Fortissimo - 2013.01.28 Mon,12:49
フォルティッシモと言いますね。
それに見えました(爆)
ちなみに、音楽の試験では、フォルティッシモと書かないと×にされそうですが、実は、試験の「苦し紛れの(爆)」解答にありがちな、「タブル・フォルテ」という英語風な言い方、学校では教えないけど、英語圏の指揮者は良くつかいます。
僕は、こういう元々、もうイタリア語というよりは記号の名前になっているものを元々のイタリア語で読むのには抵抗がありませんが、音の名前だったり、ハ長調というような調性の名前を日本のクラシック音楽では、ドイツ語、C-dur、そして、そうではない音楽ではC-Majorと呼び方が違う日本独特の風潮が実にナンセンスだと思っています。
ドイツ語の読み方で得したことはありません。
クラシック音楽を専門に勉強した人達だけに通用する読み方です。
英語圏ではクラシック音楽だって英語の読み方をしているのだから、ポピュラーやJazzで流通しているコードネームの簡単なものも苦手としてしまう日本のクラシック音楽の奏者たちの事を考えたら、最初から英語で教えれば良いと思うのですが。
それと、イロハニホヘトで、長調、短調と、ローカライズしたかつての指導者達にも、実に余計な事をしてくれたと憤懣やるかたない。
まったくナンセンス。
変ロ長調というのは素人には実にわかりにくいですよね。
これは、ドレミファソラシドの、シが主音の長音階であることを示しているが、英語ならB♭Major。
そのまま教えれば良かった。
一つの事を何種類もの言い方をするから混乱するし、だいたい、♭を意味する「変」は表意文字なのに、上下どっちなのかのベクトルがはっきりしないし、だから#なのか混乱する人も居る。
そして#を表す「嬰」に至ってはよりによってなんでこんな漢字を選んで、それに込められたのはどういう意味なんだ馬鹿野郎、って感じでしょう。
前にも書いたけど、台湾に行ったとき、この「変ロ長調」の表記を見て、中国の指導者の方が日本のそれより何倍も先を見ているなと思いました。
同じことを、降B大調と書いてあったのです、文字通り、B♭Majorじゃないですか。
どうせローカライズするなら、音名は英語のまま、そして上がるのか下がるのかはっきり意味が分かる漢字を当てはめる。
表意文字なんだから、それが誰にでも判る選択でしょう。
タイムマシンに乗ることができたら、そりゃ歴史上の大作曲家に会いに行きたいとは思いますが、この用語を作った会議に殴り込みして、「音楽用語をローカライズしないで原語のまま、しかもドイツ音名はやめろ」と強く異論を唱えたいと思います(爆)
モーツァルトを弾くのに大事な事は何かって良く問われるんだけど - 2012.12.07 Fri,00:35
twitterをやってたころなら、省略すればあっさりそのまま書けそうな内容です(爆)が、そのうちじっくり加筆するかも知れませんし、このままほったらかすかも知れません。
Mozartを弾くのに大事な事は何かって良く問われるんだけど、その答えは決まって「音の粒を揃えること」と答える人が居る。
じゃあ、そう答える人に訊くが、BachやBeethoven、ChopinやDebussy、Ravelは粒が揃わなくても良いのか、と言いたい。
そう答える人やその答えに首を縦に振る人は、「音の粒が揃っていさえすらばMozartの様式にふさわしい」と考える。
なぜか、Beethovenにくらべたら、感情を出さないように弾くのがMozartだと。
じゃあ、Mozartに感情がなかったのか?
何も起きないのがMozartの音楽か?
