“オツベルと象”の初演の事が山猫合奏団のblogの方に出ています。 - 2011.05.18 Wed,22:46
5/1の“オツベルと象”の感想がたくさん届けられましたので - 2011.05.09 Mon,01:33

この日の公演に来てくれた中学生の吹奏楽部の何人かの子供たちの感想は、おじさんとしては嬉しくなってしまったので、演奏した他のメンバーにも見せたいと思い、ここにイニシャルで公開します。
中には漢字の間違い、文法的、世界観的に??という文章もありますし、登場人物の名前を勘違いしているものもありますが、修正せず転記します。
中学生だと思って許してやってください(爆)
なかなか大人になるとこういう事はしてくれません。
感想を言葉で表現してくれることは出演者、特に何度も演奏しているものではなく、作曲して初めて他人の耳に音楽を届けた時というのは、実にありがたい物であります。
故に、出演者を代表して、この文章を書いてくれた中学生諸君に、感謝します。
私は、山猫合奏団さんの演奏を見ました。オツベルと象の話と演奏は初めて見たのですが、最初から、話に合わせての演奏がとてもすごいと思いました。ピアノが暗いシーンに合わせて演奏していた低い音の表現力がすばらしかったです。また、ゾウの鳴き声を出していた音がとてもインパクトがあってトロンボーンの演奏と良く合っていて感動しました。
また、私はコントラバスを担当しているのですが、コントラバスのピッチカートがすごいと思いました。あんなに曲の雰囲気を出せるのがすばらしいと思い、私もあのような演奏が出きるように、日々練習をしていきたいと思います。
今回の演奏はとてもためになりました。ありがとうございました。
R.Y.
ぼくは、山猫合奏団のみなさんの演奏を初めて見させていただきました。「仔象ババールの物語」はピアノだけなのに、その場面をイメージできて、語りも感情がこもって、聞いていてオツベルの気持ちになれた気がしました。
「オツベルと象」はコントラバスとチューバとトロンボーンがはいってインパクトがありました。とくにトロンボーンとチューバのゾウの鳴き声はすごいインパクトがあっていちばん印象に残っています。コントラバスのピッチカートがかっこよかったです。とてもすてきな体験をさせていただきました。これからも練習がんばります。
K.M.
僕は、山猫合奏団の演奏と語りを聞いてみて、とてもインパクトがあり、そのあとがどうなるのかなどが、とても楽しみになりました。また、途中で入ってくるTUBAやピアノ、ベースが入ってきて言葉だけでは分からないところも、それがあることによって雰囲気、情景がとてもよく分かって、それでも、楽しみになりました。演奏と語りの組み合わせははじめて聞いて、それだけでもキレイに合わさっていて感動しました。
でも、TUBAやTromboneのゾウの鳴き声では本当に感動しました。ピアノとベースもそのときどきに違くて良かったです。帰ってからまた読み返してみてさらに内容がわかりました。ありがとうございました。
K.N.
5月1日の感想
語りの人の声が太くホール内に響く声で自分が歌うときに参考にしようと思いました。
また自分はトランペットでハイEsまで出ますがキープすることができないので、管がトランペットより倍以上長いチューバで高音をキープできるのがすごい(神技)だと思いました。
本音、自分はあの日違う世界に行きそうになりましたが、参考にしたい音だらけで違う世界には行きませんでした。
今回学んだことは「ホールの響きを利用する」です。機会があったら湘南でも聴きたいです。
A.S.
山猫合奏団様へ
5月1日の演奏、とても楽しかったです。
「仔像ババールの物語」は、とても素敵なおはなしでした。ピアノの演奏とおはなしがとても合っていて、聞いていておはなしの世界が見えているようでした。
「オツベルとゾウ」は、おはなしが歌になっていて、とてもおもしろかったです。途中のチューバ、トロンボーンの象の声には、おどろきました。おはなしをきいていて、楽しくなったり、少しせつなくなったり・・・色々な事を感じることができました。
そして、音楽の楽しさも改めて感じました。今回、この公演を見て、本当に色々な事を学ぶ事ができました。音楽は、こんな表現もすることができるんだなあ・・・と思いました。今日、色々なことを学び、音楽の良さを沢山知ることができ、本当によかったです。
すてきな演奏、言葉、本当にありがとうございました。
R.U.
「オツベルと象」「仔像ババールの物語」の感想
まず、いちばん始めの、「仔象ババールの物語」は語りだけではなく、ピアノがあったので、アニメなど映像を見ているように、頭にくっきりと絵が浮かびました。
一番印象にのこったところは、ババールのお母さんが人間の狩人に銃でうたれるところです。ピアノがバーンと鳴って、銃声が聞こえました。ババールが一番好きで、大切だったお母さんがうたれて死んでしまったという悲しみがすごく伝わってきました。私も、本当に銃声がした感じがして、恐怖を味わいました。
しかし、その後ババールはおばあさんに出会ってすごく良い暮らしをして、森に戻ったら王様になったので、お話しが明るくなって良かったです。そして、ピアノも語りも、さっきまでの悲しみがウソのように明るくなって、すごいと思いました。
次の「オツベルと象」は、ピアノとそれ以外の楽器(チューバ、トロンボーン、コントラバス)が増えたので、さらに情景が浮かぶようになりました。
一番印象に残ったところは、仲間の象が白象を助けにきたところです。象の鳴き声がチューバやトロンボーンなどで再現されていて、とてもリアルでした。本物の象の鳴き声なんじゃないかというくらい迫力がありました。語りは2人しかいなくて、楽器を演奏している方を含めても5人しかステージにはいませんでしたが、私には象が何匹もいて、オツベルや百姓たちが本当にうるように感じました。そして、象たちがオツベルににゅうと迫ってくるところもドキドキしながら聴いていました。最後にオツベルはつぶされて死んでしまって、白象は助けられました。
演奏を見て学んだことや、演奏を聴いて感じたものを、これから活かしていきたいと思いました。そして、これからもいろいろな演奏などを聴いたり見たりして、演奏面で学んだり、いろいろな感情を感じて、活かしていけるといいです。
R.H.
山猫合奏団の皆さま
今日は「オツベルと象」という素敵な物語、演奏をきかせていただき、ありがとうございます。物語なのに、楽器はどうやって使うのかな?と思っていましたが、おはなしと音楽がすごく、ピッタリと合っていて、すごく良かったです。言葉だけでなく、音が入っていることで、物語が想像しやすく、楽しかったです!!
ピアノ、コントラバス、チューバ、トロンボーン、おはなし、皆さん、とても上手で感動しました。私も音楽で人を感動させることができたらいいなと思いました。
今日は本当に素敵な物語と演奏、ありがとうございました。
H.I.
オツベルと象、仔象ババールの物語
「今まで、こんなの見たことない!」と、一番最初に思いました。言葉と、音楽が一体になっているようでした。
ババールの時は、ピアノと語りだけなのに、その物語の情景が浮かんでくる感じでした。明るくて楽しくて、ババールの気分がるんるんの時は、かわいらしい!少し怖い、暗い感じの時や、あせっていたり走っていたりする時も、すごい表現されていて、感動しました。
オツベルと象は、チューバ、トロンボーン、コンバス、ピアノで、みんな息ぴったりでした。語り手の方も二人で、絶妙なタイミングで声が重なって、聴いていてとっても楽しかったです。表情や、声の出し方も見ていました。驚いた時は、まゆげが「大変だ!」というくらいつり上がっていたりと、場面によって違いました。体全体を使っていました。
チューバは、一番驚いたのが象の「パオーン!!」鳴き声です。「本物か!!」と思いました。チューバは吹けないけれど、どうやったらあんな音が出るのだろうと気になります。トロンボーンは、音がとってもかっこよかったです。柔らかい音だけだと思ったら、張っているような押されているような、強い感じの音で、物語を引き立てていました。コンバスは、語り手が話している時も、支えているような感じで、同じフレーズがあったりと、物語を上手につなげていると思いました。ピアノは、本当に、場面によって全く雰囲気が違っていて、次の場面になるときにパッ!と切り替わる瞬間が、いいなと思いました。
物語が終わったときに、出演者の方々が抱き合って握手したりと、心が一つでないと、あんなに一体感のある素晴らしい演奏はできないのだろうと思いました。
お客さんの拍手もなかなか止まなくて、拍手をもらえることは、幸せなことだ!うれしいことだ!と改めて思いました。私達も、たくさんの人から今日のような拍手をもらえるように、日頃の練習を頑張ります。本当に、今日は勉強になりました。
E.H.
オツベルと象&仔象ババールの物語
―仔象ババールの物語―
語りの人がピアノの人を息をあわせてしゃべったり、ピアノの人も語りの人の方を少し見たりしながら、ピアノで雰囲気をつくっていたのを見て、私達がいつも演奏しているようなのとはちがくて、ちがう感じの気持ちを味わえました。私達は大勢で1つになって音楽を伝えていると思うんですけど、仔象ババールの物語は2人が1つのような感じでとてもおもしろかったです。こういうのは初めて見たのでいい経験になったと思います。
語りの人の話し方もとてもきこえやすかったし、ピアノもすごくキレイな音だったり、はくりょくがあったりしてきいていて楽しかったです!!
―オツベルと象―
1番印象に残っているのは、チューバとトロンボーンがやっていた象の鳴き声の音がすごかったことです。音が大きくて、「チューバでああいう音がでるんだ!!」と思いました。びっくりしました。コンバスの人もとても指の動きが速くてかっこよかったです。あと、「のんのんのんのん♪」っていうのがクレッシェンドやディミヌエンドをしていたりして、ただふつうに「のんのん」いうのではなくて音楽らしいなーと思いました。言葉はすべてリズムにあわせられていて、はくりょくもとっても伝わってきて感動しました。アコーディオンの音がキレイでした!また、ききに行きたいな~と思いました。
ありがとうございました!
N.Y.
“オツベルと象”初演の会場では、座っていた位置によってだいぶ印象が違ったみたい - 2011.05.03 Tue,10:56
役者が一つの文章を途中でリレーする様に読ませたところや、オツベルと象の会話は、Pianoの両側からStereoの様に聞こえたかったので、Micを通したとはいえ、音響スタッフの人に、「言葉の人たちの位相(panning)はそのStereo効果を活かすようにしてください」とお願いしたとおりにやって頂いたようですが、やっぱり残念ながら客席の左右の端で鑑賞していた方々は、反対側の役者の発する言葉を良く聞き取れないという事態が発生していたようです。
もちろんそれはスピーカーをもっと増やして向きをあらゆる所から聴いても大丈夫な様にしたり、それは専門の領域のことで詳しくはありませんが、時間があれば、もっと対処できたことでしょうが、前日も仕込み始めてたった2時間しかなく、当日もそれ以下に近い時間しかなかったので、この件に関しては致し方ないでしょう。
Musicalの公演の様にこれがまた最低でも三日とか続けば照明にしても音響にしてももっといろんな事を成し遂げられたかも知れませんが、前日も同じ会場でMusicalの公演があったようで、僕らが会場入りできたのは夜になってからなので、逆に言えば、それからの恐ろしく限られた時間で演奏している人以外のスタッフの努力には感謝感激です。

