きゃらが帰ってきましたが - 2011.10.26 Wed,07:52
でも自力で家のそばまで来たのかなと思うと、褒めてやりたいです。
早朝にけたたましく家のベルが鳴り、そとに出てみると隣のお家の方が、号泣しながらきゃらめるを抱いて立っていました。
すぐ前の駐車場に居たとの事です。
色々届けをだしたり、迷い猫サイトをみたりチラシを作ったり、その為にパウチする機械も買いましたが、こうなるとは、
9年間癒しをありがとう。
そして助けられなくて本当にごめんね。
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悲報、そして胸騒ぎ - 2011.10.25 Tue,10:17
音楽家として尊敬する叔父が亡くなってしまった。
親戚筋やニュースを見ると癌ではなく、脳出血だったそうだ。
藤家虹二@Mr.Clarinet
blogも去年の3月で停まってた。
癌のページにも特集されてた。
Jazzの世界でとても有名なのだが、若い人は知らないだろう、この人はクラシック音楽の登竜門、日本音楽コンクール(昔は毎日コンクールと呼ばれていた)の管楽器部門の最初の優勝者なのである。
コープランドの協奏曲を初演したのも叔父だし、バルトークのContrastsを初演したのも彼だったとは今日知った。
(共演している植木三郎さんは元新日フィルのコンサートマスターだったし、本荘玲子さんといえば、長年N響の鍵盤を担当された名ピアニストで二人とも僕も共演はあった。)
YouTubeを探しても沢山彼のすばらしい演奏が出てきます。
ジャンルの壁を越えて活動した音楽人生でした。
親戚の集まり以外ではほとんど会わなくなっちゃっていてもうだいぶ会っていなかったが、Jazz系の知り合いから、最近の演奏は「神がかっている」と異口同音に聴いた。
その極みの演奏を聴けなかったのはすごく後悔している。
僕がどこかクラシック以外の音楽に傾倒しているのはDNAでこの叔父とどこかで繋がっているのもあるのかもしれない。
奇しくも、この間宮崎で、“どんぐりと山猫”を木管五重奏でやった後、演奏家達にFMつやま用のインタビューをした。
その中で現代音楽のスペシャリストがいるのだが、「この作品は色んな意味でバランスが取れている」と評してくれたことがある。
特に他の作品に比べて、若い頃に書いたので、周りの同世代の作曲家の流行というのは作曲の手段の選択でとても悩んだ。
でも、徹頭徹尾前衛のスタイルで書くことには抵抗があった。
実は子供の頃、ヨハン・シュトラウスなどの判りやすいクラシック音楽よりストラヴィンスキーやジョン・ケージの様な音楽を聴いて育ったので、前衛は身の回りに無数にあって、その抵抗というのは前衛が嫌いで、という意味ではなかった。
でもJazzには興味のなかった父とは別に、Jazzをやっていた叔父の世界に憧れは凄く持っていた。
“どんぐりと山猫”を書いたとき(22~3歳)、大学を演劇のコースに行ってしまったせいもあって、Musicalを知ってしまったこともあるが、客に納得させることの手段を、音楽のスタイルにも、そして、言葉を使うことで初めて聴く人にも40分飽きさせないでなんとかできないかということを考えた。
僕は本格的にJazzを勉強しているわけじゃないが、クラシック音楽の規範としての父の存在(作曲家)と、アンチテーゼの様に、教会の息子だったが、あの時代はJazzなんて不良のやることだといわれながらそれで日本一と言われる様になった叔父の存在が、僕に影響を及ぼした事は間違いない。
だからかなりあの作品の中には現代音楽のスタイルも入っているのだが、おおむねポピュラリティのスタイルで包まれている作品になった。
“セロ弾きのゴーシュ”以降の作品にはそういう悩みは一切なかったが、そういう意味じゃ、クラシック音楽に聞こえないスタイルの方に最新作“オツベルと象”は向いているし。
でも判りやすいということを第一義的に考えたくはないのだ。
その辺が「バランスが良い」と評してもらったことにも繋がるのだろうか。
そんな事を書くと、何も教えてもらっていない叔父、そして音楽家としての僕についてはまるで存在を認めてもらってなかった叔父に一笑に付されそうだ。
