沖縄の海軍の壕へ - 2013.03.11 Mon,21:27
天岩戸は何処まで飛んでいったのか - 2012.12.06 Thu,09:57
昨日の未明に書いて、昨日の朝、再投稿した八王子車人形の記事の中に、「天岩戸」の事に言及したので、この記事は、天岩戸について書きます。
高千穂に行って泊まった民宿のご主人に聞いた神話のストーリー、実はみんなは知っている当たり前の事なのかもしれないが、僕は歴史に疎いので、この時初めて知った事があります。
天岩戸神社の西本宮の入口には、こんな迫力のある彫像が観光客を迎えています。

天照大神が閉じた天岩戸を無理矢理開けたのがアマノタジカラヲという神様だ。
それは、その部分を作曲したので判っているが。(タジカラヲノミコトという表記との違いを誰か教えてください。アマノが着くのは高天原の、という意味かなそして、ミコトというのは人間側から見た呼称なのだろうか。)
近づくと結構迫力があるぞ。

さあ、この怪力の神様が投げた先は、、、、?
今日15日は七五三の日だから書くけど、しめ縄って漢字でどう書くかご存じですか?@高千穂発探訪4 - 2012.11.15 Thu,23:59

古事記編纂1300年の今年、それとは全く関係ないが(爆)、高千穂でconcertの話が来るともおもえないし、ついでに行った方が交通費のことを考えても、行くなら今しか無い、と直感的に思って一人で高千穂まで足を伸ばしたのです。
そして、とてもリーズナブルに泊まれた民宿の天和(てんほう)のご主人、佐藤さん(写真の右側に立っていらっしゃる方)が泊まった夜に質問を投げかけたのが、titleの文章の後半部分でした。
その答えを聞いてびっくり、、
東京都板橋区にある「板橋」という橋 - 2012.11.06 Tue,01:19
(その紹介はまた別記事で)
前にも、銭湯に入った記事を出しましたが、練習場所は基本的に板橋区内の施設。
昨日と今日最終rehearsalをしているのだが、
(もう日付が変わったから実際の時系列にしたが、寝る前なので、「今日と明日」って感覚時の投稿だけどな。
本文に関係ないが、数ヶ月前映画で観て面白いと思ったテルマエ・ロマエに引っかけて「寝る前の前」という駄洒落が浮かんだ(爆))
前回この街に来た時(一ヶ月も前だったのだか)、銭湯に入った後(湯冷めする気がしなかったが、今日は湯冷めすると思って入らなかった(爆))、下町風の美味しい洋食屋さんに入って、舌鼓を打った後、もう一件銭湯がある、と店の人から聞いて、そこの前まで言ってみるかと商店街をずっと歩いて行ったら、橋があったのです。
で、結局もう一件の銭湯を見つけることはできなかったので、そこで引き返したのです。
で、その時撮った写真が、この日と同じく、黄昏時だったので、ピンぼけていて、使い物にならなかったので、この日、リヴェンジも兼ねて、練習後、もういちど、橋を撮るためだけにちょっと距離はあるのですが、歩いて行きました。
橋のたもとに、なにやら、日本橋からの距離の指標があります。
そうです、ここは、かつて宿場町だったようです。

橋の右側に、教育委員会に依る、「橋と、『板橋区』の名称の由来」が書いてありましたが、それもピンぼけ写真しか撮れなかったので、追記に、テキストを転記して表示しようと思います。
(著作権関係に抵触するとしたら、どなたか指摘してください。、そうしたら削除しますが、、)
僕は東京生まれだけど、あまり板橋には縁が無いのです。
かつて知り合いが大山に住んでいたから来たこともあったし、上板橋駅付近で、“セロ弾きのゴーシュ”をやったこともあるけど、、。
ここは、もちろんライブハウス類はあちこちにあるのでしょうが、僕にとっては良く仕事をする演奏会場があるという地域でも無く、僕は子供の頃もうちょっと南西側、西側で育ったし、活動は、また南側、南東側に集中しているので、東京じゃ無い所に「旅」に来た感覚と同じものがあり、実に新鮮に感じます。

これは、一枚目の撮影位置から、橋を渡って逆側を向いて撮ったものです。
本当に、「板橋」という名前の橋が現存するとは思わなかったです。
地名や名字の由来を聞くと興味深いものが多いですが、なんかこれは「どんぴしゃ」な感じで二度撮りに来た甲斐がありました。
(昼間撮れば良かったとは言えるが、今日の練習場所はまた板橋区内の別の場所だから昨日が最後のチャンスだった。)
コンクリートの橋だけど、なんか、板とか木の橋っぽく細工してありました。
写ってないが、橋の周りの岸には桜の樹が密集しているので、きっと四月頃は実に美しい景観になるのでしょう。
では、この由緒ある橋についての記述を追記に。
古裂という単語を始めて見た - 2012.04.24 Tue,10:38
かつて鉄道があった風景 - 2012.03.08 Thu,16:33
横浜のみなとみらい地区にある、赤レンガ倉庫の写真をかつて出しましたが、その日の別の写真を出します。
奥に倉庫が見えますが、これは、その近くにある、もともと港から桜木町方面に荷物を運ぶために作られた貨物線の線路とプラットフォームです。
上記の赤レンガ倉庫の記事のへのリンク先の赤レンガ倉庫の記事の6枚目の遠くから撮った写真の画面右側奥がこの記事の1枚目です。