写真は、こっちのblogのスタイルを流用しました。
山猫合奏団のページにも関連記事が公開されていますので、ご感想のある方はそちらに書いてくださっても大歓迎です。
役者の楠定憲のTromboneが少し上手になった理由(追記して再投稿) - 2011.05.03 Tue,09:56
この日は、mouthpieceだけを使ったwarm-up exercisesのlessonでした。
そうなのです。
この作品の語り手の一人はTrombone持ち替えという役割があって、この件について、他の役者さんでは出来うる人は少ないことでしょう(爆)
遠い将来、これが出版される譜面になった時は、ほとんどの人はTromboneを吹けないわけだから、Tubaで一人で吹くように書き直し、二本同時に鳴っているところは薄くなるけどそれはそれでしょうがないかな。
それを言い出したら、AccordionもTubaの人が全員弾けるわけじゃないしね。
だから結構今回の演奏は特殊な形態だったと言えるでしょう。
特定の役者のために書いているところがあるので、もう一人の高山正樹もいくつか楽器を出来るので、今度はそっちにも持ち替えさせようと思っています。
5/1の初演を迎えるまで、前日もでしたが、様々な吹き方のLessonを役者でTromboneを吹く楠定憲(高校時代に吹奏楽をやっていた)は古本君に教えて貰ったのですごくありがたかったはずです。(他にもこういう記事に似たような状況があったので紹介していた)
こういう「過程」もあった今回の初演までのRehearsalでした。

