011.12.08 Thu,19:23
今日は見かけない重装備の自転車が境内に停まっていました。

朝練習して、昼飯を食う段になって、近所の弁当屋に行ったのですが、弁当を持っていつもの休憩所に行って一緒にお茶を飲んだりしている間に、その自転車の持ち主とお話しすることになりました。
(弁当屋でも食えたのですが、なんかお話ししてみたい気持ちがお姿を見る前からなんか心に湧いていたのです。)
お名前は西条さんとおっしゃいます。
この方は、この自転車で全国を行脚しているのです。
そして気に入ったところがあると、下の写真のように絵を描き出します。
お話ししている間に、なんか凄いお方とお会いした実感が湧きました。
もう還暦は過ぎてらっしゃることを聞きましたが、「自分探しの旅」とおっしゃるのですが、もうご自宅を出てからは相当な時間が経っていて、寝泊まりもテント、お食事も飯ごう炊さんだそうです。
僕は今日、Lessonを午後の早い時刻にして、その後一人で練習していたのですが、段々冷たい雨が降ってきたのに日が暮れるまでずっと外で絵を描いてらっしゃいました。
お別れの時にご挨拶をしてくださったので、寒いだろうから、僕がしていた手首に巻くバンドで、その中に小さい使い捨てのカイロを入れると手首が暖まるやつを差し上げたら、喜んでくださいました。
携帯電話も何も持たずひたすら漂泊の旅を続けていらっしゃる姿は、修行僧の様でした。

道中は時に凄い峠もあるだろうし、この間の酷い台風も静岡付近で膝まで水につかりながら、暴風に耐え、自転車を倒さないように、そしてなによりも、スケッチする紙を濡らさないように歩いていたそうです。
僕も自転車は好きなのでよく分かるけど、強風と雨、そして僕は経験無いけど雪なんかは耐えられないよな。
寒い季節になったので、南下しているとおっしゃってました。
家を(大分県にお家があるのだそうです。)でてからどういうルートで何万キロ走っていらっしゃるのだろうと感服するしかありません。
別れ際に、彼の口から「一期一会ですが」と発せられた言葉は、我々普通の生活をしている人間の口から出るそれとは全く異質の音に聞こえて背筋が伸びました。
元々どういうお仕事をされていたのかは、訊きませんでしたが(そんなのどうでもいいよね)、道中はたぶん、体力的にも精神的にもタフな状況の方が楽なものより割合は多いとは思いますが、あちこちでいろんな人に会い、功徳を積んでいる高貴な魂に触れて、自分の魂に元気が頂きました。
最初はママチャリで臨んでいたそうですが、心意気に感じた方々からの応援でこのようなちゃんとした自転車に変わったそうです。
元気と、なんか背筋が伸びるような一瞬を、ありがとうございました。
もちろん、ネットもやらない純analogなおじさまでしたので、このメッセージが彼に伝わることはあり得ませんが、どうか、寒くなってきましたし、彼のこれからの道中も天が守ってくださいますように。

ピアニスト白石准と岡山県の関係は意外な事に深いのです。@牛窓滞在2011/5-15 - 2011.05.15 Sun,21:52

そして、実は岡山県という場所は、東京を除くと神奈川県や千葉県なんかよりも演奏した回数に於いて生涯最も多い場所かも知れないことに気づきました。
Musicalの公演を回数に入れてしまうと大阪や名古屋は圧倒的に多いのですが、単独のコンサートは、かつてNHK交響楽団の首席トランペット奏者の津堅直弘さんの奥様が倉敷出身だったご縁で、毎年夏に岡山市内(オリエント美術館にピアノを持ち込んで)でやったり、倉敷のアイビー・スクエアの中でやったり、それが10年ぐらい続いていました。
そしてそれとは別に、岡山出身のオーボエ奏者の奥山茂氏(牛窓シーサイドホールに関わることになったのは彼のご紹介、今では会社の会長業に転身されている)のリサイタルもやりました。
ここ近年は自分の主宰する山猫合奏団のメンバーのうち、チェロの大島純氏の出身が津山なので、津山にも訪れる事が増えてきました。
他の企画の訪問もあり、その回数は前述の通り東京を除く県では最も多いと思われます。
これで、牛窓にもご縁が出来るとなると実にありがたいことになりました。
写真は、昨日、岡山の牛窓で「白石准のピアノの部屋 in 牛窓シーサイドホール Vol.0」と銘打ってやった「予告なし」のコンサートの一場面です。その事はまた別記事で。
下の追記に最近岡山に訪れた時の僕の記事をリンクしてみました。
Twitterでのかつての知り合いとの再会から、Placido Domingoさんの後ろでちょこっとだけ弾く事に - 2011.04.09 Sat,01:09