僕はそれには大いに反論したいと常々思っています。
天の邪鬼白石准だから言うのでは無く、時に、MozartはBeethovenよりDionysus的な高揚感と興奮を持って居るし、逆を言えば、Beethovenの音楽にある優しさ、包容力の方が、よりApollo的な「体温」を感じる時だってある。
MozartのApollo的な部分、BeethovenのDionysus的部分を否定するわけじゃ無いけど、こと、Mozartに関しての「何もしない」のがMozartという妙な「常識」方が嫌い。
それと、「子供の弾くMozartは最高だ」という「判ったような言い方」にも文句はあるよ。
たしかに、邪心のたくさん入った大人の演奏より、真っ白い良さを感じることもあるけど、「子供は大人の経験がないから、大人の振りをできない(天才は真似を出来たりはする)が、大人の演奏の中には子供の頃から成長してないのではなく、子供の心を忘れないような純粋さを携え、そして大人じゃ無ければ感じられない機微まで表現できる演奏がある。」と僕は思っているので、子供のMozartが良かったりするのは、下手とか上手いとかじゃなく、頑張っている子供だからなだけで、(勿論上手な子供は沢山居るけど)大人が子供と同じ事をしたって、誰も面白くないからだ。
で、大体の大人は理屈だったり照れだったり、自分の技術と格闘することのみに専心するから、音楽に喜びを感じる前に技術の事ばかり考えて弾くから面白くないのだ。
だから、大人のすばらしいMozartの方が遙かに子供より面白い。
大体二楽章的なゆっくりした曲は子供に弾かせない先生が大いのが判るだろう。
子供には無理な領域もあるだからだ。
素人の人には訳解らないよね、これ。
音符がころころ動く速い一楽章や三楽章の方がゆっくりした二楽章より難しいと思っている。
だけど難しさの質がちがうんだよね。
自分で書いたことを否定するようだが(爆)、子供の頃にやらせるのは無理だというのも本当はおかしいとは思う。
それは、その大多数の先生も二楽章について何も判ってないから。
その面白さを子供に伝える事が出来たら、二楽章をすっとばして弾かせるなんて馬鹿な事もないはず。
今日の所の結論は(爆)、Mozartを面白がって弾く、というより、Mozartはどう弾いたら良いか、って会話ばかり聞くけど、それはおかしいって事。
だから、答えを求める質問をする。
正しい答えがあって、それで納得して次の瞬間Mozartの最善の演奏が出来ると思っている所が変だ。
それは、Mozartだけの問題じゃないだろうと思う。
深い理論に裏付けられた演奏は大事だけど、理屈の前に感じなければいけないことの方が本当は多いと思いますよ。
つまり、「どう生きたら幸せになりますか」という問いを持つことは大事な事だけど、それをお坊さんや牧師さんに訊いたってその答えですぐ世界が変わって見える事は、時にあるのかもしれないけど、やっぱり自分で見つけて答えを出さないといけない問題で、それは、客観的な真実というよりは、まず主観的なものだと思うのです。
だって、幸せにはいろんな形があるように、Mozartにもいろんな形があるはずだから。
それよりも、この問題を解決するのに答えが一つしかないと考える事の方が余りに恐ろしい。
ねえ、仏様。
職人の仕事@調律師新井吉一 - 2012.11.24 Sat,12:27
そういう人達が居ないと、音楽会も芝居も成り立たない。
特に、Piano弾きにとって最も重要なスタッフが、調律師という存在だ。
「今日の演奏を褒められたとするならば、半分以上、この人のお陰。」という実感を持つ職人技を持った調律師にステージやスタジオで出会ったとき時は本当に幸せになる。
ピアノ弾きは特殊な例外を除き、演奏会場に自分の楽器を持っていけない。
演奏が成功するためには、最上の楽器と、究極の職人技を持つ調律師、そして、その楽器を響かせる最良の空間、そして、最良の楽曲、そして、演奏する技術とインスピレーションが必要である。
幸運な事に、僕は何人ものすご技の調律師に全国各地で出会う運に恵まれてきた。
その思い出だけでも、いくつも記事が書けてしまうくらいだ。
その中でも、家のPianoや、演奏会場でがPiano弾きとして最も長くおつきあいしているのが、この記事の写真に出ている、新井吉一氏だ。
若い頃は、ウィーンのベーゼンドルファー(Bösendorfer)社に学び、幾多のconcertで内外の名ピアニストとの仕事を経てきた人だ。
たぶん僕はこの人とは、20代後半から今に至るまで30年近い付き合いがある。

上下の写真は、調律するときに最も必要な道具だけど、この道具は、なんと持つところがカーボン製でとても軽い。
この人の何が一番すごいかというと、昔から、「対価に見合った時間で仕事をする」という発想がないことだ(爆)
まあ職人という事からすると、限られた時間の中で仕事をするというのがまず第一に評価されるべき事も間違いでは無いだろう。