“オツベルと象”初演は終了しました - 2011.05.02 Mon,09:17

多数のご来場ありがとうございました。
Bassの稲垣さん(右端)はいつもに増してad.libが冴え渡っていたので、弾きながら聴衆になって楽しんでいました(爆)
Tubaの古本大志君(左から二人目)は鮮やかな速いパッセージやaccordionへの持ち替えも印象的でしたし、役者二人(Babarの人形を持って居るのが楠定憲、譜面を持って居るのが高山正樹)もおのおのの持ち味をふんだんに発揮し、初演ならではの事故はあったりはしたけど、その経験は次の公演に生きることでしょう。
作曲者としては、初めて「大ホール」でも鑑賞しうる作品を作れたと思っています。
今までの、“どんぐりと山猫”や“セロ弾きのゴーシュ”、“注文の多い料理店”はあまり大きくないところで、眼の前で演奏する良さが出る作品だったと思うけど、これはマイクなしの上演がありえないものなので、かなりキャパシティーが大きいところでも通用すると思いました。
いろんな人に「新しいジャンルの誕生だ」と云って貰えたのは嬉しいことですが、新しいかどうかは別として、この記事に書いたとおり、「歌と朗読」の合いの子を作りたいとおもっていたので、その夢が30年の時を経て実現することができました。
「こんな形式はなかった」ということは、すなわち、役者が音符に対して受け入れる素地があること自体希なことであり、それにしても「こんな音符で難しく台詞を書いたらだれも練習してくれない」ということに他ならず(爆)、通常は3日くらいの練習で音楽にならないと、仕事になりません。
欠員はそれぞれの日にあったとはいえ、役者と20回近い練習を繰り返して得たものはやっぱり余裕として音符を読んでいない様に聞こえる瞬間があちこちにあったということでしょう。
最後の牛飼いの台詞と、象が助かって述べた事以外はすべて音符で台詞を制御していましたから。
「相当練習しないと上演不可能」という、ある意味、プロの仕事っぽくもあれば、アマチュアの極みみたいなところもあったわけで、今回の作曲料も誰かに貰えるわけでも無し、僕の究極の趣味の実現だったかも知れません(爆)
これに費やした時間と努力が対価として戻ってくるのは相当先になるかもうこれでお仕舞いになるか分かりませんが、アマチュアの様に、こういう一日のために昨年末から作曲を初めて以来、五ヶ月生きたということは人生の中でそんなにあるものでは無いので、今日からまた次の事を考えつつ、昨日は大学の同級生達が多数来てくれて飲みましたが、いつもよりは正気で居た時間は長かったけどやっぱり最後は寝ました(爆)
そうそう、久しぶりにPoulencの「仔象ババールの物語」(L'histoire de Babar)を前半に演奏しましたが、それも楽しかった。
今後、韻を踏んでいるような原作に出会ったら、同じような形式で書くことでしょう。
だから、役者二人はどんなに素晴らしい作品でも韻を踏んでいる作品を僕に紹介しない方が心臓のためには良いかも知れません(爆)
今回は、アルテリッカの音楽祭に、山猫合奏団としては初めて楽隊は正装で出演しました(爆)
今思えば、役者の二人は、Tシャツの絵を見せて撮るべきだった。
ついに“オツベルと象”の初演の朝を迎えました - 2011.05.01 Sun,07:33

自分一人の練習というものを除けば、みんなで集まって練習した回数としては、自分史上最も多かったわけで、なんで一回のConcertの為に20回近くrehearsalしなければならなかったかと、仕事で言ったらその対価は払われない訳で(爆)、みんなの協力に感謝です。
まあこれだけrehearsalすると気づく事も多かったので、実に興味深かったけど。
初演だし、まあ本番ではどんな事故が起こるかちょっと楽しみにしているところもあって(爆)、みなさんがおもしろがるか、恐ろしく反感を持つか、たぶん感想の温度差は極端だと思うので、今日の日はたぶん忘れられない日になると思います。
思い起こせば、3/11に地震が起きましたが、その直後から計画停電の中、あと数分で停電になるので書けるところまで書くぞと思って普段ありえない集中力を感じた日もあれば、最後に象達が攻めてくるところで、もろに地震の描写みたいなところを、余震を感じながら書いていたり、そのときは「この状況は頭に刷り込まれるだろう」と思っていましたが、もう作曲の苦しみはほとんど忘却の彼方にいってしまい、今はPianistか、指揮者のテンションでいっぱいです。
昨日も都合により、Bassの稲垣さんが欠席だったので、Bassのパートを弾き続けていたし、時間切れで最後までできなかったけど、今朝の残された1時間で最高のものに仕上げる所存です。
まだ当日券として若干余裕はあるそうなので、これから思い立って新百合ケ丘にお越しになる場合は可能です。
では、。
informationはこちら。
写真は昨夜の仕込みの最中ちょっとだけ出来たrehearsalの情景です。
本番は、左端の楠定憲の横にJazz Bassの稲垣護さんが立ちます。
あ、楠さんのTromboneが映っちゃってる(爆、良いけど、、)
Tubaの足下に置いてあるものは来た人だけに分かるものです。
Tubaは白象、それを吹く古本大志君は、、 - 2011.04.30 Sat,12:15