真上の写真の左側から見たものがこの写真。
すぐに駅として使えそうなくらいに見えます。
手前の廃墟は確か税関の跡だったやに思います。(違っていたら誰か指摘して下さい)
そのまま残してあるのですね。
しかもやっぱり赤煉瓦だ。

線路に沿って歩くと橋を渡る事になりますが、このように未だに線路は外していません。

飯田橋、外堀、城壁の跡 - 2011.12.10 Sat,12:09
古墳がこんなに多いのに - 2011.07.22 Fri,07:22

この地域はとても古い歴史をもっている場所であることは、地名の由来のところで触れましたが、びっくりすることにこの敷地のなかに20箇所以上(だったかな)の古墳が点在しているようです。
しかしながら、これらの写真にあるとおり、工事現場のように立ち入り禁止となっているだけで、特別なディスプレイはされてませんでした。
話を聞くと、とっくの昔に墓荒しに貴重なものは全部持ち去られているらしいのですが、ここが古墳であるということがわかっているなら、もっと綺麗にしてオリーブと古代の歴史と並べて観光資源にしちゃえばいいのにとちょっと思いました。
そういう貴重な場所に住んでない県外の人間からすると実にもったいないなあと思った次第です。


Diorama - 2011.07.15 Fri,00:20



そして、、
歴史を感じさせる箱 - 2011.07.05 Tue,21:54
でも相当古いものではありますね。
銀札とあるからやっぱりお金を入れていたのでしょうか。
この札もそうだけど、歴史を感じられることがここに訪れると面白いことの一つでもあります。

「牛窓」という地名の由来諸説 - 2011.06.10 Fri,10:02
一週間ほどで、東京圏に帰ってからも相変わらずその時に撮った写真を連続投稿していますが、そもそもこの「牛窓」という地名はどんな由来があるのか、滞在中に調べてみたのです。
地元の方々には周知の事実でしょうが、それ以外の地域に住んでいる我々からすると、なかなか諸説あって興味深いものです。
でも由来は違っても、気の遠くなるほどの昔からこの場所は栄えていたという事実が凄いです。
まあ代表的なものが、昔々、神功皇后が牛窓の海を通過するときに牛鬼(推定30メートルくらいかな)が現れて船を転覆させようとしたとき、明神が現れてその角をつかんで牛鬼を海へ投げ転ばしたそうです。
それで、牛まろび(牛転び)という知名になり、それが訛って「牛窓」と呼ぶようになったというものです。
今回はお邪魔するチャンスがありませんでしたが、実際「牛転」という名前の喫茶店がありました。
検索してみると、沢山でてくるし、上記のものとは違うものもあって、好奇心をそそります。
以下にその一部の紹介のページをリンクして列挙してみましょう。
こちら牛窓、moo編集部「牛窓」地名の由来考察
牛窓観光協会のページ
牛窓の割烹料理旅館とみ川のページ
牛窓・前島散策 牛轉・塵輪鬼伝説のページ
下の写真は牛窓の名所の一つ、山の上のオリーブ園のところからみた海ですが、上の伝説類を読むと、それぞれの島が実は投げ飛ばされた牛の怪物の体だったのかと思うと、好奇心をくすぐります。
そのうち写真で紹介しようと思いますが、このオリーブ園の中にも20カ所以上の小さな古墳がありました。
のどかな街ではありますが、東京の郊外の様に、最近まで人が住んでいなかった場所を造成した街とは違い、実に趣のある歴史に彩られた街であるという事が分かります。

牛窓の街を歩いているとその家の菩提寺がどこかすぐに分かります - 2011.06.08 Wed,00:00

これは妙福寺のもの。

この街には、大きなお寺が三つあります。
金剛頂寺(西寺という通称)、妙福寺(東寺という通称)、そして本連寺です。
これらの紙はおのおののお寺の檀家さんであることを示しているようですね。


今回、金剛頂寺しか行くチャンスがなかったので、次回訪れることがあったら、残りの二つのお寺にも行って撮影してきたいです。

こういう風景も東京から来た白石准にとってはとても新鮮でした。
これらのものは、牛王宝印というものだそうですね。
コトばんくに説明がありました。