実際、彼が演奏会でチューニングをするときは、その枠で仕事をしてきたわけだが、僕の家だけにとどまらず、訪れた家で仕事をするときは、時に半日以上も納得するまで仕事をしてしまって、まあ状況に寄ってはとても「うざがられてしまう」ことは否めない(爆)
もう今はそんな事はない事だけど、付き合いが長いからこんな例外的な事も昔あった事に、昼間に来て作業していたのに終わったのは深夜1時近くだったことだってある(爆)
しかし、仕上がった楽器は素晴らしい状態になる。
調律師というのは、音楽家以上に一匹狼であり、皆さんも知っておいた方がいいが、ある調律師の前で別の調律師の賞賛などは、もってのほかである(爆)
僕は調律師が他の調律師を評価する言葉を発するのは聞いたことがない。
(この新井氏は結構他の人の技術を褒めているがたぶん例外的だ。)
演奏家には穏やかに接してくれる調律師ではあるが、そりゃ同業者には牙をむくくらいの対抗心を感じることも多々あります。
考えたらもっと僕の最も大事な「共演者達」の写真を撮っておくべきだったと思います。
偉大な調律師のお陰でどれだけ楽しんで弾けたかという思い出の数は指で数えられるものではないからです。
僕の主催のconcertでは、特に知り合いと言って良い調律師にやって貰った時には、programmeに必ず調律師の名前を記述します。
誰の目にも留まらないかも知れないし、僕が口頭でもしかしてそこにまだいらっしゃる調律師を紹介しても調律師は困惑するだけでそんなつもりで仕事をしているわけではないとおっしゃるでしょうが、つい、先日の録音の時にも、やっぱり録音の間中隣の部屋で控えて下さった調律師のおかげで僕が二日間ずっと気持ちよく弾けているわけだから、やっぱり少なくとも僕は常に調律師には最大の尊敬と感謝を持って仕事をしていきたいと思います。
それと、この新井氏、実は筋金入りのアマチュア・カメラマンで、LEICA(もちろんフィルム専門)遣いなのです。
あと、驚くべき事にこの人は白石准というPiano弾きの影のプロデューサーだった時期もあります。
彼が紹介してくれた演奏場所は夥しい数にのぼり、元イ・ムジチのコンサートマスター、アゴスティーニ氏と引き合わせたのもイ・ムジチのチェンバロの調律をしていた彼でした。
ちなみに、アゴスティーニ氏もカメラマニアなのです。(僕と練習しているときは、一回弾くとカメラをいじりながらそれについて喋るのが15分、そして思い出したようにまた弾くという連続でした(爆))
すばらしい調律師には何人も出会ってきましたが、「持続的に」仕事の斡旋までしてくれた調律師は彼をおいてほかにいません。img height=
芥川作曲賞の記事に、僕が弾いた曲の作曲者の山根さんがコメントして下さいました。 - 2012.09.07 Fri,10:03
それで思い出したのだが、先月末に、サントリーホールで「腹切り乙女」という曲を弾いた事をこの記事に報告した後、たぶん数日も経たずに、その記事を発見してくださった作曲者の山根明季子さんからコメントを頂いていました。(彼女のWebsiteはこちら。)
もう最近は撮りためた写真を次々と投稿しているので、すでに弾いたときの記事も数ページ先に流れて言ってしまっているので、コメント欄に書いても誰も読んでくれないかも知れないと思い、コメントを公開する事を許諾されているので、一つの記事にしようと思いました。
追記にペーストした、彼女のメッセージを読む前に、元の記事を読んでない人はまずそれから読んでから戻ってきて下さい。
記事が僕のただの「遠吠え」にならなかったことを嬉しく思います。
なお、写真は、東京六本木にある、サントリーホールの入口前の広場です。丸と直線、金色と赤と黒のコントラストが気に入っています。
作曲のメッセージを最初に、そして一番大事に伝えるべき相手は誰か(芥川作曲賞を演奏して思ったこと) - 2012.08.27 Mon,14:41
なぜかリハーサルは埼玉県の志木まで通っていましたが、毎年この時期に行われる、作曲の「芥川賞」の本選会が、昨日の昼間、東京六本木のサントリーホールで行われました。
編成は、毎回orchestraのもの。
そして演奏は、僕が一番お世話になることの多い、新日本フィルハーモニー。
僕は、celesta(この楽器のことについて知らない人は、このblogの該当記事を参照のこと)で、一昨年優勝した山根明季子さんという人の委嘱作を弾きました。
そうです。このコンクールで優勝するとその二年後のコンクールの曲の演奏の前に新作を演奏して貰う権利も得るのです。
曲は、琵琶協奏曲みたいな形式でした。
なかなか繊細な曲で、かなりの沈黙が間に挟まれていた曲でした。
題名は、譜面に書いてあるとおりだと、“Harakiri Maiden”だから、「腹切り乙女」ということになるのでしょうか。
譜面には日本語は書いてありませんでした。
なぜ、腹切りで、乙女なのかとか、琵琶の役割については、リハーサル中一度も触れられなかったので、残念ながら曲の背景や内容に着いての事は全く知らないで弾きました。