で、実に奇妙な一行の文章が作品の最後にあるのです。
ずっと物語を聴いていて(読んでいて)、この一行で終わるというのはたぶんびっくりすることでしょう。
“オツベルと象”をネットで探すと、今は全文を参照出来るので興味のある方は覗いていただきたいけど、これは、原文では一字不明らしいし、誰が言っているのかも解釈の仕様によっていくつも可能性があるでしょうが、今回僕が作曲した作品では、読むわけじゃないので、「一字不詳」ということを反映するつもりはありませんでした。
なんらかの言葉を当てはめれば、それに反対する人もたくさん居るかもしれないけど、うやむやにする意味がないし、僕の選んだ言葉の根拠は、第一に、最初に遭遇した時(中学校の教科書)にはっきりそう書いてあったし、その解釈が一番自然だと思ったからです。
で、誰が言っているのか。
こんな意味不明の最後の文章は、今まで僕が書いた、“どんぐりと山猫”にも“セロ弾きのゴーシュ”にも“注文の多い料理店”にもありません。
で、この作品の冒頭に、本文に入る前、題名のすぐ後ろに、なんと言うか、副題の様に記されている言葉があります。
これも読むのと、朗読しちゃうのではなんかニュアンスが違って来るのかもしれないし、実は初項では題名とその副題は読まない事にしていたのです。
でも、その「副題みたいなもの」、あえてここで書いてしまいますが、「ある牛飼いがものがたる」というのが、僕には最後の一行につながっている様に思うのです。
ここでネタバレをさせていいのかという意見もあるかもしれないけど、このblogを見ている人のほとんどがこの公演を見に来てくださるとは思えないので、書いちゃうし、それを知ったから問いってこの作品を楽しめないとも思えませんので。
つまりこうです。
この記事の題名にあるとおり、Tubaは登場する白象の象徴です。
で、演奏する古本大志君は牛飼いの象徴なのです。
だから、前の記事の写真と彼の表情の違いで、その立場の違いを表現してみました(爆)
故に、曲のあちこちで彼がちょっとだけ台詞を言うのと、楠定憲と高山正樹が言葉を発しているのは立っている場所が違うのです。
だから、それが最後のまったくこの物語と関係ない一文につながります。
知らないで聴いていたら「?????」て終わり方ですからね。
すごいよ、今回の古本君は色々な役割があるわけです。
じゃ、Bassの稲垣護さんはなんなのですか?
彼はTubaと比較すれば、オツベルの象徴でもあるけど、すべての作品の言葉のrhythmを統括する「空気」みたいなものです。
MainのThemaはBassにあるし、たぶん、一番沢山演奏し続けて、鳴り続けているのはBassです。
だから、ほぼ1時間(いつのまにか、BeethovenのSymphonyのほとんどより長い作品になってしまった(爆))の作品の演奏中、最も気が抜けないのはBassかもしれません。
これは無理矢理やればPiano一台でも演奏は出来るかもしれないけど、BassもTubaも無ければほとんど本当の意味で成立しない音楽です。
じゃあ、僕の弾くPianoは?
ううむ、作曲家である僕もよくわからない。
背景でもあるし象にもなるしオツベルにもなるし、pianoは「お囃子」ですね、きっと。
僕は4/9に初めて聴衆を前にしてこの作品の試演会をしたとき、誤った解説をしました。
それは、語り手二人の、役割分担についてです。
たしかに、オツベルと白象の役割分担は、はっきりしています。
前者が楠定憲であり、後者は高山正樹です。
でも、それ以外の部分、普通の朗読ではあり得ないほど、一つの文章を、二人でリレーして言ってみたり(二人は離れて座るので、stereo効果が出るはず)、同時に同じ事を言ったり(unison効果)、時には輪唱(canon)みたいにずらして言わせたり、一人で語ることでは出来ない仕掛けが満載で、どっちかというとそっちの方が多いですから、あらかじめ、そういう役割である事を説明してしまったので、それ以外の部分の「二人の役割分担が分からなかった」と試演会の後に言われた時には、「しまった」と思いました。
通常、二人居たら何らかの「役割り」があると思う訳ですから。
それがあれほどめまぐるしく一つの文章を二人で読んでいたりしたら、頭の中をかき回されてしまうことでしょう。
Wienの表現主義の時代の作曲家、Anton Webernという人が編曲したBachの6声のricercareの冒頭から、Themaのmelodyを一つの楽器ではなく、様々な楽器が受け継ぎながら演奏するという手法があります。
「音色旋律」という言葉だったかな、音色も徐々に変化するという面白さが、melodyの展開の構造とともに重視されているのです。
僕はそれに似た事を、語り手(この言葉は危険だ、語ってない部分もあるから)にやらせているので、芝居でいうところの「役割」を完全に失っているわけです。
失っていると書くと、とても無秩序に思うかもしれませんが、Soccerの好きな人だったら、この例えで、すぐに分かるでしょう。
1970年代初頭までのSoccerでは、FWは攻めてシュートは打つけど守らないでよかったし、それは他のポジションもそうでした。
自分の与えられた役割だけをやるものだったのです。
攻める人は攻める専門、守る人は守る専門。
それを、1974のMünchenのWorld Cupで大旋風を起こしたHollandのsoccerは、Total Footballといって、ポジションが現代のサッカーそのものの様に、流動的になりました。
前で攻めている人も守るし、後ろで守っている人も時に攻め上がるのです。
だから、役割が随時入れ替わるし、その感じに似たものが今回の「言葉」担当のパートの二人に課せられているわけです。
明日、どういう演奏になるか実に楽しみです。
もう4/9の時点と恐ろしくみんなの余裕と、自動運転的な表現(もうすべて言葉が音符に乗っている事とか、変拍子の嵐の譜面の縛りからはかなり解放されているので)が出てきているので、僕の思った通りのことと、僕が思う以上の事が必ず舞台で起きることを期待しています。
普段自分のこのblog内の“オツベルと象”に関連する記事にlinkをはっているから、今回は、こっちのblogの「“オツベルと象”」というkeywordで引っかかるページを紹介します。
“オツベルと象”の白象Tuba - 2011.04.30 Sat,00:54

このショットのとき偶然左手がベルを抱きかかえていたのですが、それがなんとも楽器への愛情の表現に見えました。
5/1に初演を迎える白石准作曲の“オツベルと象”の情報はここ。
白石准がこの作品について述べたcategoryはここ。
この間、ある人から「“オツベルと象”を読んだ事が無いのだけど、今回鑑賞するにあたって読まないでみた方が良いか読んだ方が良いかどっちだろう」と訊かれた。
もちろん、読んだ事の無い人に対しても責任を持たなければならないのだが、今回のつくりは、ほとんど「原文を音楽が説明する」という感じではないので、あらかじめ読むチャンスがあるなら、読んでおいた方がどぎまぎせず鑑賞出来ると思うと言っておきました。
音楽の中に「語り」ではなく「言葉」がスパークしているのです。
意味不明だな(爆)
そう、ほんとうにこの作品に対して、「朗読」を聴けると思ったら、意味不明な「語り」かもしれません。
僕は朗読も好きだし、歌も好きです。
でもその「あいのこ」を作りたかった。
それがこの“オツベルと象”です。
“オツベルと象”の音楽の台詞の部分は白石准の書いたラップなのです。 - 2011.04.23 Sat,11:21

ある物を犠牲にして別のものを獲得する、というのは正に正しい解釈だと思う。
この作品を「芝居」や「朗読」だと思って鑑賞する人と、音楽だと思って鑑賞する人で、欲求不満度は凄く違うだろうと思う。
どんぐりと山猫を書いた30年前に栗鼠の場面で今回の手法を試しているのだが、それは僕の考えるラップの表現なのです。
故に普通に朗読しているはずが、ある程度抑揚のない語り方になる(実はそういうところがあっても別にかまわないとまで思っている。役者にとっては許せないことなのだろうが。)のは二人ともしょうがない事だと思っていて、役者魂として綺麗な抑揚で喋ろうとこれからの段階でもがき苦しんでもらう事は作曲家として嬉しいことです。
ただし、歌としてメロディが付いてない所も、音符に制御されている訳だから常にテンポや拍子の事を考えた語りにならなくてはいけないわけで、普通の朗読の延長線上でアプローチしようとする高山と、音楽のノリからアプローチしようとする楠とのせめぎ合いが面白いのだ。
僕としては現状台詞の意味が伝わりにくくなっている状態について多分、演劇の専門家ほど深刻に考えてないのです。
高山が、琵琶の先生に「あまり言葉を分からないように語って良い、なぜならば分かるように語ったら今風だから」みたいなことを云われたらしく、それを稽古場で実践したら、ベテランの女優さんに「ちゃんと分かる様に語らなければいけない」と云われてしまったのと似たようなことかも知れません。
Storyが分からなければこの形式はまず成り立たないのだが、音楽に載せて語るということを本気でやりだして、ある意味声楽の領域に踏み込んだとたん、意味論が最優先課題にはならないわけで。
まあ僕の作品には、メロディーに合わせて長母音で引っ張るところは敢えて取り入れてないけど。
その代わり二人で一つの文章をリレーして読んだり、たとえば、急いで急いで、と一人が二度言うところを、同じ時間内に、もう一人が、それを三回言っていたりする明らかに、器楽的な処理をしていたり、輪唱していたりするところがあるから、まったく演劇的ではない。
マイクを入れて楽器と鳴らすのは当日が初めてだし、それから予想される結果は今よりだいぶ改善すると思うけど、何よりも「これは朗読ではない」つもりとはいっても、聞く人は「語る」ということに対する先入観によって、この作品の「言葉のあり方」について厳しい批判を受ける事は十分覚悟はしてる。
しかし、これがやっと僕が見つけたこれからの僕の作風の基本だと思うので、その点を批判されても意外には思わない。
後は、演奏者としてのみんなと練習して作品を成長させないと。
ピアニストとしてはまだ自分のパートが全然弾けてないし(爆)
写真は、神奈川県相模原市の橋本駅近くにあった、樹の影で、なんかアフロヘアーの鹿かカンガルーが枝を加えて躍動する感じがある(爆)
予定外の Jam session - 2011.04.21 Thu,21:47