父も居なくなり、これで叔父も亡くなってしまい、叔父の息子さんたちは、賢明に音楽家の道をあゆまなかったし、あと従兄弟が一人、アマチュアだけどドラムスの手練がいるだけで、父方も音楽家は一人もいないわけで、別に僕にも子供がいないからこれで終わりなのだが、なんかちゃんと音楽しなきゃという気持ちが改めて湧きました。
髪の毛の色と小太りなところだけ叔父に似ていて(爆)それ以外の才能はまるで受け継いでないけど、叔父の甥であったことを誇りに思います。
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ジーン・シモンズ訃報、そしてカミーユ・モラーヌ訃報、そして、、、 - 2010.01.24 Sun,22:54
ジーン・シモンズといえば、僕にとっては、4月に演奏することになっているMusicalのGuys & Dollsの映画版で、主役の四人の中の一人、救世軍の軍曹サラ・ブラウンの役をやっていた美人女優である。
その仕事に関わらなかったらきっとこの訃報もそんなに目にとまらなかったかもしれない。
なんか、まったく脈絡は無いのだが、自分がとても好きになって、独奏のレパートリーに、カタローニャの作曲家、フェデリコ・モンポウを取り上げたばかりの1987年頃だったか、演奏会の翌日だかの朝刊に訃報がでていて、全く海の向こうの接点の無い人なのにその訃報を知り合いのそれと同じように感じたことがある。
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おちじゅんさん、永遠に - 2008.07.29 Tue,08:01

2004年の京都市交響楽団と関西を廻ったビバ・バーンスタイン!"Viva Bernstein!!と2007年のシエナ・ウィンドオーケストラのツアーで佐渡裕ちゃんやドラムの則武裕之さんとご一緒したジャズ・ボーカルの越智順子さんが病気でお亡くなりになったようです。
二月に大阪にベガーズ・オペラの公演で一ヶ月滞在したときにお会いしようと思っていたけれども、入院されていて叶いませんでした。
その後6月くらいに佐渡ちゃんから電話があり、容体は非常に芳しくないとの知らせがあり、二人で心を痛めていましたが、今朝の朝刊に訃報が出ていました。
ちょうど僕らが龍谷寺で試演会をしていた日でした。
今年は僕のいとこも病気で亡くなりどこか地に足がつきません。
両方とも僕が人の前でピアノを弾いている日でした。
偶然かもしれないけど両方とも弾いていてなんか自分の内面でありえない力を感じた瞬間がありました。
写真は、2004年に京都市交響楽団でリハーサル中、休憩時間に河原で二人で弁当を食い、リラックスしているときに撮ったものです。
彼女の歌は本当にすばらしかった。
偉大なジャズ・シンガーでした。
シエナとのDVD(CDには残念ながらない)に納められている越智さんの歌ったバーンスタインの、On the Townのなかからの"I can cook too"とか、"Some other time"は忘れられない。
しかも後者は、まさに「またいつか」ってさあ、、、
彼女の残したCDを聴くと本当に世界的な歌手だと思います。
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パバロッティさんとの記念写真 - 2007.09.09 Sun,01:32

翌日の7日に神田にあるオペラサロン・トナカイに行って弾いていた(その日はソプラノの猿山順子さん、服部礼子さん、バリトンの笹倉直也さんと共演した)ら、休憩中、常連のお客様から「今朝の読売新聞に白石さんの写真がでていたわね」と言われ、何の写真か訊いたら、パバロッティ氏の訃報の記事の写真の端っこに僕が映っていたそうだ(爆)
そうか、2002年の日韓サッカーワールドカップのおり、横浜アリーナで、「三大テナー」のコンサートが、スーパー・ワールドオーケストラという多国籍のメンバーによる編成のオーケストラで弾いた時の写真が使われたのか。
今日その新聞(9/6の読売新聞)をLessonの時に持ってきてくれた人がいたので、確認したが、ドミンゴさんの右手が僕の右手に見えて、顔に重なって映っているピアノの蓋がまるでハーモニカにみえて、ハーモニカを吹いているようにも見えた(爆)
あの年のあのオーケストラでは、三回コンサートがあって、この他にポップスコンサートで、ハリーポッターの反吐ヴィック、じゃない、ヘドヴィックのテーマをチェレスタで弾いたり、そうそう、五木ひろしさんや大貫妙子さんのコーナーもあって、その歌声にも感動した楽しい仕事だった。