きっと作曲者や指揮者は演奏家は楽屋でプログラムを読むものだ(そこにはきっとこの曲についての作曲家の説明が書いてあるに違いないが)と信じて疑ってないから説明しなかったのか判りません。
しかし、演奏家の楽屋にプログラムなんてほとんど廻ってこないし、よしんば、あったとしても、人数分来るとも思えないからみんな忙しいから読まない人の方が多いし、そもそも、そういう曲についての大事なことを当日に知る事に何の意味があるのかと痛切に思います。
あるいは、これだけ大人数で演奏するorchestraという形式の場合、一人一人は部品に過ぎないから全体としての内容を細かく知る必要があるのは指揮者だけで良い、と考えたのかなあ。
芝居をかじった人間からすると、そういう一番大事な事が末端の演奏家に対してリハーサルの初日に語られない、こういう新作の音楽の練習の常識には何時も首を捻ります。
聴きに来てくれた人に演奏後会って、腹切りと乙女と琵琶の関係について、プログラムに書いてあったことを言われ、そこで初めて知った事があり、びっくりしましたが、演奏後に知るというのは、何とも情けない話です。
だから、練習中に、「この音はもっと鋭く」と言われてみんな、抽象的に鋭く弾くのですが、それと「Harakiri Maiden」という題名との有機的な意味の結びつけは、たぶん誰も理解しないで弾いています。
文学的な題名を付けるなら、最初にその題名と譜面に記されている音との関係を明らかにすべきだと思うし、そもそも、なぜそこに独奏楽器として琵琶が居るのかという説明も、この曲の場合は特に、一番最初に必要なはずだと思うのですが、音楽の練習は、常に技術的なカウントや音の出し方、今回の様に特殊奏法だらけだと、それの質疑応答ばかりで、演奏したとは言え、聴いた人に何を質問されても、自分の部分を間違えないで弾く事にしか終始してなかった感想しか残りません。
たしかに三日も練習したけど、この曲に与えられた時間が一時間しかなかったとはいえ、そして初演だからとはいえ、こんな事で良いのかなあ。
繰り返しになるが、orchestraというシステムの中では、指揮者が判っていれば良いことなのか。
それを説明する時間はないということなのか。
「もっと子供がふざけて弾いている様に」とか「ここは、もっと自分を聴いて欲しい、という気持ちで、がんがん弾いてください」とかのアドヴァイスが作曲家からあったのだけど、それは飽くまで演奏家の領分に任すべき奏法云々の事であって、その根拠と題名との関係が語られないから、というか、この曲のstoryを全く理解してないから、「自分を聴いて欲しい」という気分には全くなれないのです。
だって、芝居の世界だったら、腹切りさせられるのは、誰で、どんな理由で、とか考えてからじゃ無いと芝居なんかできないわけで、この場合、なぜ乙女が腹切りさせられる運命になったかという疑問がそもそもあるわけですよ。
それと、子供がふざけているように、ということがどうしても僕にはむすびつかなかった。
たぶん、storyを把握していたら、作曲家に言われる前に、みんなprofessionalなんだから、どんな場所だって簡単にどういう気分で音を出すかたちどころに理解できるると思うのですが、最後までそんな気分にはなれないというより景色が見えないから、書いてあるとおりフォルティッシモという記号に従って大きく弾いていただけでした。
だから、眼の前に作曲家が居るのに、まるで作曲家との対話は、彼女の考える音響がそこに実現できているか否かを査定して貰うのがリハーサルで、彼女の考えをこっちに知らしめようとしないから、作品に対しては何回も弾いている間に様々な感想を持つことになるけど、なにも作曲家や作曲家がこの題名に込めた様々な事についてシンパシーが残らない。
もしかしたら、その説明は、指揮者が我々にすべきだったのか、、。
改めて書くけど、この曲に対して僕は(storyは最後まで知らなかったが音響的には)悪い感想は持たなかったが故、なおさら残念に思う。
面白い響きは随所にあったし、もう一回演奏すると言われても喜んで参加するが。
作曲のコンクールや指揮者のコンクールで、毎回思うことがあります。
コンクールの結果には反映しなくても良いから、「演奏した人の採点」というのを聴衆に公開すべきだと思うのです。
有能な指揮者や作曲家であるかどうかは、譜面を解読できて、耳の肥えた作曲の専門家と、それを聴いた人だけが決めるものではないはずです。
文学と違い、作品が直接読者に触れるのでは無く、音楽というのは、演奏家というものすごく大きいフィルターを通すジャンルである以上、この手の審査に演奏家の感想が反映されないのはなぜなのか、何時も思います。
たしかに、演奏家には悪意のある感想を、現代音楽に対して持って居る人も少なくないでしょうが、作曲家や指揮者が何かを表現するのに、それを演奏家にどう伝えているのかの実際は、譜面や、審査員席や客席に居ては絶対に判らない事の方が多いはずです。