蛾の記事ではありません。
本来今週は僕は岡山県の牛窓というところに行っている予定でしたが、諸般の事情で来月に延びました。
でも考えたらそうならなければ、今朝、大げさに宣伝をした公演が控えている、“オツベルと象”のRehearsalを今日出来なかったので、ありがたかったです。
というのも、みんな忙しくて出演者全体が集まれるRehearsalは今日が最後だったからです。
勿論本番まであと欠員はあっても何度もやりますけど。
ですから、今日は音響と照明のスタッフが見学に来て下さり、僕らとしても初めてフルバージョンの編成で通しました。
自分は今まで何時も居ない楽器の部分を弾いていたので、初めてPianoのパートを弾きましたら練習が出来て無くて難しくて全然弾けてないところがたくさんあることに気づきました(爆)
で、朝から練習していたのですが、午後の早い時刻に別の場所に移動しなければいけない人々がたくさん居たので、昼過ぎには全体練習は終わってました。
語り手(実は今回の作品は、「語り手」ではなく「言葉」という楽器としてプログラムには刷られている)の一人、高山正樹が去った後、なぜか、Bassの稲垣さんがおもむろにPianoの前に座り、弾き始めました。
すると、Tubaの古本君が、Bassの所に行き、妙なセッションが始まりました(爆)
どんな感じの展開になったかは以下の写真を追って見てください。
だんだん表情が変化していくのが分かります。
それがそのまま音楽の内容に反映しました。
古本君は、Tuba奏者ですが、CHICAGOというMusicalでBass持ち替えという指定だったのでその公演から独学でBassの弾き方を学びました。
再演もあったし、なかなか楽器にも慣れてきて、この異種格闘技戦もなんかだんだん様(さま)になってきたのです。
ほとんど写ってませんが帰る直前のもう一人の語り手の、楠定憲の嬉しそうな顔。
この時点ではTromboneは持って居ても、傍観者でした。




他の仕事じゃあり得ないだろうけど、音楽家同士はほとんど年齢の差を意識しません。
(あまりに下手な奴が来たときにそれが浮き上がったりするのだ(爆))
こういう笑顔は本当にいいね。

しかし、いつの間にかこういう自由度の高いプレイが出来るようになったんだね、すばらしい。
初めて弾いたのが2008年なのにね、そして当たり前だけど、そういう公演が無いときは全く触ってないのだから(爆)
今回の出会いが面白いのは、Trombone奏者ではない役者の楠定憲が、練習中、Warm-upの仕方とか、吹き方のtipsをTubaの古本君からアドヴァイスをされたり、さっきは、bassの弾き方のアドヴァイスを古本君が稲垣さんに二言三言されていたのが面白い。
無料でLesson受けてるよ、みんな(爆)
そういえば、僕ももともとaccordionは楠定憲に弾かせようと、30年来の知り合いの彼に初めて鍵盤の弾き方(主に指遣い)を半日教えた日もあった。(こんな単純で複雑なこと鍵盤上でしてるんだね、と驚きを持って感想を言われたのが面白かった)
そのうち、役者の楠定憲も、たまらず、参加し始めました。
この写真を撮った後僕も、遅ればせながら、地面に転がっていたAccordionを拾って、参加しました。
今思えば、それ録音しておけば良かった(爆)
すっごく楽しかったよ。
“オツベルと象”の練習の後の一コマでした。
というか、こんな事をする余裕が出来たくらい、ちょっと流れが通し稽古で見えてきたのです。

で、実はこの後、僕がPianoの所に行き、Jazz師匠の稲垣さんが自分の楽器に戻り、Bluesのセッションが始まりました。
すると、古本君はTubaに戻らず、楠のTromboneを奪い取り、延々、15分から20分近く演奏し続けました。
(そう言えばこの日も彼はTromboneを吹きまくっていた(爆))
おかげで、早く帰るはずの人たちがちょっと遅くなりましたが、なんかこの瞬間、小難しい曲で頭が疲れ果ててて居た(誰の曲だ(爆))みんなの気持ちが恐ろしく開放され、高揚しました。
どっちかというと、僕も古本君もClassic側の人間ではありますが、二人ともMusicalの仕事で知り合った人たちとその仕事の中でも、そしてそれを離れても、普通のClassicだけ演奏する人たちと違って、ad.libすることにそれほど、躊躇や照れはないので、聴いている人もいないし、思い切りできました。
ああ、面白かった、、、、。
この時間を通じて凄く実感しちゃったことがあって、長くなりそうだから、こっから先興味の無い人が見ないで済むように、それは追記に書きます。(長いし、独断と偏見に満ちているから来る必要はありません(爆))
ついに新作“オツベルと象”、最後まで作曲できた - 2011.04.01 Fri,20:48