アンコールに「寅さんのテーマ」をやったが、クラリネットのイタリア人(だったと思う)がやたらそのメロディーをリハーサルで気に入っちゃって、リハーサルが終わっても一人で歩きながらコブシをつけて実に上手に吹いていたのが印象的だった(爆)
あと、別の日の「第九」の演奏会では、もちろん鍵盤はないので僕は必要ないはずだったけど、ロリン・マゼールの指揮の独唱者のリハーサルにつきあわされて、ふだん弾かない第九の数カ所を弾いたことも思い出した。
マゼールさんもすごい存在感だった。
三大テノールに話を戻そう。
そうだ、その第九のリハーサルの前だか後だかに三大テノールのリハーサルが入ってたんだけど、渋谷のオーチャードホールだったけど、三人ともマイクなんかはもちろんつかわず「出し惜しみなしに」めいっぱい歌っていたのが意外だった。
もっとリハーサルは「歌わない」と思っていたから、、。
まあ、一生あの人たちとは二度と巡り会わないとは思っていたけど、この訃報のニュースで、「思い出の写真」に巡り会えたことは素直に喜ぶことにしよう。
昨日は、そういう個人的な思いから、追悼にふさわしいと思われる曲を独奏で弾いてみた。
蛇足だけど、写真の僕の右に映っている、ああ、名前忘れたけど、世界的に有名なティンパニーの人の音は、かつて聞いたことのない迫力のある音がして横で興奮していたことを思い出しました
記事や、記事の写真をここに引用したかったけど、「自分」が映っているとはいえ、色々肖像権、著作権のこともあるだろうから、代わりに当時使ったパート譜のバインダー写真を掲示します。
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★2006/10/23武満徹作曲“グリーン” - 2006.10.21 Sat,23:31
数日前からリハーサルが行われているんだけど、今年は武満徹さんの管弦楽曲に触れる機会がいつもよりは多いような気がする。
それは没後10年だからかなあ。
10年前、今年と同じくアメリカからWestside Storyのカンパニーが来日していて、その公演期間中に訃報が入り告別式に行った想い出がある。
5月の終わりにバンベルク交響楽団のエキストラ奏者として笙の独奏と管弦楽の作品“セレモニアル”のチェレスタを弾いたし、9月にはやはり新日本フィルハーモニーの仕事でサントリーホールの開館20周年記念のコンサートシリーズのオープニングに、自分のパートはなかったけど久々に“ノヴェンバー・ステップス”を聴いた。
今回の作品も実にデリケートな音が現れては消えていく。
仕事として面白いと思うのは、一応メインはチェレスタなのだけど一瞬ピアノに乗り換えて弾く場面があるのだけど、それはわずか2小節くらいしかない(爆)
どのくらい聴いている人に印象に残るのかわからないくらいだ。
周りが黙っていてピアノだけという感じでもないし。
というかその数秒のためにピアノを借りてもらうのは悪いくらいですな(爆)
でも弾いていると、きっとどうしてもここはピアノの音が欲しかったのだろうなと本当に思うし、違和感があるわけでもなくその音はチェレスタじゃない根っこを感じます。
でもチェレスタはハープと連動していたりフルートと連動していたりあまり「裸」で鳴っているわけではなく、まるで絵の具を混ぜ合わせて独自の色になるように、なんらかの楽器と一緒に「色」の部品としてところどころでそこはかとなく鳴っています。
指揮者が西洋の人だからだとは思いたくないけど、どうしても譜面に書いてある複雑な拍子の処理への指示がオーケストラに来るのだけど、どうなんだろうなあ、もっと時間を超越した「間」の間隔、そして強弱の差とこのデリケートな音色の現れては消えていく、これこそ「わびさびの世界」(って自分だって日本文化を良く分かっている訳ではないけど)って感じに「演出」して欲しいなとは思っちゃった。
油絵ではキャンバスがむき出しになることは基本的には無いでしょう。
つまり対象物の背景には絵の具が満たされて「ないはずのものが『存在する物』、この場合は絵の具、で埋められている」世界です。
でもこれは墨絵に近い世界観があって、音が無いときは本当に何もないのであって、マーラーの交響曲にある「休符というポジでできたゲネラル・パウゼ」とは異質の物なんだよなと思った。