リハーサルが朝の11時からで、僕は最初のこの曲だけだったので、11時半には開放されていました。
開演が15時からなのでどうしようかと思い、炎天下の外にでましたら、アークヒルズの何時もの滝の所を見て、一瞬涼に包まれました。
この場所は、この記事でも撮りましたね。
そのままふらふらと千代田線の赤坂駅(TBSのビルがある方面)に坂を上り、何の目的も無く、気づいたら地下鉄に乗り、表参道駅まで行っていました。
どうしたものかと思案し、無謀にも、そこからまたサントリーホールのある、六本木のアークヒルズに向けて炎天下を歩き始めました。
後でまた別の記事で沢山写真を出そうと思いますが、cityscapeを撮りながら、猫が暑さで苦しくなったときのように口を開けてよろよろと、これから本番だとは思えない汗だくになりながら、頭の中では、少しでも血糖値を減らすのだと念仏のように唱えながら歩いていました。
生徒の失敗は教師の失敗@ピアノ練習の覚え書き - 2012.03.08 Thu,11:06
ついでに言うと、先日ピアノを習いに来ている人たちの発表会をしたけど、それぞれの人にあった、本番ならではのミスや、やっぱりもともと出来てなかったところをミスったこととか、全部当人達は自分の努力不足、度胸不足のせいにしてるだろうけど、僕にとっては、サッカーの監督と同じで、「なぜ、そうなることを未然に防げなかったか」という事をとても反省しています。
やっぱりもっとやり方をこうすればああはならなかったかなとか、色々ね。
そしてちょっとやり方を変えて上手く行ってくれたところは、密かに当人よりも喜んで居たり(爆)
もっともいたずらっ子の様に面白がっているのは当人があまり気づいてないと思われる成功(進歩)を自分で感じたことも(爆)
自分の失敗から自分が学ぶ事も多いけど、監督をしていたり、指揮者や演出家、そしてこういう風に教えていて自分以外の人がミスったときは、やっぱりそれを指導している人のミスというのも感じるときはとてもあります。
だから生徒の成功と失敗は両方僕にも教育しているわけです。
バットがボールを打つのです@piano練習の覚え書き - 2012.03.07 Wed,10:43

広いホールの客席には、女の子はほとんど居なくてほぼ全員高校球児という実にむさい空気(爆)
音楽ならプロの助言を高校生が聞く事は日常的なのだが、サッカーと違い、相撲や野球というのは組織がプロとアマチュアで全く違うので交流は無いどころか、親が野球選手だった場合、野球部に属している子供にアドヴァイスすると、協約違反でその子供やその学校が罰せられるという実に奇妙な時代が続いていたのだ。
それが、最近雪解けのようになり、こういう催しが開催されたのだと思い、素晴らしいと思った。
選手達の色々な発言に、熱心にメモを取る生徒や、隣の友達に、真似して検証している子とか居て、ほほえましかった。
きっと普段の学校の授業の数倍集中していたのではないかな(爆)
で、「どうしたら強い球を打てますか」という質問に答えたプロの答えの中に僕には興味深かったものがある。
綺麗な音とは何だ?@piano練習の覚え書き - 2012.03.02 Fri,00:26

先日、我らが山猫合奏団の語り手の楠定憲(くすさだのり)が所属していて、かつ、僕も最近産休の人の代役でkeyboardを弾きに行く事もある、劇団あとむの「あとむの時間はアンデルセン」という、アンデルセンの童話に基づく4つの芝居を観に行った。
(というより、勝手にカメラマンをかってでていたから、1/3くらいはカメラのファインダー越しに観ていたのだが)
全員知っている人たちが演じる、別の芝居を観るのはとても興味があることだ。
何が?
つまり自分が見慣れている、ある登場人物を生きているのとは違う人格になっているのを観るのが楽しいからだ。
みんな、とても熱演していて純粋に楽しめた。
その中に、何時も観ている状態の延長線上で「頑張ってるな」と思える人と、それ以上に何時も演じている人間とは全く別人だな、と思える何人かの人に、心を動かされた。
翻って、演奏家の「音」についてこれに当てはめてみよう。
失敗万歳、の内容が続いてしまう(爆)@piano練習の覚え書き - 2012.02.23 Thu,13:00
僕は基本的にJazzのPianistではないけど、Classicalな人たちの中の全くそれ以外のジャンルを実践しない人種に比べたら、Musicalの仕事などですばらしいJazz Musicianに出会う事も多い幸運に恵まれているので、そういう人たちよりはいわゆる「音符が書いてない譜面」を前にしても昔と違って今はうろたえなくなりました(爆)し、それを喜びに出来る様になりました。
そして何よりもJazzが好きです。
Jazzっぽい曲を仕事で弾く時、譜面通りですばらしいフレーズが書いてある事もあるけど、下手なりに、「出来ません」というのは恥(どうしていいか解らない段階というのは確かにある)で、同じ恥なら、やってみて恥かいたら、きっと上手い人に何らかのアドヴァイスがもらえるかもしれないと考えます。(だってやりたいんだろう?自分)