考えてみれば僕が書いた“どんぐりと山猫”も“セロ弾きのゴーシュ”も“注文の多い料理店”もこれも、異界(喋る動物が出てくるという点など)との接触物語なのであり、だから音楽がその異界を表す要素になるのであり、作曲の動機付けにもなったわけです。
“どんぐりと山猫”は一郎が山猫の手紙を貰ってから、いきなり異界に入っていきます。
景色や登場人物の、心象風景みたいなものを音楽で表現しました。
だからどこに音楽を付けるかは作曲家のさじ加減一つなので別の人が書いた作品とは音楽のありかが全く違うはずです。
“セロ弾きのゴーシュ”は、音楽を演奏する物語なので、ある意味音楽がどこにあるべきかは最初からはっきりしているので、どこに音楽をつけるか悩むことはほとんどありませんでした。
異界は最初の晩にやってきます。ある意味“どんぐりと山猫”は最初から最後まで異界の話でしたがこれは現実の世界と並立しています。
“注文の多い料理店”も“どんぐりと山猫”と似ているところがありますが、最初と最後には現実の世界がきちんと存在しています。
ですから、ほとんど二種類の音楽で構成されました。
異界の森に入っていくのと出てくる音楽と、山猫が構築したレストランの中の世界です。
さあ、“オツベルと象”です。
もちろん、これは象が喋るので全編異界と云えばそうなのですが、“セロ弾きのゴーシュ”の様に、現実と真夜中の異界が分かれていません。
現実の経済活動(稲こき機械のある工場)の中に、ひょっこり白象がやってきます。
白象もしゃべるけど、お月様もしゃべりますし、今までの作品と違うのはオツベル以外の雇われている人たちもちゃんとそこにいて活動しているのです。
今までは主人公に当たる人しか異界の動物たちと話してないので、個人的な夢みたいな世界だったから、“オツベルと象”は今までの物語とちょっと構成が違います。
Mozartの音楽もそうだけど、一瞬聴くとみんな似ているようでどれも同じ戦略で書かれてないように、僕が取り上げた四つの賢治のstoryも、世界観がそれぞれ違うのが本当に面白い。
もともと山猫合奏団は賢治だけにフォーカスを当てて作曲する団体を作ったつもりはないのです。
たぶん、次の作品は別の作家のものにしようとは思っていますが、偶然4つの作品を経験してこういうことに気づけたのは幸運だと思います。
“オツベルと象”でもう一つ重要なのは、冒頭の題名のところに書いてある「ある牛飼いが物語る」という設定です。
だからなのか、とっても文章が僕が書いた前述の他の作品と文体が違います。
明らかに、朗読されたいようなリズミカルな韻を踏んでいます。
その中で白象の台詞や、お月様の台詞をどう処理するか。異界の中の異界と現実のオツベルの役割を考えるのは他の作品とは違いました。
“注文の多い料理店”の山猫の「張り紙」は歌で表現しました。
さあ、今回のオツベルと白象のやりとりはどうなっているかは本番を楽しみにしていて下さい。
あまり書くとネタバレになるので、ほのめかして置くことにしますが、この「牛飼いが物語る」と断っている構造が、最後の意味不明な一行(原作を参照のこと)に繋がっていて、それもはっきり僕は意識して書きました。
まあ、賢治の原稿がぐちゃぐちゃで、その一行の中のある一字は不明だそうですが、僕は勝手に(というか中学校のころ見た教科書にはある言葉に明確に置き換えられていて僕はそれをそうだと思うので採用させて貰いました)読んでいる分には「一字不明」で成り立ちますが上演するには決めないと行けないから、賢治マニアからすると、「それを勝手に云ったら、決まってないのに反則だろう」と云われようと何も気にしません。
僕なりのアレンジも音楽的にかなりの部分文章に施してあるし。
でもそのアレンジは、今まで三つの作品では試さなかった、声の可能性、そして二人で語るという事が最初から想定された初めての作品ですから、今までのものとは同じ二人の語り手の上演でも根本が違います。
今までは語り手は一人という前提で書かれていて、二人でやったほうが面白いから最近二人でやっている(“セロ弾きのゴーシュ”cellistがゴーシュをやるから三人だけど)ことが多いのですが、今回のこの作品を本来の形で演じるには、語り手一人では出来ません。
誰に発注されたわけでもないし自発的に書いた“どんぐりと山猫”以来の作品なので、この作曲料がどう僕に入ってくるのかまったく分からない(爆)趣味の作品状態だけど、そうだから、他の作品と違って、締め切りの概念が全然違うので、毎回練習のたびに譜面が入れ替わることに、共演者はもう疲弊しきっているが、良いものにするにはそんな不満を留意するつもりは全くない。
他人に仕事で発注されて自分の作品を作ってきたけど、やっぱりどこか制約があり遠慮が入るのだ。
(その後自分のものになった時から変貌は遂げているが)
今回のものは自分の思ったことを全部やってみたい(まだまだずっと思っていて実現してないことはいくつもある)ので、5/1以降も大幅な変更を施す可能性がある。
だから、3/30に初めて全員の音を聴いたが、もっと卒倒するぐらい感動するかと思ったんだけど、たしかに感動したのだが、自分がリアルに一度も聴いたことはなくても、毎日頭に鳴らし続けていたので、予想どおりというか、確かに感動したが、意外な事はほとんどなかったのにはびっくりした。
あたりまえだが他の人たちの耳に聞こえていたものとはたぶん違うだろう。
一日中のほとんどの時間、今はこの事ばかり考えているので、事務的連絡も失念が増えているし、周りには迷惑もかけているのだが、風呂に入っているときや電車に乗っているとき、自転車を漕いでいるときにどんどん新しいアイデアがでてくるし、そして練習して他者の勘違いや面白い表現を浴びることによってどんどん音や拍子が変わっていっています。
なんか今までの作品となにか恐ろしく違うのが、聴いてくれる人に全くこの面白さが通じなくてもたぶん僕はショックを感じないだろうという確信があるのです(爆)
前はネガティブなことを作品について云われると結構ダメージが大きかったのだけど、今回はあまり外側におどおどしている感じが全くない。
だからといって独りよがりにはなるつもりはないが、何時だってそうだが、新しいことをするときは、聴衆より共演者に自分の思いを伝える方が難しいのだ。
なんか、作曲してるのに、「この物語にはこういう音楽が一緒にあったら面白いだろうな」というまったく観客の気分でいるところもあるから、どこか自分じゃない人が書いているような錯覚に囚われて、pianistの立場でみんなと一緒に練習していると、弾けないところはたくさんあるし、実際に音を出すととても新鮮な感じがするときがあるのです。
やっぱり他の三つと違って、この作品を書こうと漠然と思いだしてから30年が経っているという思いがあるのかも知れません。
BrahmsのSymphonyやPiano concertoも数十年がかりで書き換えたものがありますが、もちろんそれとは比較するなんておこがましいけど、数ヶ月で発想して書いたものとはなんか違うので、他人事に数十年、とか云われても自分の中でそれに対する集中度はあまり時間の経過を伴ってないので、気がついたら数十年という浦島太郎みたいなものですよ。(爆)
20代で漠然と思っていたこと、そしてその間に譜面にはしなかったけど、着想はいくつもあったので、それが今噴火している感じと言えば良いかな。
そのせいか、練習していると異常に集中しているので休むことを忘れてしまうので共演者には申し訳ない。
でも一瞬休憩しようと思って共演者の顔を見ると、今まで見たことがないくらい疲弊しているのがわかって面白いね(爆)
これで鮮やかにいとも簡単に演奏し、語って見せたら、練習しないでも出来る朗読と音楽の作品とは根本的に聞こえ方が違う事になるだろうから。
“ジョディと子鹿のフラッグと”を書いていたとき、演出の関矢幸雄先生が、常に「「技」を舞台で出すこと」の重要性を説いていた。
その時は、人形劇だったが、人形遣いが生身の人間としての舞踊的所作とか様々な小道具を使う表現とか、「培われた技」、彼はそれを「業」(わざ)という漢字で表現し、「人形劇」を「人業劇」と書き換えて上演していたが、まさにその時教わったスピリッツを今回活かしたいと思っています。
今までの作品は、ある意味役者寄りのところ(反論は十分に期待するが)があって、pianoのパートを他人に弾かせると、その人の持って居るドラマツルギーというか、imaginationが欠乏していると本当に語りにくい状態になったものだが、今度は逆だ。
完全に音楽寄りで、役者が楽器にならないと行けないので、器楽のパートも難しいが音楽家なら、これを普通に読んでいけばすぐにこの世界を表現できるが、役者は一瞬たりとも気が抜けないので(自由に朗読する箇所は一箇所もなく音符で支配されているので)音楽的センスのない役者では務まらない。
まあ楽器を吹かせたりするので、山猫合奏団が僕が最近世話になっている劇団あとむ化しているとも言えるのだが(爆)
まあこの演奏は5/1に行われるのだが、その前に試演会をしようと思っていて、非公式な僕の集まりが来週あるので、そこでぼろぼろにはなりそうだし、Bassは来られないので編成も少ないけど、初めて連中も聴衆が居るところでどんな事故や暴走があるかを知る必要があるので、今日書いた譜面はその日までには根本的にはもういじらないことにするつもりです。
8th Rehearsal@“オツベルと象”2011/03/27 - 2011.03.28 Mon,13:37