突然の告知になりますが、来たる10日の日曜日と13日の水曜日、Placido DomingoのConcertのOrchestraの中に入って数曲だけ弾く事になりました。
4/10の17時半からUstreamで配信されるようです。
Maestro Domingoとは、2002年のWorld Cupの時の3Tenors以来です。
なぜかあのときのSuper World Orchestraの中で鍵盤を弾かせて貰いましたが、Rehearsalから一切声をセーブすることなく(通常Tenorの人はRehearsalでは本気で歌わない)三人ともフルスロットルだったのに驚愕した記憶があります。
そのとき真横で叩いていたベルリンフィルのTimpaniのおじさんの音のすごさに滅茶苦茶感動した記憶もあります。
今回のOrchestraは日本Phil.です。
写真の花は午後に訪れた代々木上原のMUSICASAの外のお花です。
遠江総合高校吹奏楽部から手紙が来ました - 2011.02.01 Tue,20:36
その時の記事は、ここにありますが、年が明けてすぐ、なんとみんなからの手紙が山猫合奏団の事務所に届いていました。
それで、実はそのおびただしい数の自筆の手紙を手にしたのは、昨日(1/31)のことだったので、大変リアクションが遅くなりましたが、吹奏楽部のみなさんに、あらためてここからご挨拶します。
本当にお世話になりました。
僕にとってもとっても忘れることのできない刺激的な時間をすごせました。
もうこのメンバーとは共演することはできませんが、またいずれ何かの形で佐藤真澄先生と共演することになったら大変嬉しいです。
でも、誰だったか、「ガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルーのピアノ伴奏ありがとうございました。」というメッセージには笑いました(爆)
あれはね、「伴奏」ではないのですよ(爆)
まあ、共演というニュアンスだったんだろうけどね。:-)
それと、最初に資料で行った僕の写真と実際のギャップの事をみんな書いてたね(爆)
今度は違う写真にするよ。
まあ、燕尾服で撮った写真だからもっと真面目で気むずかしそうに写ってたんだよな(爆)
色々撮した写真からPick Upしましたが、もし写っていない子がいたらごめんなさい。
掛川にはきっとまた花鳥園に遊びに行きます(爆)


静岡県立遠江高等学校吹奏楽部と遊びました - 2010.11.27 Sat,01:06
静岡県立遠江(とおとうみ)高等学校の吹奏楽の指揮者の佐藤真澄先生は、僕の大学時代の一年先輩。
かつて、島田商業にいらしたとき(たぶん今から20年近く前)にも、ガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルーで共演しました。
それ以来の再会であり、またこの曲で子供たちともなんか楽しい時間を過ごせました。
普通だったら一日だけのリハーサルですが、今回は二日間おつきあいしたら全然二日目はサウンドが違っていました。
なにかアドヴァイスするとすぐに変わる頭の柔軟性があってやりがいはたくさんありました。
とっても素直な子たちだと思いました。
たまにこういう子供たちと共演するという事はとても僕にとっても楽しい。
毎年やっているヴァイオリンの発表会やお年寄りたちとの歌の発表会も一人一人の独奏、独唱との共演でおもしろいけど、「集団」としての吹奏楽もやっぱり面白いね。
シエナのようなプロも刺激的だけど、吹奏楽のほとんどはこういう教育現場で盛んな訳でそれに寄与できることはとても光栄です。
なんでも吹奏楽のために、この子たちは合唱もダンスもやるらしいです。
三枚記念撮影しましたが、全部載せちゃいます。続きは追記で。