その何もないところからかすかな音から時に強烈なダイナミックスまで成長したかと思うと前触れもなく消えていくそのプロセスは、「フレージング」とか「論理的な主題の展開」というものとは違って確かに西洋音楽のスタイルだから拍子記号は書いてあるんだけど、縦の線がぴたっとあったって、それよりもっと「感じなければいけないもの」があるような気がしました。
バンベルク交響楽団の時も思ったけど、音が出ている瞬間はとても綺麗なのです。
でも武満徹さんの音楽はその音が産まれてくる直前や直後に現れる静かなる沈黙がすこぶる綺麗に実感を伴って聞こえてくるような世界であることを、つまりもっと「休符の間も進んでいく音楽ではなくてそういうときは時間が停まっている音楽」のキャラクターもあるように楽国の人の棒をみながら思いました。
今思い出したけど、かつてミシェル・ベロフというすばらしいフランスのピアニストが武満作品の独奏を弾くのを聴いたとき、「油絵だ、これは」と思ったことがありました。
それは否定的な感想ではなく、僕が好きな高橋悠治さんのそれとは質感が根本的に違うなあとおもって実に興味深かった。
同じ事は僕ら日本人が西洋の音楽を弾いてネイティブの人が良くも悪くも違和感を感じるのと同じなんだろうと思います。
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岩城宏之さん逝去 - 2006.06.14 Wed,01:21
あれだけ有名な指揮者でいらっしゃいましたから、少なくともオーケストラの仕事をしている日本の職業音楽家は会ったことのないひとの方が少ないでしょう。
僕のようなカスのような音楽家にとってもご夫妻共々個人的に演奏会を通じて共演や一緒に飲んだりしたことの想い出がありました。
いちいちここで具体的な想い出をつづる気には今はなれないし、きっと昨日から無数のブログやBBSで同業者達がなんらかのコメントを飛び交わしているので、僕の想い出を綴ったってもっと近しい人たちのものを読んだ方が見る人にとっては興味深いエピソードに出会えると思います。
武満さんや黛さんのといった自分となんらかの関わりがあった偉大な音楽家の訃報に遭遇するたびに考えを新たにするのは、自分が音楽をなりわいとし、そこで通常のお付き合いとは違い、なぜか幸運なことに音楽を一緒にするチャンスにめぐりあった一瞬は、この職業の誇りであり、神に感謝せねばならぬと思うのと同時に、それは本当に一瞬であって、同じ事は再び起こることは少なく、それは突然永遠の想い出になってしまうことがあるので、仕事なんだから、「日常の一こま」に過ぎないことなんだが、一回一回の本番はもうそれで死んでも悔い無しというくらいな気概でたちむかわないと「次回」は望んでも再び訪れないものであることを。
最後の共演はアンサンブル金沢での15周年記念演奏会だったのかなあ。
ハリー・ポッターのヘドヴィックのテーマのチェレスタなどだったか、東フィルで電子楽器で弾いたレスピーギのローマの松だったかさだかではないなあ。
そんなことどうでもいいや。
ときに厳しく、時に「楽隊」の勇猛果敢な武勇伝、照れ屋で愛妻家で、書いた本のレトリックは本当に面白かったです。
どうもありがとうございました。
一日が過ぎるとそこで前のことは何気ないことでも命をかけて挑戦したことも、全部過去の想い出になるわけだ。
過去を振り返るなと良く言われるけど、過去の上に未来があるわけだから、決して忘れてはいけないことがある。
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ナム・ジュン・パイク氏の訃報 - 2006.01.31 Tue,12:28
輝かしい経歴には出ることは無いけど、実は彼は僕の父に若い頃作曲を習いに来ていた縁があり、その後ヨーロッパやアメリカで活動されていたが日本に来るたびに時間があると家に来てくれてとても優しくしてもらった記憶があります。
しかし風貌からも言動からもああいう「天才肌」の人にはなかなか出会えるものではないです。
レッスンに来ていた後、右足は自分の靴、左足は父の靴を履いて帰り、駅まで行ったところで気づいて戻って来たとか、母親から聞かされたこともあるし、彼の送ってきた実にアーティスティック(ある意味とても子供の絵のような)な年賀状とか、思い出は尽きません。