思い出せば、自分が自分より慣れてない人と音楽をするときは、その人が、普段の自分より上手く行っていると思わせる様に伴奏したら、結局相手もhappyになるし、音楽も面白くなるし、そうなれば僕もhappyになる。
相手が下手だから腹立てたって何の益もありませんね。
相手が下手過ぎるなら、技術と経験値で、それを上手に聴かせるのが真のprofessionalでしょう。
で、自分でちょっとJazzの勉強をしようとして、気に入った人の演奏を聴いたとします。
それを真似して弾こうとするとき、自分で音を何十回か聴いて譜面にしてから弾くのと、あらかじめもうそれが印刷譜面になっているもの(誰か他人が書いてくれているもの)では、雲泥の差で弾いている気分が違うことを昔から感じていたのです。
それが、冒頭で引用した失敗のすすめの内容に共鳴したところかもしれません。
つまり、自分で聴き取ろうとすると、書き出してみると勘違いに気づいたり、上手く聴き取れず、何度も聴いていたりするわけで、譜面になったものを見たって、それをなぞるだけだから、家庭菜園で育てたものを食う時の気分とトマトを買って来て食った時の違いかな、もしかしたらそれ以上かもね。
同じ失敗でも、出来合いの譜面を弾く場合、譜面を弾くのに失敗するだけで、音符になる元々の音を聴き取る事に失敗してないから、音に対する思い入れの深さが全然違うのだ。
もしかしたら、Classical musicだって、譜面を書き写したら心理が変わってくるのかもしれないけど、Jazzの譜面に起こしてある音符は、やっぱり自分で失敗しながら実際に書いて頭に鳴らしまくってから弾くのと、譜面から記号として読み取って弾くのじゃ、譜面通りに弾いていたって、しつこいけど、そこにはなんか熱いものが出てくるとは思えないんだけどな。
音を書く苦労をしたくないから、あれがビジネスとして成り立ってるのだけど、やっぱり苦労しないと出来ないというか、感じられないものは確かにあるよね。
科学技術は人間の暮らしを楽にするために発展しているけど、その「楽」は必ずしも「幸せ」につながっているかどうか。
おっと、日課の腹筋をするのを忘れているぞ。
楽して痩せられないよな(爆)

だって失敗して得た経験は全くそれを知らない人より、財産が沢山あると考えたいから失敗を恐れて安全運転なんかしたくない。
山に籠って天狗にでも鍛えられて頑張ります。
ゲシュタルト崩壊@piano練習の覚え書き - 2012.02.22 Wed,22:04
僕も良くあるのですが、それをゲシュタルト崩壊(Gestaltzerfall)と言うそうです。
心理学を勉強してない自分としては、なんとなく、イメージ情報で「書くより読める方が簡単である」ことから、良く言われる様に「右脳、つまり字の構造でなく全体的な印象で見ていた漢字」が、自分で書くことによって、「見ているだけでなく、書き順を考えたり、実際鉛筆で書いて肉体的な動作を経験している内に」最初の印象から、その役割が左脳に刺激を与えた時に、「字の見え方が変わる」のかなと思ったりしていました。
読むのと書くのとでは、難しさが違う様に、演奏も、聴くのと弾くのとでは雲泥の差があります。
そりゃ、聴いているだけだった時と、実際にそれが譜面になっているのを見た時の印象の違いに驚いた経験や、今は読解力が少しはできたので、読む事と弾く事のギャップは昔ほど違わないのですが、初心者の頃、譜面を始めてみた時の印象と、実際に弾いてみて感じた印象の違いにも驚きはありました。
全くピアノを弾く事が出来ない人がピアノ曲を聴くのと、その曲を弾いた事のある人が聴くのとどういう聴こえ方がされているか測定出来て視覚化出来たとしたら、それについては見てみたいと、実に興味のあるところです。
余談だけど、きっと、音痴と言われる種類の人は、自分が歌っている時に、同時に鳴っている、本来ガイドになるべきハーモニーが、たぶん聴覚としては聴こえているのに、認識としては、まるで聴いてないというところにも、その結果があるような気がするけど、まあ僕は学者じゃないから判らないが、知覚と認識というのはギャップがある様な気がします。
あ、この記事は音痴の定義をしたいのではなく、厳密に考えたらゲシュタルト崩壊とはちょっと違うかもしれないが、弾けない状態から弾ける状態になった後、しばらくすると、あり得ないミスが相次ぎ、自分の脳はいったい前に出来たのにどうしてこうなるのだ、と途方に暮れる状態に着いてちょっと考えてみたくなったので書き出したのです。
結果論としてとても長い記事になったので、あまりだらだら長い記事を読みたくない人はここで終わりにしてくださって結構です。
物好きな人は、追記へ(爆)
解って出来る事と伝えられるスキルは同じではないから@Piano練習の覚え書き - 2012.02.18 Sat,09:25
翻って教えると言うことに於いてはどうだろう。