予定がなかなか合わなくて、未だに本来の編成全員(語り手二人、Tuba,Bass & Piano)がそろうことはないのだ(爆)
稲垣さんはこれまで二度リハーサルに物理的に来られなくなった。
一回目は突然の雪、そして二度目は地震のためだ。
しかしこられなかったこの3週間あまりの間にRehearsalは4回行われ作曲は先に進み、変更もおびただしい数がされたのだが、昨日久しぶりに、彼の音を聴いてまた高揚した。
しばらく会っていない間に相当練習してくれていたようで、言葉(歌もあるけど、普通の語りの部分も全部音符だ)をすべて音符で書き、そして変拍子の嵐で構成される作品としては、全員としても立ち往生してしまう箇所がどんどん減っているので、確実に演奏として成長している。
まだ聴衆の前にでてきちんと演奏できる状態にはなっていない(なんで8回も練習しても、と云う無かれ、5/1には実に面白いShowにしてみせます)が、昨日の最後に多少の事故には眼をつぶり通してみたら、今まで見えないものが見えてきたので終わった瞬間みんなの見合わす表情が実に晴れ晴れとしたものだった(爆)
まだ最後の7行の作曲が完了してないが、30日に全員が揃う時までには第一稿(厳密に言うともうver.1になる前のベータ版としてのこの曲の変更回数はすごいのだが)の脱稿をしたいものです。
稲垣さんのケースにあった、すばらしい装飾。
風呂の水漏れのコーキング剤で盛り上げたのだとのこと。凄い。

“オツベルと象”への固い決意と確信 - 2011.03.26 Sat,23:08

今日も四時間半くらい今作曲中の“オツベルと象”の練習をしたが、やっぱり難航して第二日曜の所までしか出来なかったし、通して演奏するとどこからか破綻する。
もうリハーサルは何回やったかわからないが、未だ頂上は見えずというところか。
凄く難しいのだが、このぐらい練習しないと出来ないものをやるというのは実に音楽家冥利に尽きるのだ(爆)
普通に読んで貰って音楽がほとんど無関係に別々勝手に作業すれば成立する種のものでは無い。
これだけ、人工的に大変な語りになっているので、練習して決まったら相当ユニークな表現になるとは確信しているのだが、たぶん50分くらいの作品になるが、一瞬たりとも気が抜けないのと、今の状態では、この間出来たところが全然出来ないとか、もっと練習回数を増やさないとまずいかも知れぬ。
こんなに大変な思いをして上手くいったところで聴いている人には一瞬だもんな(爆)
俺はいいけど、役者の苦労はいかばかりか。
これで、この作品に於ける声はきっと通常、人が考える「朗読」とは分類されないであろう。
完全に、歌でもなく(一部あるけど)、朗読でもない、言葉が楽器になっている形。
時に、言葉の意味が最優先するより、合唱の曲の様にその言葉のリズムだけ強調されたりするところもある。
去年まではアルテリッカのお祭りの中で、「演劇」のジャンルに分けられていた山猫合奏団、「音楽」のジャンルに今年から組み込まれたが、それに恥じぬような世界を展開したいと思っています。
山猫合奏団のCDのキャッチフレーズにはなっていますが、僕の考える本当の意味での「音楽と言葉の化学反応」をお見せできると思います。
オペラでもミュージカルでも朗読でもない言葉と音楽の出会いです。
明日もBassの稲垣さんが来てくれるので、いまだ全員は揃ったことが無いが、より深い理解を出来るよう練習に励みます。
というか、あと本の七行を残すところになった先がまだ書いてない。
昨日のブログにも書いたけど、書いたところを修正して一日が過ぎてしまったが、今日の練習でも書き足さなければ行けないところが沢山でた。
どんどん、語りのパートが、普通の役者じゃ読みたくない記号に埋まっていく。
ForteとかPianoのみならず、cresc.やdim.やfermata,accent,rit.やaccel.など、
かつては、現在の山猫合奏団の二人の中心的な役者であり、学生時代からずっとこういうことをやり続けている楠定憲か、高山正樹のどちらか一人と、“どんぐりと山猫”も“セロ弾きのゴーシュ”も語らせていた。
今でもそういう形式で予算の都合で演じることがあるが、二人で語るというのは、対話の時に実に演劇的になるから面白いわけだ。
そのことは今までも思っていたが、今回何が面白いって、歌になる前のぎりぎりの段階の言葉を使った音楽をやっているわけで、canonや、まるで伴奏とmelodyのcontrast、そしていざというときのunisonなど、一人で語ることではできない手法を駆使することができる快感があるのだ。
具体的な面白さは実際に聴いて貰って判断して貰うしかないが、独りで朗読することでは絶対に出来ない状態が始まってから数分で聴いている人には実感できると思う。
たぶん、予想だけど、これは演劇畑の人が聴くよりは、音楽畑、あるいは薩摩琵琶に興味を持つ人たちの方が素直に受け入れるかも知れぬと思うのだが、どうなんだろう。
30日にはついに全員そろって音を出すことが予定されている。
必ず何時も誰かが欠けているわけで、初めてPianoが本来のPianoのパートを弾けるわけで役者達も初めて聴く音があるはずで、(僕も(爆))実に楽しみ。
本当に30年間、この作品を書こうと思っていてほったらかしにしておいた幸運を喜びたい。
30年前に書きたいなと思ったときの発想は今思えば実にポケットの中にそれにそぐう「武器」が無かった。
この30年間自分がいろんな人々といろんな音楽に出会ってきた事へのOmageが今の時点の自分に投影されているので、それぞれ、今まで書いた作品も少なからず僕の人生を変えてきたけれども、今回のimpactは、それらをすべて飲み込んだ上で出てきたものみたいな実感がある。
“どんぐりと山猫”がすべての出発点だった。
これで、芝居の効果音でもなく、音楽なんだけどテキストと音楽のありようが自分と役者達にとって単なる添え物じゃない態度を取ることを明確に出来た。
“セロ弾きのゴーシュ”も苦労したけどその苦労は、たぶんすべての作品の中でもっとも楽しかった。
だって、「音楽を演奏する」場面を書けば良いだけだったから。
“注文の多い料理店”はその二つと違う事をひたすら考えて作った兄弟。
今まで封印してきた「歌唱」という手段を全面的に出した、アイデアとしては他の作品に比べてもっともシンプルで、基本的に一つのモティーフで山猫のメッセージを表現した。
今回のももちろん前の三つと(他にも作品はあるのだが)出来るだけ違う音楽を書こうとは思ってはいたけど、今までの三つでやった実験の結果を並列に並べられるものというよりは、その三つをまるで直列に繋いで爆発させた様な位置づけ(爆)、みたいな気がしています。
ある意味、その三つのすべての要素がここに生きているからです。
それらの経験と他の大作曲家の作品(クラシックやミュージカル関わらず)が僕の体の中で消化吸収を繰り返した末に出てきた結果とも言えます。
ここが作曲専門の人と僕が違う立場であると云うことです。
Pianistとしてかなり沢山の作品に直接触れてきたから、そこで自分があこがれる響きのストックが無数にあるわけで、“どんぐりと山猫”の中にも実は誰にもわからないけど、Richard StraussやShoenbergやBrahmsやPoulencやRavelといったまったく関連性のない(爆)、様々な作曲家へのあこがれ、Jazzの初心者的な言い方をすれば、それらの作曲家の素敵な書法を真似して書いてみたところはあるわけです。
昨晩、風呂でうたた寝をしながら夢に出てきたのは、もちろん、この作品はTubaとBassという編成がなければ成立しませんが、象の象徴を、そのうちTubaでなくて、Bariton Saxか、Bass Saxでもやったら違う味面白いだろうなということでした。
Multi Playerで臨めば、他の箇所で持ち替えればいろんな音が出せるし、その他にもBass Clarinetではどうだろうとか、Bass Tromboneだったらどうだろうか、と色々頭の中で鳴らしていてすっかりお湯が冷えました(爆)
まずはもっともしっくり来るから選んだTubaの白象でこの世界を構築しますが、追々、いろんな色の象を見てみたいと思います。
そうだよ、30年前に書こうと思っていたころには、TubaやBassの知り合いは居なかったから本当に今彼らと知り合ってこれを書こうと思ったのは、幸運な成り行きなのだ。
今告白すると、最近これを書こうと思って最初に考えたのは、PianoとBassだけで、Bassに象を担当させることだったのです。
で、Tubaの事を思いついたときに、TubaとPianoだけでもいいかなとは思って、どうしようと悩んだ末、三人でやりゃいろんな事が出来るとあっけなく解決したのです。
しかも役割分担がはっきりできて実に面白い。
本当はこれに、Drums、あるいはPercussionsも入れたかった。
おいおい、景気が回復してきて、大きな企画で予算が出来たら試してみたいとは思ってます。
そうだ、もしかしたら見栄え的にはTubaよりSousaphoneの方が、象に見えるかも知れないと今思っちゃった(爆)。白いものもあるし(爆)、でもこう言うのを自分で持って居るひとはいないんだろうね。
今度この作品でTubaを吹く古本君に相談してみよう。即却下だとは思うけど(爆)
この楽器を知らない人は上のlinkでもそこそこ見られるけど、画像検索でsousaphoneを探しておいたので、に行って見てください。
いつもの通り、記事と写真には関連性はありません。