60年代だったと思うけど、青山の草月会館でピアノを破壊するパフォーマンスを見たときの衝撃は凄かった。
小学生のころだったのだけど、もちろん会場で子供は俺くらいなものだったのだけど(爆)後ろで見ている親とは離れて、子供らしく「前で観たい」という気持ちで最前列で観ていたが、だんだん行為が激しくなりピアノ(たぶんもう商品価値のかなりなくなった縦型ピアノを持ち込んだのであって、会場の楽器ではないよもちろん(爆))をのこぎりや大きなハンマーで破壊する音に恐れをなして、親のいる方に向かった直後、ピアノが僕のいたあたりの客席に落下していた様な記憶がある。(爆)
すごい時代だったな、60年代。
今じゃ絶対にありえない。
その行為(楽器を壊すなんて!)を道徳的・倫理的にどうこう言うべきではなく、彼の名前と仕事をネットで検索すれば、如何に面白い発想でいろんなことをしてきたか理解出来るであろう。
仕事相手、ではない関係だったせいもあるだろうけど、その過激な行動とは裏腹に、お話しすると、極めて優しいおじさまでした。
前にこのブログで、「誰もやっていないこと」をするということは目立つ反面、それを評価するのに比較するものがないから、ちょっとうさんくさいことも少なくはない、みたいなことを書いた記憶があるが、彼のやってきたことも、それに対する妨害や批判のなかで負けることなく、一貫してやり続け、確実にパイオニアとして歴史に爪痕を残したわけだから、これからは歴史上の人物として、まるでコクトーやサティ、デュシャン、ケージたちのように、「時代を超えた価値感を創造し、ジャンルのボーダーを超え、その独自の世界観」が芸術のあり方にとって決して無視して通り過ぎることの出来ない1人として語り継がれていくのだろう。
彼の名前を知らないひとは名前で検索したり、フルクサス(検索すると、ジョン・レノンと結婚する前のオノ・ヨーコさんもヒットするよ)とかでいろいろ彼のやってきたことを俯瞰出来ます。
彼のやっていたことと僕がやっていることは何一つ共通するものはないが、ものすごく明晰な頭脳と、子供の心のまま大人になったような彼の「存在」は僕の意識化の奧に、一つの規範として、影響を与えてくれた「近しいおじさん」としてずっとあったし、これからも「迷うことなく続けていれば何かが生まれる」ことのよりどころになるだろう。
そういえば、高校か大学のころ、これからの人生の選択にまだはっきりしたものが見えなかった頃、優しい眼で色々助言をくれたことを思い出す。
破壊行為の先に何もない、というのではなく、硬直した世界観をリセットして、その行為の結果、とても面白いものが芽を吹くという、真に「創造的なアヴァンギャルド」を実践している芸術家に子供の頃に出会ってしまったから、単に奇をてらっているような、前衛芸術を標榜するパフォーマーには、ちょっとやそっとでは心が動かない。
本当の即興とかそういう類のものは、相当綿密な思索や計画の元に成り立っていると思うのです。
冥福は僕が祈らなくても大丈夫(意味不明)だとは思うけど、もう一度会いたかったなあ、パクおじさん。
現場でどういう人だったかは、偶然みつけたこのページにあったりします。
このページの彼の書いた「絵」みたいなものと似たようなタッチの「年賀状」がたしか実家にあったなあ。なつかしい。
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死について、すなわち生について - 2006.01.24 Tue,03:15
******
これほど「死」に直面した一年はなかったかもしれない。
この問題については書き出したら途方もなくなりそうなのだが、自分の父の死に遭遇していたのだ。一月の終わりだった。
初めて目の前で人の死ぬのをみた。
しかしそれはクモ膜下出血による突然のことであったが、自分の父親の死としては、なかなか感銘をうけた。
変な書き方だが、まさにpoco a poco diminuendoしながら、生きている炎が消えていくのを観るのも不思議な気持ちだったが、それまで意識不明で「生きていたとき」の決して「楽そうに見えない表情」よりも亡くなったその後のあの平安な顔の表情が今でも脳裏に焼き付いて離れない。
それもよりによって当時の俺がめったにしない作曲(今じゃお蔵になった劇音楽作品、絶対にそのうち別の作品として復活させる。)をしている時期で父の最期の直前まで顔をみながら音を探していたので、ある曲がその情景がいっしょにすりこまれてしまい、自分で演奏しながらどうしても父の最期を思い浮かべるようになってしまった。
