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ドビュッシーの管弦楽のための「映像」は、今まで感じたことの無い感覚の中で終わりました - 2012.09.07 Fri,23:59
下の写真は、開演直前の玄関の様子です。
前にも出した、以下の写真の噴水の向こうからこっち側を撮りました。
何と書けば良いか判らないのですが、今まで長年orchestraの中でCelestaは弾いて来たんです。
でも、今日は何か根本的に違う世界に居た気がします。
それは自分が成長したとか言う問題もわずかの割合で感じ方に影響を及ぼしているのかも知れないけど、どう書こうかな、、、
チャイコフスキーの「金平糖の踊り」がこの世でCelestaという楽器のために書かれた最初の作品であることは周知の事実なんだけど、それとか、ホルストの惑星の中の印象的なCelestaなんかは、「ピアノを弾く延長線上にある世界観」と書けば良いのかな、、、。
Celestaは今までも何度も書いてきたけど、そういう意味でピアノを弾くということと繋がっている楽器でもあるが、orchestra全体の音色のパレットの中で、特にドビュッシーやラヴェルの書いた音の中に於ける役割は、あるときは、光だったり、あるときは水滴だったり、波のしぶきだったり、そこに、「演奏者の名人芸が反映する世界」とでも言おうか、そういうものとは全く無縁の、「色の要素」に過ぎない「素材」であることが良くある。
そういう事も知った上で、でも、今日は今までとは違う感覚に包まれていた。
違うというのは、この直前の段落で書いた「素材」ということを否定するという意味じゃ無くて、その先に見えたものを感じたとでも言おうか。
たしかに金平糖の踊りや、惑星、そして最近では、映画「ハリー・ポッター」の「ヘドヴィックのテーマ」のソロ部分を弾いている喜びは何度でも味わいたいと思うが、そこには、書いた通り「Solo」としてorchestraの中で抜きんでた瞬間を楽しんでいるところがある。
しかし今日弾いたドビュッシーの音は、こんなにも繊細な全体の中で溶解するCelestaの音を聴いたことがあるか、と思うほど弾いていてぞくぞくしたということです。
曲が終わるのがもったいないという感覚です。
これはピアノを弾いている時に味わう喜びではありません。
この曲をピアノに編曲されたものを弾いても味わうことはできません。
弦楽器、管楽器、打楽器、ハープの全体が混ざった「空気」の中にチェレスタの音が、ハーブの様に隠し味として入っていることの充実感なんです。
あるいは、演奏されている全体の音が、クリスタルのコップにつがれた水で、とっても響きの良いモスクみたいなところで、一滴の水が上から垂らされて「ぽちゃん」と音がする、それがチェレスタなんです、というたとえがいいかなあ。
「俺が」弾いているという事はどうでも良い。
そこには自己主張とかいう世界もない。
ただ、最高に透明な、人に寄ったら全く聞こえてないかもしれない小さなチェレスタの音の中に、しかしながら、これが無いとこの曲の全体が崩れるというか、それはチェレスタだけじゃなく、他のすべての楽器の有り様もそうだから、最後指揮者のアルミンク氏がすべて独奏的な部分を弾いた人を立たせたのには意味があったわけでしょう。
こんなに良い曲なのに、なぜこんなに演奏されないのか実に残念です。
ドビュッシーという男の頭の中に鳴っていた音というのは、視覚、触覚、味覚、嗅覚まで含んでいる様な、単純な音じゃない、音なんだよね。
残念ながら今日は空席も見える満員とは言えない状態だったけど、今日の演奏は相当ご機嫌だったはず。
この曲なら毎週演奏会があっても良いよって感じだ。
穿った書き方をするならば、「牧神の午後への前奏曲」をピアノ弾きが聴いていて、あの夢の様な、そして絵で言えば、光と影の描き方のグラデーションが凄い世界に対して、編成にピアノがないから、自分がそこに参加できないジェラシーを感じていたものが、同じような世界に今度はチェレスタで彷徨うことが出来た喜びとでも書こうか。
こういう世界に居ると、なんてピアノってデリカシーの無い楽器だろうと思ってしまったりもする(爆)
もちろん、またピアノに戻れば、「ピアノしか出来ない世界」に酔うことになるのは判った上で書いているのだが。
子供の頃からラヴェルはすぐに好きになったが、ドビュッシーとフォーレは興味を持ったのが、二十代半ばで、本当に好きになったのはどうだろう、二十代後半からだけど、今日で、その「好き」という強さはこれまでの10倍は強くなった様な気がする。

上の写真は今日の練習の始まる前のものです。
今日はまるで初めてorchestraで弾いたとか、初めてCelestaを弾いた、とかの感動を持って帰る事ができました。
ふと思うと、最近光や色について、毎日写真を撮ることに執心していることと、こういう風に今まで聞こえなかった様に音楽が聞こえてくる様になった事には、思い込みだと言われそうだけど、絶対に関係があると思っています。
でも思うな。この感覚って、きっとヤマハやシードマイヤーのCelestaでは味わえないだろうと言う事。
楽器としては一番不完全に出来てるこのMustelだからこそのドビュッシーなんだよね。
チャイコフスキーと同時代に生きていたわけだから、彼にとってもこの楽器は最新兵器だったわけだ。
この楽器に巡り会えてラヴェルもドビュッシーもその管弦楽曲にスパイスが利いたわけだ。

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