自分はその技術やtipsを覚えた状況を経験してきたことを言葉で伝えなければならない事が多い。
同じ状況に連れて行ければ、その言っていることを直接的に解らせることが出来るのだけどそうは行かない。
そこで言葉での表現能力が問われる。
かつ、可能ならやってみせればよい。
しかし、自分の周りにいる教育者の中には、演奏家としてはそれほどの技術が無い(もう高齢になってという意味も含む)けれども(これは決して揶揄しているのではない)、そのお弟子の演奏には目を見張る事も多いので、先生=名演奏家という定理は成り立たない事も多い。
逆に演奏家として名を成していても教えるのが余り上手ではない人もごまんと居る。
考えるに、眼の前に見えていることを説明するのに、それそのものの現象を説明して通じればたぶん事は簡単だ。
それで上手く行かない場合は、「たとえ話」が有効であることも多いし、僕は常にそっちの方に重心がある。
ただし、そのたとえ話の内容によっては、それを聴く人がそのことについて全く興味がなかったり、たとえ話を別の話として受け取ってしまうと、優しく説明したつもりが返って相手を混乱させてしまうことにもなるから教えると言うことは難しい。
ただ、自分で簡単に出来る事を出来ない人に伝えるときに、いざ口に出して上手く説明出来ないとしたら、語弊もあるけれども、それは「解っていない」のかも知れないから、他人に教える(というか伝える)という行為は自分がある技術を得たと思ったときにはそれを自己検証する上で大事なことだと思う。
だから、僕は教えている人に、「今日覚えて面白いと思ったことはどんどん『知ったかぶり』をして他人に伝えて良いですよ」と言うことがある。
知ったかぶりなんてとんでもないと思うかも知れないが、例えば相手に突っ込まれてちゃんとそれが説明出来たらある程度理解したことになるし、やってみせて出来たらそれは他人との関わりのなかで出来たのだから一歩前へ進むことになる。
相手に突っ込まれて(質問されて、あるいは言っても通じなかった、もしくは一人で演奏していたら出来たのに人の前だと出来なかった)往生したら、それは「漢字を読むことが出来ても書ける状態にはなってない」ということになり、自分のどこが足りなかったかわかるわけだ。
演奏に必要な握力とは@piano練習の覚え書き - 2012.02.17 Fri,13:40
最近は右利きの自分ではあるが努めて左手で箸を遣う事にしているのだが、柔らかくなっている煮魚や絹豆腐を掴むのは、同じように難しそうな豆の様な固いものを掴むのとは難しさが違うなと改めて思った。
且つ、思ったのは、ピアノを弾くのに必要な握力とは、勿論最低限の強さも要求されるけれども、絹豆腐を崩さないで持ち上げる力のコントロールが必要なのだろうと。
強過ぎたらちょん切れてしまうし、弱ければ、持ち上げられない。
掴みながら壊さない絶妙な力加減とでも言おうか。
小さい音と大きい音の出し方には本質的に違いが無いと思って居るので、こんな柔らかい物を掴むのに右手に比べたら苦労している左手の筋肉痛みたいになる状況を見て、暫く掴んでも崩れにくい木綿豆腐を買うのはやめようと思った(爆)
新しい発見があると楽しい@piano練習の覚え書き - 2012.02.06 Mon,09:20
昨日も演奏会でオーケストラの中で弾いていた。
何度弾いたか覚えていない曲なのだが、譜面の見え方、音楽の聴こえ方、が変わると、驚きとともに凄く新鮮な気持ちになるものだ。
しかも知覚の問題だけではなく、過去にも気づいていたはずの事を忘れていて、思い出した技術がある。
当たり前の事なのだがなんでこの事に気づかなかった(思い出さなかったか)かとその時は思ったが、それは、総稽古終了後に独りで練習していてどうも納得出来なかった所が、客席に客が入って来るので舞台から立ち去らなければ5分前に気づいた(思い出した)。
本番にはある意味間に合ったが(爆)、ぎりぎりまで考え続けるということは当たり前だが大事な事だと思った。
凄く緊張する場面(独奏のそれとは明白と言って良いくらい違う種類のもの)が何回も出てくるのだが、その緊張の質は初めて弾いた時とは全く違うし、その緊張がちょっと意識を変えるだけで最初に感じた恐怖ではなく、気持ち良いものに変わるのだ。
やっぱり時間を隔てて、何度も偉大な同じ作品に触れ続ける事は大事な事。
また数年後にこの曲に再会したら、違った風景に見える確信があるので、そのチャンスがまた何時来るか、何も保証されては居ないが仕事で音楽をする事に於けるチャンスがある立場に居るという事に感謝しよう。
この前の記事も先ほど加筆したが、この記事も、あまりに独り言のレヴェルにしかならず、何を言いたいのか判らない文章に鳴っているので、もしかしたら、後で加筆するかもしれない。
動体視力(聴力)が大事@piano練習の覚え書き - 2012.02.04 Sat,20:22
加えて言えば、動体聴力という言葉を無理矢理作りたいがそういうものが必要だ。