吹殻と吸い殻はきっと違うのだろう。 - 2011.03.26 Sat,22:41
まちがっても「吸奏楽」とはならない、これじゃハーモニカしか音が出ないよな(爆)
それで、今作曲中の“オツベルと象”の練習を今日も役者達とだけでやってみたのだが、楠定憲の指摘で、僕が譜面に書いてあったオツベルの最初の描写で、
「そのうすくらい仕事場を、オツベルは、大きな琥珀のパイプをくわい、吹殻を藁におとさないやう、眼を細くして気をつけながら、両手を背中に組みあはせて、ぶらぶら往ったり来たりする」
というところがあるのだが、その大きな漢字のところを、吸い殻と勝手に変換していたことに今日気づいた。
たしかに煙草ではないので、煙草を長時間吸って先端に出来る灰でもなく、道ばたに落ちている煙草は「吸い殻」とは云うが、たぶんこの場面ではそういう類のものではなく、元々Pipeに葉っぱを詰めたところの葉っぱの一部、火の付いた部分を云うので、それは吸い殻とは云わないので、それを吹殻というのかもしれんが、netの検索でしらべても引っかかってくるのはほとんど、宮沢賢治のこの“オツベルと象”の作品ばかりで、結局吸い殻と吹殻の違いが良く分からない。
みなさんの日常生活で「ふきがら」という言葉は流通してますか?
あるいは、テキストを読まないでこの作品を鑑賞する人に対して「吹殻」で通じるかな、なんて心配もしたりします。
まあ、引用して掲示した文章を見れば、オツベルはパイプを持って居ると分かれば前後関係で意味は通じるけどね。
写真と本文には一切の関連性はありません。
これは白馬の眼です。この子の眼です。
毎回自転車で八王子の龍谷寺に向かう途中、JR横浜線の相原という駅と八王子みなみ野の間にある坂、鉄道はその中をトンネルになっていますが、そこを登る手時にある馬術俱楽部の馬です。

停電中だからこそ練習してたのに(爆) - 2011.03.23 Wed,21:08

頭に付けるLEDのランプを昨日ホームセンターで見つけたので今日初めて使ってみた。
練習をすこししてセルフタイマーや頭の上に持ち上げたりして撮影し、アップロードしたらきちんと練習しようと思ったその時、凄く早く停電は終わってしまったので初日は拍子抜けだったが、今後のためには良い予行演習だった(爆)
ちょっと見えて居る譜面は新作“オツベルと象”だ。
結構このランプは明るいので返ってこの暗さの中では集中できるかもと思った。

右からどんな感じに頭に着いているか撮してみた。
炭鉱夫ピアニストだ。
そういえば、阪神大震災の前の年、実は六甲山をくりぬいてコンサートホールを建設するというプロジェクトがあり、その最終実験で、神岡鉱山の廃鉱(今はスーパー・カミオカンデになっている)に入って地下数百メートルでキーボードを弾いた仕事があった(震災とともにその計画も消え去った)から、世界でも珍しい炭鉱の中で弾いたことのあるピアノ弾きではあるのだ(爆)
しかも昼に外に出たときに着ていた自転車のSPECIALISEDのWindbreakerを着たままだからなおさら風体が妙で、誰もピアノ弾きだとは思わないだろう(爆)
しかも俺の自転車はCANNONDALEだし。

反対側のもう一台のpianoの上には猫がいたが、そっちを向くとまぶしがって落ち着かなかった。
停電にならないとMacの前でtwitterとかに繋いでしまうので、かえって練習しか出来なくなるので僕のためには良いと考えることにしよう。
交通機関も間引き運転だしガソリンも入らないから乗る回数が凄く減ったしそのおかげで、スピード違反で捕まることもないし、自転車に乗る回数が増えるし、この際こういう状態を通常だと思うことにしないとね。