その後、春になって信じがたいことだが、近しい縁故者の四歳の長男が交通事故にあった。
可愛い盛りなのにそれはそれは、歳をとった人間の死に立ち会うのとはまたかけはなれた悲しみだった。
ご両親の苦悩とその廻りの人たちに対して、この饒舌な俺がなにも言葉がでなかった、、、
毎日ニュースで子供が事故にあうことを見聞きはしていたが、当事者になるとこれは書きあらわせないものがある。
どうしてこうも続くのかと思っていたら夏に叔父が亡くなった。
癌だった。
とても好きな叔父で決して高齢ではなかったのでトリプルパンチはかなりのダメージがあった。
けっこう訃報になれていない俺は無気力になりそうになるくらい、きつかった。
俺は厄年だからそのせいかなと自分を責めてもなにもかわらない。
そして同じ時期、親友の母も逝ってしまったし、別の親友の父もつい先ごろの元旦に亡くなったそうだ。
ふたりとも僕らが共演をするときは必ずほほえみをもって聴いてくれたひとだ。
そういう年令になったのか、と割り切るには今年はパンチを受け過ぎだ。
近しい人の「死」にでくわすと、逆に普段は忘れているかもしれない自分の「生」について深く考えざるをえなくなる。
(98/12)の半ばに行われた、チャリティーコンサートの主宰者の大塚禮子さんが年末に突然亡くなってしまった。
なんということだ。当日お会いしたときは「私は不滅よ」といっていたじゃないか。
コンサートの翌日新聞にもとりあげられたが、みずからが癌にかかったこと、そして克服したことで決意をもち、その病気を撲滅するために始めたシリーズのコンサートだった。
今年の秋、ちょうど、ミュージカル「ローマの休日」の東京公演のころ、ひさしぶりに12月にチャリティーコンサートをするからその打ち合わせをしたいということで、ある夜、御夫婦とその姪の秘書と四人で食事をした。
いつもの調子で馬鹿話で盛り上がったときには元気だったのに、11月に突然再発し、コンサートにはこれないかもしれないと秘書には言われていたのだ。
(俺とはすでに知り合っていたが、俺が演奏していたことは彼女は築かず偶然ミュージカル「蜘蛛女のキス」を観にきて、もう凄い感動を覚えた話を後に聴かされたとか、だいたい92年のカザルスホールでのモンポウナイトのリサイタルにも俺が一人で弾いていることを知らないで来て眼をまん丸にして楽屋にくるような人だった)
ドクターストップがかかっていたのに無理をして車椅子でホールに来て、涙ぐみながら癌研に目録を渡した。
舞台に出る直前、ずいぶん痩せたな、とはおもったけど、「寅(自分の事をフーテンの寅になぞらえてよく話をしていたから)が来たからもう大丈夫だぜ!」と舞台袖で声をかけ、酸素を吸入しながら車椅子に座ったまま俺の手をにぎったときにいくつかかわした会話のあと、自分としては、いつもの数倍プレッシャーを感じてステージに一人ででていった。
病院にすぐにもどらなければならないのに、俺がピアノに座ったときの視線の延長線上に車椅子に座った彼女が見えた。
通常独奏だし、やはり演奏会の最初はとても緊張しているものだけど、あがっている余裕さえなく、お客さんがやたら盛り上げてくれたのでそのうち熱中したので、彼女がいついなくなったかわからなかったが、数曲は聴いてもらえたそうだ。
そして12/27の夜、仕事からの帰り、駅から自宅までの自転車にのりながら彼女が亡くなったという連絡を受けた。
携帯電話を持ちながら思わず天を仰いだ。いつもより星がはっきりみえた。
あの演奏が、「ある人の生涯の最後に聴かせた『生』演奏」だったとすると、なんかとても重いものを感じる。
と言うか、自分の人生に照らし合わせても一回一回の本番で自分が発信する音楽のメッセージがその人の人生になんらかの「意味」を与えられていたのか、とおもうととても恐くもなる。
普段演奏する時に「自分がどう思われるか」とか、「上手くなりたい」とか、曲の解釈が正しいの正しくないのとか自己表現だとかいうことに思いをはせてしまいそうなのだけど、これ以来思った。
こんなちっぽけなものに終始していてはいけないのだ。音楽をするということは。
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