優れた運動選手の、超高速で飛んでくるボールや、格闘技なら、相手のパンチ、レーシングカーに乗る場合は、迫り来る道路上の様々な物体を恐れる事無く、多分その競技をした事の無い人が目にも留まらない速さに見えているものがすべて「見切れ」て、ある意味ゆっくり動いて見える(実際は遅くないがすべての動きに目が着いていっている)能力の事を言う。
我々演奏家がやっていることは、譜面は動いてないから飛んでくるボールを処理する種目とは違って、「停まっている譜面に書いてある音符」、を出来るだけ早く「先を読んで、あらかじめ頭に鳴らしてから」弾く、あるいはad.libをする音楽家も、譜面を読む演奏家も頭に鳴らしているものを弾くという段階では同じ事を多分しているのだが、何もその瞬間に思いついたり見えたものを反射神経の良さで弾いている訳ではない。(幾分その能力も普通の人よりはないわけではないが、その「瞬間」と思っていても前述のアスリートの様に、それがもの凄いスピードで処理されるから、素人にはその瞬間と思うかもしれないが、実はだいぶ先まであらかじめ頭に鳴っている(あるいは見えている)故の処理能力なのです。
だから、初心者に近い人を教える時に思うのは、間違えるというのは、初見ならいざ知らず、何度も弾いているはずなのに、毎回、特定の場所で、目の前にまるで「予想外の事が起きている」か、もしかして次の音を判っていても手の準備が遅いからにっちもさっちも行かなくなる場合がほとんどです。
またしつこい事を書くけど、その辺を訓練するためには、譜面を読む訓練(読んで字のごとくだが、譜面を必要としてないジャンルであっても先の音を鳴らす意味の訓練)が必要なのであって、筋肉を強くする訓練をしてもしょうがない。
これは一概に言えないけど、だから、中高の吹奏楽部の訓練で腹筋やランニングをする意味が僕には良く判らない。
それよりも必要なのは耳や目の訓練だと思う。
そして楽器を鳴らした現実の音しか聞こえない耳ではなく、あらかじめ弾いたり吹いたりする前に自分が弾くべき音を聴く訓練で、それがクラシックの専門家が修行時代に必ずやるソルフェージュや聴音をやる意味です。
まあこういう時よっぽど天才じゃない限り、この手の訓練はやはり独学ではなく習った方が良いとは思うが、じゃあ、ソルフェージュの先生がそばに居ない人はどうするか。
ゆっくり練習する事の意義は誰でも語る。
しかし子供や大人であっても初心者ににそれをやらせても、だいたいゆっくり弾いている事に我慢出来ず、速すぎるテンポで弾いて崩壊する。
そう、我慢が出来ないのだ。
ゆっくり弾くと間が持たないのだ。
いろんな我慢があるけど、練習とは、我慢の末に凄く楽になる事を気づく必要がある。
でもゆっくり弾いている時に、聴いている耳も同じテンポでゆっくり考えていては何時まで経っても弾けないかもしれません。
ゆっくり弾いているときに、頭は超高速に先の音を捉え、あらかじめ鳴らし、そして実際に鳴らしたものを現実に聴き、そして実はそれをほとんど同時に、feedbackしてそれ以降の様々な力配分を調整する手だてにする耳が必要なのです。
そうは云っても、自分独りの音でそれが出来ても、ensembleの場合、他の音が聞こえたとたんその集中力が崩壊する事はよくあることだ。
それを克服するにはまず、自分の音が「見切れて」なければ他の音を聴きながら自分の音にも集中するということは不可能なことでしょう。
そしてもちろん、ある意味のアスリートとして基礎技術の訓練は毎日している人は、頭で思っている事を「スムーズに」楽器に伝える事が出来るのであって、「耳の訓練が大事」とは書いたが、決して肉体的鍛錬をしないでよいという主張ではない。
Solo,Ensemble,そして役に立たなさそうな訓練の方が体には良さそうだ@Piano練習の覚え書き - 2012.01.23 Mon,09:51
一つは、
卓球の福原選手と石川選手、この二人は、singlesの決勝で戦った二人だ。
その二人が、doublesに出たが負けたときに福原選手が言った事。
「まだ二人ともsinglesの戦い方をしているから勝てない」ということ。
方やもう一つ
テニスの全豪オープンで、錦織選手と伊達選手がmix doublesに出て初戦を勝ったのだが、二人で練習したのは一度も無いということだった。
翻って自分のPianoの演奏の経験を思い出してみる。
両方のケースには思い当たる節が沢山。
伴奏やアンサンブルにはそれ独自の独奏と違う心構えと耳が必要だし、凄い相手と会ったときには何も打ち合わせは必要ないとも言える。
誤解を招かない様に強調して付記しておくが、決して卓球の二人が「凄い人ではない」と言っているのではない。
何かのきっかけでこの二つの当事者たちの結果は逆転する事があるだろうし、もしかしたら、卓球の方は戦った相手同士の意識がまだ取れてなかったか、テニスの方は、普段絶対に戦うはずがない相手だったから良かったのか、その微妙な「綾」は判らんが自分の経験に照らしてこの二つを見てみた。